2015年5月27日水曜日

冊子「ことばの映画館 第3館」制作キックオフ=ミーティング!

5月24日に冊子「ことばの映画館 第3館」の制作に向けたキックオフ=ミーティングを開催しました!


ことばの映画館の概要説明などを参加希望の皆様に説明させていただきました。

たくさんの希望者の方々に集まっていただきましたので、次回第3館はさらにボリュームアップするかもしれません。



ご期待ください!!

2015年5月25日月曜日

映画『恐怖分子』text高橋 秀弘

※このレビューは一部、結末に触れている箇所があります。


『恐怖分子』を観て

 ある早朝、現場へ向かうパトカーのサイレン。乾いた銃声が住宅街に鳴り響く。警察とチンピラの銃撃戦。近くの住宅の一室、起き抜けの若い男女のカップルに銃声は届く。彼女を置いて、現場にやってくるカメラを持った青年。妙に落ち着いている。いや、それとも無気力なのか。そこで青年は、逃走する混血少女にカメラを向ける。ちょうど同じ頃、市街のどこか別の場所では、ふたりの中年夫婦がいつもと代わり映えしない朝を迎えている。出勤間際、椅子に腰掛け靴を履く医者の夫。妻は小説家だがスランプで夜も眠れない。夫は妻を気にかけて話しかけるが、妻には気休めにもならない。出かけた夫の運転する車とすれ違うパトカー。映画はこうして始まる。

 この映画を終始支配している不穏さはどこからくるのか。映画を観ながら、まずもって思ったのはそのことかもしれない。それともうひとつ、これは三面記事の映画だと思った。

 冒頭のシーンに限らず本編を通して、映画はショットの断片としてつなぎあわされていく。若い青年と混血少女の出会いも、銃撃戦の事件さえ退屈な日常と化してしまった刑事の欠伸も、倦怠期の中年夫婦の朝も、写真(ショット)を一枚ずつテーブルの上で整理するかのように等しく並べられる。銃撃戦の理由も夫婦の倦怠期になった理由も説明されない。時折、ストーリーと直接関わりのないような画面が挿入される。銃撃戦の最中に回転し続ける扇風機、雨だれ、転がる空き缶、灰皿、レコードプレーヤー。それらは、ただその場に存在しているというだけで挿入されているように思う。

 音についていえば、実際に物語のシーン内で流れる音楽以外のBGMは無く、シーンごとの環境音もわずかにとどまる。台詞も極端に少ない。ただ状況がそこに映し出されている。

 等しくショットが同列に、あるいは並列に配されることで、出来事の起伏は平坦にならされ、ストーリー性は薄まり、情感は相殺される。削ぎ落とされた音が、都市らしからぬ静けさをもたらし、その中を時間が淡々と過ぎていく。カーテンや写真を揺らす風は予感に充ち、暑く湿る台北の街が乾いた街へと変貌している。映画を支配する不穏さは、均質化されたこの物語世界の秩序から立ち上るトーンなのだと分かってくる。さらに不穏さは発生源である秩序そのものを取り巻いている。

 だが、均質化されたはずのショット群は、ある一本のいたずら電話によって、脈絡のなかった登場人物たちが間違ってつなぎあわされてしまうあたりから、ざわざわと均衡を失い始める。やがてそこに鮮明でなめらかで鋭い罅(ひび)が入る。罅は一目で見渡せないくらいに過去へ未来へと伸びている。罅は、映画の始まりから潜在していたことを、不穏さは罅への高鳴りであったことを知覚する。そう、この映画では、匿名的な都市空間が作り出す秩序の、その構成要素である個々の断片が罅割れ、崩壊する様相が素描されている。都市にとって断片にすぎない登場人物たちの人生が、片隅で知らぬ間に、ただ一瞬の、かき消された悲鳴とともに崩れさる。だが、秩序にとって、崩壊はいささかも脅威ではなく、たかだか回復のための代謝なのかもしれない。崩壊と回復は都市のどこかで不断に繰り返されているのだ。

