2015年12月22日火曜日

第16回東京フィルメックス《特集上映》『ヴィザージュ』レビュー text 井河澤 智子


「6年寝かせたレビューと、極私的解説」


2009/11/24 初稿
2015/12/10 大幅改稿

 まず感じたのは、「これが最後の作品になるかもしれない」という懸念であった。
 ツァイ・ミンリャン監督の作品には「水浸し」「性への渇望」「死者の存在」などのモチーフが通奏低音の如く響いているのだが、今回はそこに「自らへのオマージュ」らしきものを感じてしまったのだ。
『青春神話』に見られる、家じゅう水浸しになる場面。
『Hole』『西瓜』『黒い眼のオペラ』に見られる、唐突に挟まるミュージカルシーン。
『河』に見られる、同性愛の(えらく具体的な)描写。
『ふたつの時、ふたりの時間』に見られる、窓をガムテープで塞ぐ場面、パリの公園の場面。また、トリュフォーへの傾倒。ここで『大人は判ってくれない』が引用されているが、トリュフォーが「アントワーヌ」という役名でジャン=ピエール・レオーを主演に製作した「ドワネルもの」と呼ばれる一連の作品群と、ツァイ・ミンリャンがリー・カンションを主演に撮影した作品(「シャオカンもの」、と仮に呼ぶ)は、一人の俳優の成長を、長いスパンでフィルムに収める、という大きな共通点がある。

 そして、(『楽日』を遺作に鬼籍に入った、父親役のミャオ・ティエン以外)それまで出演していた俳優が総動員される。映画そのものが、例えるならフェリーニの『8 1/2』のラストシーン——いや、あのように「人生は祭りだ」などと吹っ切れたような祝祭感は全く感じられないが——そのように感じてしまうものであった。

 さらに、「家族の映画」としての側面もあったこの一連の「シャオカンもの」、『ふたつの時、ふたりの時間』では父親が亡くなるが、この『ヴィザージュ』では母親が亡くなってしまう。
 監督はもう撮らないのではないか、という懸念を抱いても仕方あるまい。

 水道管が壊れ、水浸しになった台北のシャオカンの自室(これもまた『青春神話』からほとんどレイアウトが変わっていない)。部屋から溢れた水はパリへと流れ、導かれるように『ヴィザージュ』は始まってゆく。
 シャオカンはいつしか「シャオカン(カンちゃん)」から「カンさん」と呼ばれる映画監督となり、「アントワーヌ」という名のフランス俳優を主演に迎え映画を撮影しようとしている。アントワーヌを演じるのがジャン=ピエール・レオー。アントワーヌの行動に振り回されるプロデューサーを演ずるのは、晩年のトリュフォーのパートナーであったファニー・アルダン。
『ふたつの時、ふたりの時間』において『大人は判ってくれない』を初めて観た青年が、セールスマン、路上の時計売りを経てAV男優として映像の世界に入り(『西瓜』)、そこで得た映像の経験を糧に映画監督となったのかもしれない、と想像すると少し楽しい。
 ツァイ監督はさぞ嬉しかったのではないか。 
 自らの分身リー・カンションが、ジャン=ピエール・レオーと一枚の絵に収まるということが。
 ほぼ一方的に映画について喋るレオーの言葉を、固有名詞を拾いながら、じっと聞くリー・カンション。この絵が撮りたかったのではないか。
 明らかに作り物の冬景色の中、この場面は非常に美しい。

 しかし、ここで一つの懸念を覚えてしまった。
 アントワーヌを演じるジャン=ピエール・レオーの、まるで幼児のような言動は、演技なのか、それとも素の姿なのか?
 演技なのだとすると流石と舌を巻くしかないが、その素顔がほとんど報じられることがなく、稀に風の便りがあったと思うと「つきっきりで世話をされていた」というような若干心配になるようなもので、正直言って筆者の感想は「このヨイヨイを撮るとは監督も随分と残酷なことしなさる」というものであった。
 精神的に不安定な時期もあった、と聞くが、現在は大丈夫なのか。コンスタントに映画には出ているようだが、筆者は追い切れていなかった。

