2015年5月25日月曜日

映画『恐怖分子』text高橋 秀弘

※このレビューは一部、結末に触れている箇所があります。


『恐怖分子』を観て

 ある早朝、現場へ向かうパトカーのサイレン。乾いた銃声が住宅街に鳴り響く。警察とチンピラの銃撃戦。近くの住宅の一室、起き抜けの若い男女のカップルに銃声は届く。彼女を置いて、現場にやってくるカメラを持った青年。妙に落ち着いている。いや、それとも無気力なのか。そこで青年は、逃走する混血少女にカメラを向ける。ちょうど同じ頃、市街のどこか別の場所では、ふたりの中年夫婦がいつもと代わり映えしない朝を迎えている。出勤間際、椅子に腰掛け靴を履く医者の夫。妻は小説家だがスランプで夜も眠れない。夫は妻を気にかけて話しかけるが、妻には気休めにもならない。出かけた夫の運転する車とすれ違うパトカー。映画はこうして始まる。

 この映画を終始支配している不穏さはどこからくるのか。映画を観ながら、まずもって思ったのはそのことかもしれない。それともうひとつ、これは三面記事の映画だと思った。

 冒頭のシーンに限らず本編を通して、映画はショットの断片としてつなぎあわされていく。若い青年と混血少女の出会いも、銃撃戦の事件さえ退屈な日常と化してしまった刑事の欠伸も、倦怠期の中年夫婦の朝も、写真(ショット)を一枚ずつテーブルの上で整理するかのように等しく並べられる。銃撃戦の理由も夫婦の倦怠期になった理由も説明されない。時折、ストーリーと直接関わりのないような画面が挿入される。銃撃戦の最中に回転し続ける扇風機、雨だれ、転がる空き缶、灰皿、レコードプレーヤー。それらは、ただその場に存在しているというだけで挿入されているように思う。

 音についていえば、実際に物語のシーン内で流れる音楽以外のBGMは無く、シーンごとの環境音もわずかにとどまる。台詞も極端に少ない。ただ状況がそこに映し出されている。

 等しくショットが同列に、あるいは並列に配されることで、出来事の起伏は平坦にならされ、ストーリー性は薄まり、情感は相殺される。削ぎ落とされた音が、都市らしからぬ静けさをもたらし、その中を時間が淡々と過ぎていく。カーテンや写真を揺らす風は予感に充ち、暑く湿る台北の街が乾いた街へと変貌している。映画を支配する不穏さは、均質化されたこの物語世界の秩序から立ち上るトーンなのだと分かってくる。さらに不穏さは発生源である秩序そのものを取り巻いている。

 だが、均質化されたはずのショット群は、ある一本のいたずら電話によって、脈絡のなかった登場人物たちが間違ってつなぎあわされてしまうあたりから、ざわざわと均衡を失い始める。やがてそこに鮮明でなめらかで鋭い罅(ひび)が入る。罅は一目で見渡せないくらいに過去へ未来へと伸びている。罅は、映画の始まりから潜在していたことを、不穏さは罅への高鳴りであったことを知覚する。そう、この映画では、匿名的な都市空間が作り出す秩序の、その構成要素である個々の断片が罅割れ、崩壊する様相が素描されている。都市にとって断片にすぎない登場人物たちの人生が、片隅で知らぬ間に、ただ一瞬の、かき消された悲鳴とともに崩れさる。だが、秩序にとって、崩壊はいささかも脅威ではなく、たかだか回復のための代謝なのかもしれない。崩壊と回復は都市のどこかで不断に繰り返されているのだ。

 都市はたんに秩序的ではない。それどころか、アナーキーさを併せもつ。そこに棲息する人と人との関係性がアナーキーである。あらゆる場所に先駆けて、あらゆる縁、共同体といった関係から、一歩でも何歩でも抜け出せる都市。その中で暮らす彼らは個と個として分断される。多層的な世界で、誰でもいい匿名の誰か宛の一本の電話で、異なる層の人間同士がつながってしまうように、そこにはなんら必然性はなく、偶然だろうが間違いだろうが、ともかく関係はどこにでも生まれるし、どこにも生まれない。好きなものとつながって、好きなときに切断する感性。かつて絶対的だったはずの家族すらもが希薄化される関係性のアナーキーさ。しかし、共同体との紐帯が切れた、バラバラの個は、自由であるがその実不安である。誰も自分を保護してはくれない。都市に匿ってもらいたくなる。秩序の足元を、まさか自由が支えているのだといえば、嘘になるだろうか。寄る辺ない彼ら登場人物たちにも、不穏さはまとわりついている。

 