 都市はたんに秩序的ではない。それどころか、アナーキーさを併せもつ。そこに棲息する人と人との関係性がアナーキーである。あらゆる場所に先駆けて、あらゆる縁、共同体といった関係から、一歩でも何歩でも抜け出せる都市。その中で暮らす彼らは個と個として分断される。多層的な世界で、誰でもいい匿名の誰か宛の一本の電話で、異なる層の人間同士がつながってしまうように、そこにはなんら必然性はなく、偶然だろうが間違いだろうが、ともかく関係はどこにでも生まれるし、どこにも生まれない。好きなものとつながって、好きなときに切断する感性。かつて絶対的だったはずの家族すらもが希薄化される関係性のアナーキーさ。しかし、共同体との紐帯が切れた、バラバラの個は、自由であるがその実不安である。誰も自分を保護してはくれない。都市に匿ってもらいたくなる。秩序の足元を、まさか自由が支えているのだといえば、嘘になるだろうか。寄る辺ない彼ら登場人物たちにも、不穏さはまとわりついている。

 

 『恐怖分子』はするどい現実認識をもった映画である。肯定も否定もせずに都市の現実のありようをそのままに、そこに生きる登場人物たちを見つめている。

 冒頭でもほんの少し触れたが、大雑把にいえば、この映画は三面記事的である。スランプの女流作家の妻と、出世に目がくらみ同僚を罠にはめようとする医者の夫。夜の繁華街へ繰り出し、買春目当ての男どもをたぶらかし金をせしめようとする混血少女と、彼女の顔写真を壁一面に何十枚もパズルのように貼りつけて恋こがれる青年。ふたりはやがて一夜をともにするだろう。妻は人生のリスタートのために過去の男の元へと家を出(リスタートなのに過去に遡ろうとする)、夫は出世に失敗し、妻からも見捨てられることで絶望し、ついにピストルの引き金をひくだろう。

 これらは三面記事に相応しい奇妙でおよそ日常的には起こりそうもない事件である。だが、どこかで毎日起こりうるとも感じる。しかしながら、結局のところ「自分ではない匿名的な他者に起こりうる」という範囲と程度においてしか、「私」はその可能性を信じてはいない。読み捨てられた新聞や熱の冷めたワイドショーネタのように顧みられることもなく、一時の衝撃だけでそれも忘れさられる。だとすれば「私」が受けたはずの衝撃は、衝撃たりえず、それは単なる強烈な刺激でしかなく、刺激は消費されることで落着しようとする。しかし、飽くことを知らない消費のサイクルは次の刺激を求め始めるだろう。この無限ループのような消費サイクルを断ち切るには、自己自身をそのループの只中へと突き落とさなければならない。そうしなければ、やがて自分すら匿名化してしまうことになりかねない。

 映画に話を戻す。最終章、あの壁に飛び散る血飛沫が表すのは、まさに悲劇にほかならないが、それだけではないように思う。そこには絶望がある。絶望があるからには、希望なるものがどこかにあるのではないか。

 夫は分かりあえると信じているが、妻から「(不可能であることが)何で分からないの?」という拒絶のリアクションを受けてしまう。ふたりの将来のための出世にも失敗し、対照的に妻は新作小説が賞を受賞、再び脚光を浴びる。インタビューを受けるテレビの中の妻、見つめる夫のふたりの間の隔絶。事件の前夜、夫は友人の刑事と共にした夕食の席で、自分がついに課長に昇進したという嘘の報告をするのだが、「こんな嬉しそうなお前の顔を見るのは初めてだ」と口にする何も知らない友人の笑顔ほど残酷なものはない。