 さて、カン監督がどのような題材で映画を撮ろうとしているのか、当初ははっきりとは明かされない。
 林の中に鏡が何本も立てられたセットは、まるでルネ・マグリットの「白紙委任状」(http://www.renemagritte.org/le-blanc-seing.jsp)が冬景色となったようだ。カン監督とアントワーヌの支離滅裂な会話で言及される映画のタイトルは、オーソン・ウェルズ『上海から来た女』である。アントワーヌはこの鏡の場面と、『上海から来た女』のラストシーンを重ね合わせたのではないか。また、アントワーヌの役柄は「王」であること、そして舞台は冬であること、それ以外の情報はほとんどない。
 メイクのプランを練るシーンでも、カン監督は「半透明な冷たさを出したい」と、女優の顔に空き缶やら氷やらを押しつける。ここでも具体的な話は出ない。
 このカン監督、ちっとも監督らしい顔をしない。女優の長すぎる衣装の裾を抱えて右往左往したりしている。

 しかしこのあたりでやっと「なにを撮ろうとしているのか」がぼんやりと見えてくる。女優がカン監督に向かって「サロメ」のセリフをつぶやく。サロメが洗礼者ヨハネに向けて語っているかの如く。いつしかカン監督はサロメがその首を欲しがるほどに愛しい洗礼者ヨハネに同一視される。されるがままカン監督が女優に弄ばれる、日本語でいえば俎板の鯉、フランスではなんというのだろうか。家畜がなす術もなく枝肉となってぶら下げられるようなシーンがツァイ監督お得意の長回しで映し出される。あたかも首を切られた洗礼者ヨハネ、それに愛しげに口づけするサロメ、といった体で。丁度レヴィ・デュルメルの絵画「サロメ」と構図がほぼ一致していたので、ご興味のある方はお調べいただきたい。
 とするならば、アントワーヌが演ずるのは「ヘロデ王」である。

 そして、アントワーヌとプロデューサー――あるいは、ジャン=ピエール・レオーとファニー・アルダン——二人の場面。ともにトリュフォーに愛された者同士が、「どこかで会ったような気がする」という。役柄と私生活が曖昧になる場面である。
 アントワーヌは鏡に口紅でメモを残して消える。「君を愛することはできない、僕は去る。」と。彼らはトリュフォーという存在を「奪い合う」間柄なのかもしれない、と深読みもできる。かつて自分を愛した人間が、後に別の人間を愛したという喪失感。
―—そういえば、トリュフォーの描くアントワーヌは、常に愛を欲し、愛に向かって駆けずり回るような青年だった——

 唐突に場面は切り替わる。ルーブル美術館、レオナルド・ダ・ヴィンチが展示された部屋。まさに「洗礼者ヨハネ」の絵画の真下、大理石の壁面がゴトッと外れる。そこから現れたのはヘロデ王の衣装を纏ったアントワーヌ。彼はその場を立ち去る。
 ここではじめて、観客は「舞台はルーブル美術館だったのだ」と気付く。

  実はこの映画はルーブル美術館の依頼によって製作された映画なのだという。
 しかし撮影はほとんど配管部分や下水管などで行われており、外の場面はルーブルの西に隣接するテュイルリー公園かと思われる。明らかに「ルーブル美術館です」とわかる場面はラスト5分やそこらであった。なんという壮大な無駄遣い。
 たとえルーブル美術館からの依頼でも、撮りたいものしか撮らないツァイ監督なのであった。

『ふたつの時、ふたりの時間』ではカメオ出演であったジャン=ピエール・レオーと本格的に組むことが出来て、さらにトリュフォーのパートナーであったファニー・アルダンの援護も得て、ツァイ監督は本懐を遂げてしまったのではないか。『ヴィザージュ』で台北を訪れたファニー・アルダンが、カンの部屋でトリュフォーの顔写真と「再会」する場面には落涙を禁じ得ない。ここに、ツァイ・ミンリャンのモチーフ「死者の存在」を見ることが出来る。(また、亡くなったカンの母親が旅立つ直前に共にリンゴを食べるのも、ファニー・アルダンである。)
 やはり、ツァイ・ミンリャンは撮りたいものを撮り切ってしまったのではないだろうか。