 『恐怖分子』はするどい現実認識をもった映画である。肯定も否定もせずに都市の現実のありようをそのままに、そこに生きる登場人物たちを見つめている。

 冒頭でもほんの少し触れたが、大雑把にいえば、この映画は三面記事的である。スランプの女流作家の妻と、出世に目がくらみ同僚を罠にはめようとする医者の夫。夜の繁華街へ繰り出し、買春目当ての男どもをたぶらかし金をせしめようとする混血少女と、彼女の顔写真を壁一面に何十枚もパズルのように貼りつけて恋こがれる青年。ふたりはやがて一夜をともにするだろう。妻は人生のリスタートのために過去の男の元へと家を出(リスタートなのに過去に遡ろうとする)、夫は出世に失敗し、妻からも見捨てられることで絶望し、ついにピストルの引き金をひくだろう。

 これらは三面記事に相応しい奇妙でおよそ日常的には起こりそうもない事件である。だが、どこかで毎日起こりうるとも感じる。しかしながら、結局のところ「自分ではない匿名的な他者に起こりうる」という範囲と程度においてしか、「私」はその可能性を信じてはいない。読み捨てられた新聞や熱の冷めたワイドショーネタのように顧みられることもなく、一時の衝撃だけでそれも忘れさられる。だとすれば「私」が受けたはずの衝撃は、衝撃たりえず、それは単なる強烈な刺激でしかなく、刺激は消費されることで落着しようとする。しかし、飽くことを知らない消費のサイクルは次の刺激を求め始めるだろう。この無限ループのような消費サイクルを断ち切るには、自己自身をそのループの只中へと突き落とさなければならない。そうしなければ、やがて自分すら匿名化してしまうことになりかねない。

 映画に話を戻す。最終章、あの壁に飛び散る血飛沫が表すのは、まさに悲劇にほかならないが、それだけではないように思う。そこには絶望がある。絶望があるからには、希望なるものがどこかにあるのではないか。

 夫は分かりあえると信じているが、妻から「(不可能であることが)何で分からないの?」という拒絶のリアクションを受けてしまう。ふたりの将来のための出世にも失敗し、対照的に妻は新作小説が賞を受賞、再び脚光を浴びる。インタビューを受けるテレビの中の妻、見つめる夫のふたりの間の隔絶。事件の前夜、夫は友人の刑事と共にした夕食の席で、自分がついに課長に昇進したという嘘の報告をするのだが、「こんな嬉しそうなお前の顔を見るのは初めてだ」と口にする何も知らない友人の笑顔ほど残酷なものはない。

 この映画では、コミュニケーション不足といったレベルよりさらに根深い「分かりあえなさ」が重要なテーマのひとつになっているが、分かりあうことの不可能性に対して、登場人物たちは異なるスタンスを取っている。夫は分かりあえる可能性にかけ、妻は分かりあえないことに倦み、別の相手に可能性を求める。混血少女には分かりあいたい相手すらいない。いや、本当は片親である母親がその相手に違いないが、分かりあおうとする素振りは見せずに反発を繰り返す。カメラの青年は人並みに恋をするし元彼女とよりを戻すが、一貫して惰性的であり、分かりあうことの必要性にまだ気づいていない。登場人物たちの中で、夫である彼の態度がもっともひたむきではあるが、彼もまた妻のように「なぜ自分の気持ちを分かってくれないのか」という思いばかり先走り、全く気持ちが伝わらない。それでも彼は彼女と向きあおうとしていた。ほんの少しでも彼女に同じ気持ちがあったなら結末は異なっていただろう。だが、既に手遅れだったことを悟った彼はついに絶望してしまう。そして彼はピストルの引き金を引くことになる。

 いよいよ事件は起こるのだが、絶望の名のとおり、彼は希望をどこにも見出せなかったのだろう。だが、彼はひとつの行動を取った。その行動は彼の意思とは別のところで、半ば自動的に取られたのかもしれない。そうだとしても僕には、あの血飛沫が絶望からの無言の逃走のしるしに見える。謗りを怖れずいえば、それは絶望のはての最後の望みのような何かだったのではないだろうか。

 友人との最後の晩餐から、翌朝の事件が起こるまでの間の彼の消息は描かれていない。代わりに、もうひとつの結末が映し出される。それは、恐らく彼の夢想なのだが、内容は自分を裏切った上司、妻を奪った男への陰惨な復讐劇である。彼はひとり、どういう思いを抱きながらそれを想像したのだろうか。夢想の陰惨さが表すとおり、心は憎しみに焼きつくされようとしていたのだろうか。空白の時間帯の、彼の心境を推し量るすべはない。「こんなはずではなかった」という思いがよぎったかもしれないし、よぎらなかったかもしれない。分かっているのは、彼が取ったのは、復讐ではなく逃走だったということである。そして逃走は闘いでもあった。彼は絶望から逃げ切れなかった。

 最後の晩餐、終始穏やかな空気の中で、彼は友人と酒を酌み交わす。彼が嘘をついた理由は分からない。でも、その思いは今なら少しだけ分かる気がする。喜ぶ友人の顔を見たかったのだろう。そして彼自身もまた微笑っていたかったのだ。相変わらず顔は恐いのだが。