 この映画では、コミュニケーション不足といったレベルよりさらに根深い「分かりあえなさ」が重要なテーマのひとつになっているが、分かりあうことの不可能性に対して、登場人物たちは異なるスタンスを取っている。夫は分かりあえる可能性にかけ、妻は分かりあえないことに倦み、別の相手に可能性を求める。混血少女には分かりあいたい相手すらいない。いや、本当は片親である母親がその相手に違いないが、分かりあおうとする素振りは見せずに反発を繰り返す。カメラの青年は人並みに恋をするし元彼女とよりを戻すが、一貫して惰性的であり、分かりあうことの必要性にまだ気づいていない。登場人物たちの中で、夫である彼の態度がもっともひたむきではあるが、彼もまた妻のように「なぜ自分の気持ちを分かってくれないのか」という思いばかり先走り、全く気持ちが伝わらない。それでも彼は彼女と向きあおうとしていた。ほんの少しでも彼女に同じ気持ちがあったなら結末は異なっていただろう。だが、既に手遅れだったことを悟った彼はついに絶望してしまう。そして彼はピストルの引き金を引くことになる。

 いよいよ事件は起こるのだが、絶望の名のとおり、彼は希望をどこにも見出せなかったのだろう。だが、彼はひとつの行動を取った。その行動は彼の意思とは別のところで、半ば自動的に取られたのかもしれない。そうだとしても僕には、あの血飛沫が絶望からの無言の逃走のしるしに見える。謗りを怖れずいえば、それは絶望のはての最後の望みのような何かだったのではないだろうか。

 友人との最後の晩餐から、翌朝の事件が起こるまでの間の彼の消息は描かれていない。代わりに、もうひとつの結末が映し出される。それは、恐らく彼の夢想なのだが、内容は自分を裏切った上司、妻を奪った男への陰惨な復讐劇である。彼はひとり、どういう思いを抱きながらそれを想像したのだろうか。夢想の陰惨さが表すとおり、心は憎しみに焼きつくされようとしていたのだろうか。空白の時間帯の、彼の心境を推し量るすべはない。「こんなはずではなかった」という思いがよぎったかもしれないし、よぎらなかったかもしれない。分かっているのは、彼が取ったのは、復讐ではなく逃走だったということである。そして逃走は闘いでもあった。彼は絶望から逃げ切れなかった。

 最後の晩餐、終始穏やかな空気の中で、彼は友人と酒を酌み交わす。彼が嘘をついた理由は分からない。でも、その思いは今なら少しだけ分かる気がする。喜ぶ友人の顔を見たかったのだろう。そして彼自身もまた微笑っていたかったのだ。相変わらず顔は恐いのだが。

 

 『恐怖分子』の世界と私たちの現実世界は並列する。アナーキーなまでに、いつでもつながってみせるだろう。いや、既につながっているのだ。なぜなら、『恐怖分子』の抱える悲しみを知ったのだから。

 夜遅く帰宅した混血少女の母親は、プラターズの「煙が目にしみる」をレコードにかける。メロディーが流れる中、彼女は少女の部屋へ行き、起きていた少女の頬をそっと撫でる。暗がりで少女の表情ははっきりしない。母と娘。映画のもっともエモーショナルなシーンのひとつである。このシーンもまた、悲しい。だが、なにも悲しみは決まって暗いばかりではない。悲しみはふたりを包み込んでいる。※1

 今、ふたつの世界がつながっている。なすべきことは、ふたつの世界を互いに閉ざさないでおくこと。そのために、あのピストル事件が起こらなかった場合の可能性を考えなければならない。悲劇にカタルシスを覚えるでも、結末ばかりに目を奪われ戦慄するのでもなく(先にも述べたとおり、そのような戦慄は一時の刺激でしかなく、消費サイクルに組み込まれるだけだ)、閉じてしまわないで、何も起こらなかった彼の、その先の物語を真剣に想像したい。そして、およそ三面記事のような出来事は「私」の身には起こらないことを素直に認め、だが、罅割れる崩壊のプロセスは、今にも「私」のありふれた日常の事柄においていつでも起こりうるのだと自覚したい。何も起こらなかったからといって絶望が簡単に解消されることはない。反対に絶望は続き、それはそれは苦しみもがくことになるだろう。崩壊した後も、ありふれた出来事ばかり、悲劇も何も起こらない状況が延々続くのもまた絶望であり、既に直面していたりしないだろうか。「こんなはずではなかった」と自分を憐れむかもしれない。あるいは疲れ果て、絶望にすら麻痺してしまっているかもしれない。