 また、ジャン=ピエール・レオーの健康状態(諸々の意味で)に関する筆者の要らぬ懸念は、『ヴィザージュ』初見から5年後の2014年秋、有楽町角川シネマにて開催された「没後30年 フランソワ・トリュフォー映画祭」において初来日した彼の舞台挨拶を観て、すっかり解消されることとなる。彼は、明晰に、茶目っ気たっぷりに思い出を語り、共に仕事をしてきた監督たちを語り、「Voila ! 」となんども楽しげに口にする、堂々たる名優であった。

2009年公開の『ヴィザージュ』の後、ツァイ監督は劇場映画を長らく撮影しなかった。

2013年。『郊遊 ピクニック』が公開され、監督は引退を宣言した。

2014年。新作『西遊』が東京フィルメックスで公開。

2015年。最新作『あの日の午後』が東京フィルメックスで公開。
また、劇場映画を撮影していなかった時期に撮っていた実験的な映像を含めた特集上映が行われる。

 引退宣言はどこへやら、とほっとしている。ツァイ監督、まだまだ撮りそうである。

唐突なマチュー・アマルリックに吹き出した度:★★★★☆
(再見時に気付いたけど何故あの役?)

(text:井河澤 智子)

『ヴィザージュ』(原題:臉)

フランス、台湾、ベルギー、オランダ / 2009 / 141分

作品解説

ツァイ・ミンリャン監督がヌーベルヴァーグの名匠フランソワ・トリュフォーにオマージュを捧げた作品。台湾人監督(リー・カンション)が、ルーヴル美術館を舞台に「サロメ」をモチーフにして映画を撮ろうとする。主人公を取り巻く撮影時に起こる様々な出来事が、夢幻的な世界観で描かれていく。第10回東京フィルメックス(2009)のオープニング作品であ理、日本劇場未公開作品。

出演者

リー・カンション
ジャン=ピエール・レオ
ファニー・アルダン
ジャンヌ・モロー

スタッフ

監督:ツァイ・ミンリャン 
配給:ユーロスペース

第16回 東京フィルメックス

2015年11月21日(土)〜29日(日)まで開催(会期終了)。「映画の未来へ」--いま世界が最も注目する作品をいち早く上映する国際映画祭。アジアの若手によるコンペ部門、最先端の注目作が並ぶ特別招待作品の上映。特集上映のひとつはフランスのピエール・エテックス。

公式ホームページ


特集上映 ツァイ・ミンリャン

『郊遊 ピクニック』(2013)で、長編映画の製作からの突然の引退を宣言してファンを驚かせたツァイ・ミンリャン監督。世界に衝撃を与えたデビュー作『青春神話』(1992)とキャリア初期の傑作に加え、日本での劇場未公開作品『ヴィザージュ』(2009)、および日本初上映の短編作品などが上映された。


2015年12月15日火曜日

映画『岸辺の旅』レビュー text 岡村 亜紀子

「死はわかつ、けれどそれは終わりではない」


  昨年私は大事な人を二人亡くした。夏に祖父を亡くし、年末に祖母を相次いで。『岸辺の旅』の主人公瑞希は、海で夫を亡くし、三年程、この世とあの世の境を漂っている。
 私はまだ人の死に目に合ったことがない。亡くなったと知らせを受け、通夜で出会った祖父におそるおそる触れると冷やりとしていた。その為か、死の実感というものを心が理解しづらいようである。

 瑞希は海で死んだ夫(行方不明だった)と再会した時に、果たして何をわかり得たのだろう。白状すると劇場でこの作品を観てから、ずいぶんと時間が経ってしまったので、私は自分が記憶している部分のみについてしか語ることが出来ず、この作品のエンディングさえモヤっと白い霧に記憶は包まれているので、なんとも心細い状態でこの駄文を、帰宅中の電車でノートに一文字ずつしたためている。というのも普段メモがわりに使用しているiPhoneの電源がおちた為だ。私は今旅からまさに帰宅しようとしている車内で、なぜわざわざ駄文を書いているのか。
 そんな今日は祖母の一周忌だった。昨日、私は仏前に座り線香をあげながら奇妙な違和感にさいなまれ、そして『岸辺の旅』が浮かんで、様々なことを考えた。残念ながら、疲労と共に記憶は早くも薄らぎ始めている。
おそらくペンをとっているのは、『岸辺の旅』と祖母の一周忌に際して感じた事柄は、もう実体のない祖母と私の新たな関係であり、それを記録したいという欲求から、なのかも知れない。最寄りの駅に着きそうなので、続きは帰宅してからにしよう……。