 

 『恐怖分子』の世界と私たちの現実世界は並列する。アナーキーなまでに、いつでもつながってみせるだろう。いや、既につながっているのだ。なぜなら、『恐怖分子』の抱える悲しみを知ったのだから。

 夜遅く帰宅した混血少女の母親は、プラターズの「煙が目にしみる」をレコードにかける。メロディーが流れる中、彼女は少女の部屋へ行き、起きていた少女の頬をそっと撫でる。暗がりで少女の表情ははっきりしない。母と娘。映画のもっともエモーショナルなシーンのひとつである。このシーンもまた、悲しい。だが、なにも悲しみは決まって暗いばかりではない。悲しみはふたりを包み込んでいる。※1

 今、ふたつの世界がつながっている。なすべきことは、ふたつの世界を互いに閉ざさないでおくこと。そのために、あのピストル事件が起こらなかった場合の可能性を考えなければならない。悲劇にカタルシスを覚えるでも、結末ばかりに目を奪われ戦慄するのでもなく(先にも述べたとおり、そのような戦慄は一時の刺激でしかなく、消費サイクルに組み込まれるだけだ)、閉じてしまわないで、何も起こらなかった彼の、その先の物語を真剣に想像したい。そして、およそ三面記事のような出来事は「私」の身には起こらないことを素直に認め、だが、罅割れる崩壊のプロセスは、今にも「私」のありふれた日常の事柄においていつでも起こりうるのだと自覚したい。何も起こらなかったからといって絶望が簡単に解消されることはない。反対に絶望は続き、それはそれは苦しみもがくことになるだろう。崩壊した後も、ありふれた出来事ばかり、悲劇も何も起こらない状況が延々続くのもまた絶望であり、既に直面していたりしないだろうか。「こんなはずではなかった」と自分を憐れむかもしれない。あるいは疲れ果て、絶望にすら麻痺してしまっているかもしれない。

 自身の可能性と引き換えに、彼が残した赤く染まった絶望という名の希望をもらい受け、つながることを、分かりあえないことを、一度は否定した自分の人生を、あるいは罅割れてしまった何がしかを悲しみを、それら一切を引き受けて、これからあの手この手どうにかやっていこうとする単純なことが、彼でも匿名の誰かのものでもない、「私」という自己自身の物語になる。



※ 1 脚本家・監督の相澤虎之助氏(空族)は、このシーンで、混血少女の母親が、煙草に火をつけるZippoライターに付けられたアメリカ軍第一騎兵師団のマークのバッヂから、台湾はもとよりアジアの歴史に落とすアメリカの影を鋭く読み取っている(「恐怖分子のZippo」キネマ旬報2015年4月上旬号より)。


(text:高橋 秀弘)




映画『恐怖分子』(デジタルリマスター版)




作品解説:銃声が響き渡る朝。警察の手入れから逃げだした混血の少女シューアン。その姿を偶然カメラでとらえたシャオチェン。上司の突然の死に出世のチャンスを見出す医師のリーチョンと、執筆に行き詰まる小説家の妻イーフェン。何の接点もなかった彼らだが、シューアンがかけた一本のいたずら電話が奇妙な連鎖反応をもたらし、やがて悪夢のような悲劇が起こる……。本作の構想は、シューアン役のワン・アンが実際に見知らぬ番号へいたずら電話をしたことがある、と監督に告白したことから始まったという。少女の何気ない行為が見知らぬ人々の平穏な日常生活を破壊するように、誰もがまた知らぬ間に他人を傷つける「恐怖分子」になり得るという、現代社会が抱える危機。結婚の破綻、少年少女の犯罪、不正行為、暴力の衝動。人々が日常のなかに隠していた狂気と孤独を描き出す本作は、独創的なミステリー群像劇である一方で、現代に生きる私たちすべてに通じる普遍的な人間ドラマである。

1986年:香港、台湾、109分

キャスト
イーフェン(周郁芬):コラ・ミャオ(繆騫人)
リーチュン(李立中):リー・リーチュン(李立群)
シェン(沈):チン・スーチェ(金士傑)
クー警部(顧警部):クー・パオミン(顧寶明)
シューアン(淑安):ワン・アン(王安)
シャオチャン(小強):マー・シャオチュン(馬邵君)


スタッフ
監督:エドワード・ヤン(楊徳昌)
脚本:エドワード・ヤン(楊徳昌)、シャオ・イエー(小野)
製作:リン・ドンフエイ(林登飛)
撮影:チャン・ツァン(張展)
編集:リャオ・チンソン(廖慶松)
音楽:ウォン・シャオリャン




公式ホームページ:http://kyofubunshi.com



0 件のコメント:

コメントを投稿