 自身の可能性と引き換えに、彼が残した赤く染まった絶望という名の希望をもらい受け、つながることを、分かりあえないことを、一度は否定した自分の人生を、あるいは罅割れてしまった何がしかを悲しみを、それら一切を引き受けて、これからあの手この手どうにかやっていこうとする単純なことが、彼でも匿名の誰かのものでもない、「私」という自己自身の物語になる。



※ 1 脚本家・監督の相澤虎之助氏(空族)は、このシーンで、混血少女の母親が、煙草に火をつけるZippoライターに付けられたアメリカ軍第一騎兵師団のマークのバッヂから、台湾はもとよりアジアの歴史に落とすアメリカの影を鋭く読み取っている(「恐怖分子のZippo」キネマ旬報2015年4月上旬号より)。


(text:高橋 秀弘)




映画『恐怖分子』(デジタルリマスター版)




作品解説:銃声が響き渡る朝。警察の手入れから逃げだした混血の少女シューアン。その姿を偶然カメラでとらえたシャオチェン。上司の突然の死に出世のチャンスを見出す医師のリーチョンと、執筆に行き詰まる小説家の妻イーフェン。何の接点もなかった彼らだが、シューアンがかけた一本のいたずら電話が奇妙な連鎖反応をもたらし、やがて悪夢のような悲劇が起こる……。本作の構想は、シューアン役のワン・アンが実際に見知らぬ番号へいたずら電話をしたことがある、と監督に告白したことから始まったという。少女の何気ない行為が見知らぬ人々の平穏な日常生活を破壊するように、誰もがまた知らぬ間に他人を傷つける「恐怖分子」になり得るという、現代社会が抱える危機。結婚の破綻、少年少女の犯罪、不正行為、暴力の衝動。人々が日常のなかに隠していた狂気と孤独を描き出す本作は、独創的なミステリー群像劇である一方で、現代に生きる私たちすべてに通じる普遍的な人間ドラマである。

1986年:香港、台湾、109分

キャスト
イーフェン(周郁芬):コラ・ミャオ(繆騫人)
リーチュン(李立中):リー・リーチュン(李立群)
シェン(沈):チン・スーチェ(金士傑)
クー警部(顧警部):クー・パオミン(顧寶明)
シューアン(淑安):ワン・アン(王安)
シャオチャン(小強):マー・シャオチュン(馬邵君)


スタッフ
監督:エドワード・ヤン(楊徳昌)
脚本:エドワード・ヤン(楊徳昌)、シャオ・イエー(小野)
製作:リン・ドンフエイ(林登飛)
撮影:チャン・ツァン(張展)
編集:リャオ・チンソン(廖慶松)
音楽:ウォン・シャオリャン




公式ホームページ:http://kyofubunshi.com



2015年5月19日火曜日

冊子「ことばの映画館」vol.1,2

【販売情報】

冊子「ことばの映画館」は以下の店舗にて販売中です。


《映画館》
横浜シネマリン
下高井戸シネマ

《書店》
池袋:古書往来座
新宿:模索舎
神保町:矢口書店
中野:タコシェ
三鷹:水中書店



《通信販売可能店舗》
新宿:模索舎

2015年5月15日金曜日

映画『Mommy/マミー』クロスレビュー

 グザヴィエ・ドランの長編第五作品目である『Mommy/マミー』は、第六十七回カンヌ国際映画祭にて喝采と共に迎え入れられた。ドランは本作で審査委員賞を受賞。さらには今年のカンヌ国際映画祭では史上最年少の審査委員として抜擢されるなど、今や飛ぶ鳥をも落とす勢いの若き二十五歳の青年に世界中からのラヴ・コールが絶えない。日本では、六月六日から彼が自ら主演を熱望したという『エレファント・ソング』の公開が控えており、日本でもグザヴィエ・ドラン旋風が巻き起こっている。カナダ出身の若き俊英と評される、グザヴィエ・ドラン。そんな彼の最新作『Mommy/マミー』で伝わってきたものは、紛れもなく、切実な愛を求めるひとりの少年の叫びであった。