 ……帰宅。人と人とはいつも物理的な距離によってはばまれている。『岸辺の旅』の瑞希は、夫の死後、携帯を見て夫が浮気していた事を知る。彼女は夫が自分と離れている間、別の女と情事を行っていたことを知らなかった。
 朝、墓そうじを終え、遠方から祖母の親戚が到着するまでの間、私は祖母の部屋に入って、初めてその本棚にあるたくさんの本を見た。私の持っている本もあった。でも彼女とその本の話をしたこともなく、その小さな部屋の天井の角が少しカーブしていることも知らなかった。祖母のモノクロの写真が収められたアルバムには、彼女が働いていた幼稚園の園児たちとの写真や、弓をひく彼女の横顔を何枚も写したもの、友人たちと写っている笑顔、学生服を着ている見知らぬ男性、一人写ったポートレイトなど、私の知らない若い頃の彼女が沢山いた。

 ふと私は祖母のことを何も知らないのではないかと思い、少し驚いた。あまり自分のことを話さない人だったし、子供ごころに祖母の部屋は秘密が詰まっているようで、入りたいと思っても入れなかったのだ。さらに高校卒業以降、三重県伊勢市にあるその家を訪れることは、次第に年5回が3回に、年1回に、さいごに会うまでは2、3年会っていなかったように思う。祖父が亡くなり、大きな家に一人で居る祖母の存在を気にはしつつも手紙や電話のやりとりのみで、中々会いに行かなかった。後悔している。すぐ会いに行ける距離なら、もう少し会えていたのではないかと思う。祖母は伊勢の人だった。

 『岸辺の旅』で一人暮らす瑞希の部屋に、ある日夫が現れる。そして二人は旅をする。彼が死んでから、お世話になったという人々のいる土地を訪ね、人々に会い、瑞希は知らなかった夫を初めて見る。本当はもっとべつの場所――この世とあの世――にいるはずの二人は、お互いに近よって、この世でありながら少しあの世に近い場所を旅していく。

 もし亡くなった大切な人が突然現れたら、私の場合祖母だったら、また会えたことを喜び色々な話をして、それから少し困ってしまうかもしれない。ずっと一緒にいられたら良いけど、現世の生活があり、祖母はその生活にはとけこめないのだから。
 しかし瑞希は、迷わず生活をかえりみず夫と旅をすることを選ぶ。それは彼女の今の生活が、もう惰性のように行われており、そこにかけるエネルギーを持っておらず、さらには夫優介がそれよりも大切な存在だったから。彼女はピアノを教える子供の母親にせんないことを言われても、とまどったような表情を浮かべ、どこかどうでもよい風にさえ見えるシーンがある。そんな彼女はとても生きることが困難な人に見えた。

 瑞希は夫(医者)の浮気相手に会いに病院へ行き、彼女が結婚していることを知る。夫が行方不明になり、別の人生を選んだ女と、死んだ夫を選んだ女。この世での彼女はどうしようもなくとりのこされた存在に見える。
 昨日仏前で線香をあげた私が感じた違和感は、そのシーンを観た時に感じたものにちょっと似ているかも知れない。祖母を亡くした実感がどうしても湧かずに、悲しいという感情をわからず、「そんなところにいたら寒いでしょ。早くこっちに来ておこたに入りなさい」という声が何故聞こえてこないのかという違和感。

 そうして今日、お坊さんがあげるお経を聞きながら、涙があとから流れた。お経のあと、パンクなお坊さんの説法を聞きながら腕のGショックが気になりつつも「東子さんに“おっさん何いうてんの”って言われますわ」という言葉を聞いて、ああこういうこと言う人だったなと、なつかしさがこみあげてきた。話上手で少しイジワルなことも時々言うんだった。
 それからお寺へ行って、みんなでお参りしていたときもジワリときて、会食でゴハンを食べながら、ふと祖母と私が最後に会った時の話になって、又涙が出て困った。誰もそのことに触れず話を聞いてくれて助かった。私はまだ全然悲しいみたいなのだけど、まだまだ後悔だらけで、うまくうけとめられないのかも知れない。

