2015年8月17日月曜日

映画『野火』text高橋 雄太

※文章の一部で、結末に触れている箇所があります。

「非人間的、あまりに非人間的」

戦争とは何か。
暴力、殺し合い、侵略、防衛、愛国的な行為…。多くの意見があると思う。塚本晋也監督の映画『野火』における戦争とは、人間が人間でなくなることだ。塚本監督は、『鉄男』などで人体変化=人間が人間でなくなる様子を描いており、本作においても戦争を身体的な変化として示している。

熱帯雨林の戦場、田村一等兵(塚本晋也)は肺病のため部隊を追い出され、病院に向かう。しかし病院でも受け入れてもらえず、病院と部隊を往復し、いつしかジャングルをさまよい始める。そこで安田(リリー・フランキー)と永松(森優作)の二人組、伍長(中村達也)率いる小隊、そして撤退する多くの日本兵たちと出会う。

映画の舞台はフィリピンのレイテ島らしいのだが、場所、時間、戦況などの説明はない。セリフからうかがえることも「パロンポンから船が出ている」程度のことだ。また、「天皇陛下、万歳」、「お国のために」、「鬼畜米英」などを強く訴える者も出てこない。登場人物は、もはや戦争の行方にもイデオロギーにも無関心のようだ。生き残ることがすべて。
日本兵の敵は、米軍以上に飢えである。彼らはイモを主食としているが、それが足りない。飢えて、疲れ果てた兵たちは、足取り重く歩き、「アー」と言葉にならない声をあげる。ホラー映画を思わせる音楽と相まって、彼らの姿はまるでゾンビである。特に田村は、目の周囲が紫に変色し、ますますゾンビに近づく。
ほとんど唯一の戦闘シーンでは、夜の闇から米軍のライトが照射され、煙の中から銃弾が降り注ぐ。一方、敵である米軍の姿は映らない。また、逃げまどう日本兵の顔も闇に沈んでおり、ほぼ見えない。「憎むべき敵」もいなければ、「戦友の死」のような情緒もない。戦闘は、顔の見える人間同士の戦いですらなく、ただ動くものを殺していく作業になっている。そこでは人間が顔を失い、ゾンビ映画におけるゾンビのように銃の的となり、肉塊として倒れていく。

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)をはじめとするゾンビ映画では、かつて人間であったものがゾンビになり、人間を食らう。そしてゾンビは感染していく。『野火』終盤において、永松は「猿を狩る」と称して人間を狩り、安田とともにその肉を食べる。永松は田村にも肉を与え、「お前も食べたんだよ」とカニバリズムの事実を突きつける。田村に人肉を与えることで、自分と同種にしてしまう永松。ゾンビ映画と同じく、戦争においても非人間化は感染していく。

青い空、白い雲、緑のジャングル、広大な海など、レイテ島の自然は人間を取り囲む。しかし「愚かな人間と美しい自然」という図式ではない。むしろその美しさで人間を幻惑し、非人間の世界、食欲が支配する世界に誘う、危険な自然なのだ。

生き残った田村は、米軍キャンプのテントの中で目を覚ます。ゾンビの徘徊する自然を逃れ、人工物であるテントに横たわる彼は、人間に戻ることができたのだろうか。戦後の彼は、妻とおぼしき女性と暮らしている。だが、女性との会話もなく、ぼんやりと座っている。薄暗い和室で、浮かび上がる青白い顔の田村。戦後でも、彼はやはり人間ではなく、怪談映画の幽霊のように見える。 戦地ではゾンビ、戦後には幽霊と化す。イデオロギーでも情緒でもなく、人間の身体的レベルから戦争を見た。

非人間度:★★★★★
(text:高橋 雄太)



『野火』
2014/日本/87分

作品解説
1952年に出版された大岡昇平の小説『野火』は、1956年に市川崑監督によって映画化されている。今作はリメイクではなく原作から感じたものを映画にしたと言う、塚本晋也監督が自身で主演も努めている。
第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島。日本軍の敗戦が色濃くなった中、田村一等兵(塚本晋也)は結核を患い、部隊を追い出されて野戦病院行きを余儀なくされる。しかし負傷兵だらけで食料も困窮している最中、少ない食料しか持ち合わせていない田村は早々に追い出され、ふたたび戻った部隊からも入隊を拒否される。そしてはてしない原野を彷徨うことになるのだった。空腹と孤独、そして容赦なく照りつける太陽の熱さと戦いながら、田村が見たものとは。

キャスト
田村一等兵:塚本 晋也
安田:リリー・フランキー
伍長:中村 達也
永松:森 優作

スタッフ
監督/脚本:塚本 晋也
原作:大岡 昇平『野火』
音楽:石川 忠
サウンドエフェクト/サウンドミックス:北田 雅也
助監督:林 啓史

渋谷ユーロスペース、立川シネマシティ他にて公開中

公式ホームページ
http://nobi-movie.com/

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