 
 本作は架空のカナダを舞台に、ADHD(注意欠陥・多動症候群)を抱える十五歳の息子スティーヴと、その母ダイアンの二人が、もがき苦しみながらもなんとか生きようとする姿を、瑞々しい映像と共に描き出す。
 
 冒頭の林檎を摘み取るシーンから、画面が非常に美しい。空気が澄み切っていて、透明感があり、空は青く、そして色鮮やかに、水や空気、そしてオレンジ色の柔らかな陽光がスクリーンを包み込む。だがその美しい映像とは相反するように、映画の中で描かれているものは、母子の間での怒鳴り合いや、生きていくことへの苦しみ、息苦しさに他ならない。スティーヴは紆余屈折ながらも、必死に母を求め、「僕を置いていかないで、ひとりにしないで!」と、懸命に訴える。満たされない思い、大人になれない心、それでも、こんな自分でも愛してほしいという、願い。グザヴィエ・ドランは、多くの人々が抱いたであろう、蒼き記憶の足跡を、その傷口にふれるかのように、そっと想起させる。

 愛してほしい。ただそれだけの、純粋で切実な、スティーヴの願い。その愛を確かめたくて、彼は時に怒鳴り、叫び、ものを投げては、行き場のないこの莫大に渦巻く感情を爆発させる。その鋭敏な刃(やいば)は、他者へ向かう時もあれば、自らへ向かう時もある。愛を確かめるためなら、彼は手首を裂くことも躊躇わない。その流れ出る血液は彼の悲痛な叫びそのものだ。

 でも、どうか忘れないでほしい。苦しい時も嬉しい時も、自分が成長する過程の中で、その感情に寄り添い、一緒になって笑い苦しみ、人生をともに歩んだ母がいることを。時に口づけしたくなるほど愛し、時に殺したいほど憎んだ、世界で一番あなたを愛するひとりの女性がいることを。「ママン!」と叫ぶスティーヴの目線の先には、どんなときでも、彼の声を受け止める母がいる。それが何よりの愛情のあかし。その首元には他ならぬ『mommy』と綴られたゴールドのネックレスが光り輝いている。

 グザヴィエ・ドランは、本作を多くの人々へ贈る。すべての母たちへ、ひとり果敢に運命に立ち向かおうとする女性たちへ、そして、母なる大きな愛に包まれ大人になった、いまを生きるすべての人たちへ。


グザヴィエ・ドランの心の叫びが胸に突き刺さる度:★★★☆☆
(text:藤野 みさき)

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 晴れやかだったり落ち込んだり。登場人物達の気持ちを表すかのように、画角は1:1から16:9に広がったり、縮まったりを繰り返す。確かに、画面が開けた瞬間は爽快な青空だったり、満面の笑みだったりが描かれている。それまでの息苦しさがふーっと抜けていく様な、明るい気分になったりもしてしまう。ただしかし、結局はその広がりも16:9が限界だということを感じてしまうと、依然としてそこには圧迫感しか感じられない。たとえどんなに幸せを感じていようとも、暗かった生活が明るくなろうとも、彼らの日々は決してスクリーンのサイズ以上に広がることはない。決して超えることのできない壁。画面という囲い。そこに、今作が抱える息苦しさ、切なさを何となく感じたりしてしまった。