 『岸辺の旅』の終盤で旅が終わった時、その場面はとうとつで感情など関係なく、現象としてさりげなく起きた。
 瑞希は何を感じ得ただろう。私はいくら想像しても、その場面から切り離されたように思考することしか出来ず、瑞希の感情をおしはかることが出来なかったような記憶がある。ただ一周忌を経た今は、その時の瑞希はきっと絶望してはいなかったのだと思う。それは映画『岸辺の旅』と、自分の祖母との関係が私の中で融合して、今日そう思ったのだと。
 
 おぼろげな記憶のなかの瑞希の姿と、新しい祖母と私のかかわりが、今まで答えの出なかった問にすこしだけヒントをくれたようである。写真が欲しいと言うと、「最近のカラーのアルバムからがいいよね?」と言われたけれど、私はモノクロの若かりし頃の祖母の写真を数枚もらうことにした。今日はじめて出会った写真の彼女の笑顔はハジけていてまばゆかった。
 
 祖母に久しぶりに会いに行った日の別れぎわ「いつまでもなごりおしいね」と彼女が言った。その3日後に急逝したから、それが最後の言葉だった。その別れ際の笑顔を忘れたくないと思っていたことを思い出した。
『岸辺の旅』にまつわる今日の出来事をこうして言葉にした事で、その時の笑顔をまた思い出すことが出来たような気がする。そしてモヤっとしていた白い霧が晴れる様に、『岸辺の旅』の静かな海を思い出した私である。

 死は別れであると同時に、きっと、故人との新しい関係が築かれていく始まりでもあるのだろう。

(この文章は2015年11月29日に書いた内容に追記したものです)
 
蒼井優のアタリ役度:★★★★☆
(text:岡村 亜紀子)



『岸辺の旅』

2015/日本、フランス/128分

作品解説

湯本香樹実による同名小説を黒沢清監督が映画化。3年前に夫の優介が失踪した妻の瑞希は、その喪失感を経て、ようやくピアノを人に教える仕事を再開していた。ある日、突然帰ってきた優介は「俺、死んだよ」と瑞希に告げる。「一緒に来ないか、きれいな場所があるんだ」と言う優介の言葉に、瑞希は優介と2人で旅に出る。2人は優介が失踪からの3年間にお世話になった人々を訪ねていく旅の中で、お互いの深い愛を改めて感じていく。しかし、瑞希と優介の永遠の別れの時は刻一刻と近づいていた。

出演
薮内瑞希:深津 絵里
薮内優介:浅野 忠信
松崎朋子:蒼井 優
島影:小松 政夫
星谷:柄本 明

スタッフ

監督:黒沢 清
脚本:宇治田 隆史
撮影:芦澤 明子
照明:永田 英則
録音:松本 昇和
美術:安宅 紀史
編集:今井 剛
スタイリング:小川 久美子
音楽:大友良英、江藤 直子

公式ホームページ

劇場情報

アップリンクほか、全国順次公開中



2015年12月8日火曜日

第16回東京フィルメックス《特別招待作品》 映画『昼も夜も』レビュー text加賀谷 健

「昼も夜も~その一点のまがまがしさによって~」


今、一人の青年が両腕を左右へ大きく広げながら自転車をこいでいる。青年の名は良介。彼は、心の中で誰かに呼びかけている。それが誰へのものなのか、我々観客には全く想像もつかない。だが、その青年を演じる瀬戸康史が驚くべき「美声」と言い知れぬ「存在感」を兼ね備えている事は確かである。

 実際、亡くなった父親の後を継いだという中古車店の経営者としての瀬戸は、説得力がないようでいて妙な説得力のある姿で画面にちゃんとおさまっているのだ。そこには、彼をただ「イケメン」にはとどめておかない何かがある。おそらくそれは、瀬戸康史という役者の徹底して透明な表情の演技によるものなのだろう。

 ある日、中古車店に一台の赤い車が乗りつけ、しおりという名の女が置き去りにされる。バスの本数が少ない事を知ったしおりは、1000円の手付金で強引に一台の中古車に乗り込み、勝手にその中で眠り始めてしまう。初めは無視していた良介であったが、段々と放っておけなくなり、その晩、彼女を車で送っていくことにする。車内でしおりは、昔死んだ犬の話を始める。良介は、聞いているのか聞いていないのか、まるで時が止まったかのように一点を見つめている。その時の彼の表情の素晴らしさは言うまでもない。それは、無表情故の「豊かさ」である。二人の間には、何か不思議な繋がりが出来始めている。この中編は、監督自身が語る通り、「小さなロマンティックな話」なのだろうか。
 