 今作では、「架空のカナダ」という冒頭の設定を手始めに、とにかく母子が金銭的にも社会的にも、父親の早死や息子の病気やらなんやらも含めた諸事情でどんどん取り囲まれていく。生活が狭められ、いろんな悩みが体の自由を奪い、だんだんとできることは限定されていく。絞りに絞られ、果てはどろどろなのか、澄み切っているのか。1つ1つのシーンがとても濃厚であり、だんだんと息苦しくさえなってきてしまう。

 そしてエンディング―そこには最後まで、母親の溢れる愛に囲われた息子の姿が描かれているのであった―とそんな感じにまとめてしまってもいいものなのかどうか。

 1:1の画面には、飛び出してくるような迫力こそないものの、心の奥底がくすぐられるような感覚を味わった。


★★★☆☆
(text:大久保 渉)





『mommy』

監督/脚本:グザヴィエ・ドラン

制作年:2014年

制作国:カナダ

配給:ピクチャーズ・デプト




出演:アンヌ・ドルヴァル、スザンヌ・クレマン、アントワン=オリヴィエ・ピロンほか




【story】2015年、架空のカナダで起こった、現実——。

とある世界のカナダでは、2015年の連邦選挙で新政権が成立。2ヶ月後、内閣はS18法案を可決する。公共医療政策の改正が目的である。中でも特に議論を呼んだのは、S-14法案だった。発達障がい児の親が、経済的困窮や、身体的、精神的な危機に陥った場合は、法的手続きを経ずに養育を放棄し、施設に入院させる権利を保障したスキャンダラスな法律である。ダイアン・デュプレの運命は、この法律により、大きく左右されることになる。


公式ホームページ:http://mommy-xdolan.jp/intoroduction.html

2015年5月12日火曜日

映画『セッション』クロスレビュー

過大評価 


映画ファンの間では、本作が絶賛され過ぎている、と感じている。

音大生でジャズドラマーのアンドリュー。彼は当初、憧れていたフレッチャー先生の指導に、喜びを感じていたが、彼の、理不尽なまでのしごきに耐えかね、鬼教師を見返そう、とドラムに打ち込んでいく。アンドリューはそのためなら、恋人を捨て、父との関係性もぎくしゃくさせ、練習に没頭していく。

まずこの手の、「何者かに魅力を感じ、自分の全てをなげうつ」というお話で、非常に重要な、カリスマの描写において、本作は説得力に欠ける。フレッチャーには、観客と主人公とで共感すべき魅力が、絶対に必要だが、楽器の演奏、または指揮のプロという描写がない上、彼がバンドの士気を上げていく描写もない。その欠陥ゆえ、ラストの、あの素晴らしいシークエンスの魅力も、激減させる。

また、アンドリューのドラマ描写も、もろ手を挙げて絶賛はできない。彼の、殺気に満ちた練習描写も、血豆のつぶれた手、ドラムにしたたる汗、極端なアップの手や目の表現など手数が少なく、陳腐である。

ちなみに、監督のデミアン・チャゼルがP・T・Aを大好きなのは、ひしひしと伝わってくる。その辺りは微笑ましいところである。

白熱度★★★☆☆

(text:梅澤 亮介)

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われはロボット


 これはロボットの映画である。
 ドラマーを目指して音楽大学に入学したアンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)は、鬼教師フレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドに加入する。彼はフレッチャーのスパルタ指導にも耐え、主奏者の座を手にするが…。
 人物のドラマが弱い。ニーマン以外のバンドメンバーはほぼ名前もセリフもなし。ニーマンは恋人ニコル(メリッサ・ブノワ)とあっさり別れる。彼を捨てた母親も伏線ではない。
 一方「物」を描くとき、映画は活性化する。
 演奏シーンでは楽器と人間が同等だ。鍵盤と叩く指、管楽器と吹く口など、人と楽器が一体になったアップが連続する。ニーマンとドラムが切り返しされ、ドラムが人のようにニーマンと見つめ合う。言い換えればニーマンはドラムと同じく「物」。さらに、バンドメンバーの一斉起立、ドラマを叩くニーマンの手の上下動、フレッチャーの拳を握る動作、指揮の動作。こうした運動が繰り返される。
 機械のように定型化された運動を行う彼らは、人というよりロボットである。
 ニーマンはフレッチャーの支配を逃れて、自律した音楽機械として駆動する。そのときカメラ=撮影機械は、二人を高速パンとアップの連続で追随する。そして圧倒されつつスクリーンを凝視する私は、見るロボット=映画機械になる。これぞ映画を見る快楽。
 さて、人がロボットなら、フレッチャーの「セッション」(授業)はロボット工場である。そこでタイトルを考え直す。原題『WHIPLASH』は曲名であるが、無理やり分解すればWHIP「むち」LASH「激しく打つ」だ。LASHを行うロボットの映画なのだから、タイトルは原題通り『WHIPLASH』、または『われはロボット』とする。 

機械化度:★★★★☆
(text:高橋 雄太) 

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そうだね、プロテインだね


一言、「圧倒された」。

マイルズ・テラー演じる名門音楽大学に入学したドラマーのニーマン。彼の情熱は凄まじく、途轍もなく、尋常じゃない。自分は一流になれると信じて疑わない。そのためには、どんなことだって犠牲にする。

そんなニーマンを、自ら率いるバンドにスカウトするのは、J・K・シモンズ演じる伝説の鬼教師フレッチャー。彼のバンドの練習時の鬼っぷりは、常軌を逸し、支配的であり、恐怖そのものだ。目標達成の使命にかられ、バンドのすべてをコントロール下に置き、どんな手段をもってしてでも自分の理想に持っていこうとする。

実際に近くにいたら絶対に関わりたくない、そんな異常な二人が相まみえる。まさしく「セッション」だ。

奇しくも、両者ともにアカデミー助演男優賞を受賞したということで、鑑賞前、『セッション』における鬼教師フレッチャー(J・K・シモンズ)は、『愛と青春の旅だち』(1982)における鬼軍曹フォーリー(ルイス・ゴセット・Jr)のような役まわりかと思っていた。しかし、そんなシンプルなことではなく、全くもって一筋縄ではいかないものだった。さらに、ニーマン(マイルズ・テラー)は、ザック(リチャード・ギア)とは途方もなくかけはなれている嫌な奴であり、ニーマンの恋人となるニコル(メリッサ・ブノワ)は、ザックにお姫様だっこされるポーラ(デブラ・ウィンガー)とは雲泥の差の扱いだ。

そんな登場人物なのに、なぜか異常なほど引き込まれた。感情移入してしまっている自分に驚いた。そして、時に人生には、決められた枠にとらわれずに何かを成し遂げることも「あり」なんだというメッセージを強く感じた。やはり、どんなに酷い状況でも、情熱や使命に燃える姿には心を打たれるのかもしれない。「エヴィ(エブリ)バディパッション!」とはパッション屋良もよく言ったもので、誰しも情熱を持っていたい。そして、目標、夢、使命(ミッション)があれば情熱を注ぎ込むことができる。まさしくこれは「PassionとMissionのSession」だ!

とは言え、原題は“Whiplash”。劇中登場する曲名であり、鞭打ちを意味する。そのままのタイトルだとやはりしっくりくるかもしれないが、日本でおなじみの単語ではないので『セッション』となったのだろう。

ちなみに、『愛と青春の旅だち』の原題は“An Officer and a Gentleman”。
それになぞらえて、こんなタイトルはどうだろう。“A Psychopath and a Dictator”。
ちょっと芸がない。

それならば邦題は…、『魂と狂乱の激突』……、やっぱり無理だ。

拳をぐっと握って何かを止めたくなる度:★★★★★
(text:神原 健太朗)

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恐怖との戦い


正直言ってジャズのことなど何も分からない。ましてやドラムのことだってよく知りはしない。ジャズドラムのスティックの持ち方が違うことだって『セッション』を観て初めて気がついたくらいには、何も知らない。

だけどオモシロイ。
いや、だからオモシロイ、のかもしれない。

ジャズ・ミュージシャンであらせられる某・菊地さんがこの映画をこき下ろしていらっしゃるように、本作はジャズに精通、もしくはプロの方々からすると怒り心頭なくらい実状とはかけ離れているようだ。

それだけは何となくわかる。

だがこの映画は「ジャズがどういったものか」を伝えるために作られたわけではないし、それどころか見終わった後には音楽の映画ですらなかったように感じられるような作品だ。
これは監督であるデミアン・チャゼルが「音楽を介しての恐怖」を描きたかったとコメントしているように、その恐怖との戦いの映画になっているのだ。

音楽を介しての恐怖は、音楽教師のフレッチャーに集約されている。

怪物然としたフレッチャーと、それに食らい付き食い尽くそうともがく主人公ニーマンのボクシングであり、プロレスであり、喧嘩であり、戦争の映画なのである。
なので「ジャズはよく分からないから」と敬遠する必要はないし、むしろジャズを知らない人ほど純粋に楽しめる作品になっている。

それがジャズミュージシャンからは嫌われる要因のひとつになっているのかもしれないが、それでも映画作品として楽しめるようになっていることには違いない。

フレッチャー先生怖い度:★★★★☆
(text:くりた)

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 サスペンス、ホラー映画にはサイコパスや怪物が登場することが多い。1人(1匹?)でも充分に話は成立する。2人なら、さらにパワーアップしそうなものだが、『フレディVSジェイソン』(2003)のように、おバカ作品的扱いを受ける場合もある。しかし所謂サスペンスでもなく、2人のサイコパスが登場しながら、鑑賞後も余韻に浸り、しばらく座席を離れたくなくなる作品があれば素敵ではないか。それが『セッション』だ。

 主要人物2人は名門音楽大学講師フレッチャーとドラマー志望の新入生ニーマンで、音楽(ミュージック)サイコパスとでも呼ぶべきか。ニーマンは、音楽史に残る逸材を育てるという、フレッチャーの狂人的指導により、元来持っていた資質が完全覚醒してしまうのだが、サイコパス同士が争うのだから、セッションどころではなく、戦(いくさ)となる。その他登場人物やサイドストーリーは極端に影が薄く、2人のバランスの狂った内面がそのまま投影されているかのようだ。しかし、緊迫したやり取り、常軌を逸した行動が映像として、時に心の経絡秘孔を突いてくる。また同時に、両者間に介在する音楽により、音の波動、振動も身体に降り注ぐ。ドラムだからこそ為せる技かもしれない。

 芸術を極めるのに艱難辛苦が伴うのは想像できるとしても、完全にフィクションでしかありえない設定、展開であり、逆にフィクションだからこそ、ここまで出来たともいえる。まさにスクリーンで体験すべき「劇映画」である。

★★★★☆
(text:今泉 健)

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『セッション』
監督/脚本
デイミアン・チャゼル

製作総指揮
ジェイソン・ライトマン

製作
ジェイソン・ブラム

撮影
シャロン・メール

編集
トム・クロス

美術
メラニー・ペイジス・ジョーンズ

音楽
ジャスティン・ハーウィッツ

キャスト

マイルズ・テラー - アンドリュー・ネイマン
J・K・シモンズ - テレンス・フレッチャー
ポール・ライザー - ジム・ネイマン
メリッサ・ブノワ - ニコル
オースティン・ストウェル - ライアン
ジェイソン・ブレア - トラヴィス
カヴィタ・パティル - ソフィー
コフィ・シリボー - グレッグ
スアンネ・スポーク - エマおばさん
エイプリル・グレイス - レイチェル・ボーンホルト

作品情報:名門音楽大学に入学したニーマン(マイルズ・テラー)はフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。ここで成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然。だが、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった。浴びせられる罵声、仕掛けられる罠…。ニーマンの精神はじりじりと追い詰められていく。恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへと這い上がろうともがくニーマン。しかし…。

公式ホームページ:http://session.gaga.ne.jp