 映画の後半で二人は車で海へ行く。ここでも良介は見事な表情をしてみせるのだが、それを断ち切るかのような「2014.3.11」の字幕が海のショットを前にして挿入される。劇中、しおりの「腐った魚の匂い」という呟きを何度も耳にしていた我々は、ここにきてやっと全てを理解することになる。
 良介としおりは、無言の内に「震災」の想いを共有する。雨が激しく車を打ちつける。外の世界の現状は未だ厳しいままなのだ。しおりは姿を消し、良介は車を売り払う。

 3ヶ月後、良介のもとにしおりから電話がかかってくる。彼女は自転車で日本中を回っているという。「呼びかけ」が届いた良介は、今は幸せだと返す。映画は、このまま瀬戸の「美声」とともに文字通り美しい終幕を迎えるかにみえる。だが、エンド・ロールの後、黒みの画面に響き渡るのは、ヘリコプターのまがまがしい音、ただそれだけである。「映画はキレイに終わりすぎてはいけない」、そう語る塩田明彦は、やはりどこまでも「残酷な」映画作家であった。

作家の残酷度:★★★★☆
(text:加賀谷 健)


11/24 有楽町朝日ホールで行われた『約束』『昼も夜も』塩田明彦監督Q&A


『昼も夜も』

日本 / 2014 / 69分

作品解説

塩田明彦監督がウェブサイトのために監督した2本の短編の内の一編。第16回東京フィルメックスでスクリーン上映され、もう1本の『約束』(日本 / 2011 / 15分)も同時上映された。
両作品を作るにあたり、ラフな脚本を元に少しづつ肉付けしてゆくという自主映画時代の方法論を適用したという塩田明彦監督の、原点回帰とも言える作品である。

出演

良介:瀬戸康史
しおり:吉永淳


スタッフ

監督:塩田明彦

第16回東京フィルメックス

2015年11月21日(土)〜29日(日)まで開催(会期終了)。「映画の未来へ」--いま世界が最も注目する作品をいち早く上映する国際映画祭。アジアの若手によるコンペ部門、最先端の注目作が並ぶ特別招待作品の上映。特集上映のひとつはフランスのピエール・エテックス作品。

公式ホームページ

http://filmex.net/2015/


2015年12月4日金曜日

第16回東京フィルメックス《コンペティション作品》 映画『タルロ』 text 高橋 雄太

揺らぐ「私」


「私」とは誰か。
そう問われた人は、「私は私。自分のことくらいわかっている」と思うかもしれない。だが「私」とはそれほど確固とした存在だろうか。映画『タルロ』を観た後、私は「私」への不安に襲われた。

本作の主人公、本名はタルロ、通称「三つ編み」。男性、おそらく四十代、名が示すとおり髪は三つ編み、チベットの羊飼い、国籍は中華人民共和国。彼は警察に身分証(identity document:ID)の作成をすすめられ、それに必要な写真を撮る際、理髪店の女性と親しくなる。人里離れた放牧地から彼女の元へ通い、町の生活を経験する。二人はお金を貯め、遠い場所へ行くことを誓い合う。

自分が自分であることを証明する身分証を持っていないタルロだが、自分が何者かは知っている。名を尋ねられれば「三つ編み」と答える。抜群の記憶力で羊の数も特徴も覚えており、『毛沢東語録』の一節を暗誦する。身体的特徴、羊飼いとして必要な情報、過去に学んだものの記憶。身分証はなくとも、これまで生きてきた時間に基づくアイデンティティを持っているのだ。
彼は女性との出会いにカルチャーショックを受ける。女性にも関わらず短い髪、女性の喫煙、カラオケ・バー、ヒップホップのライブ。チベットの伝統の中で生きてきたであろうタルロは、現代の文化に戸惑う。また、町の看板にはチベットの文字と漢字が併記され、派出所には「POLICE」というアルファベットまで記載されている。タルロもチベット語で会話をし、『毛沢東語録』は中国語で暗誦する。
すなわち、時間、言語、文化、多くの面でタルロと現代との間にはギャップが存在しており、彼はそれに対応していくことになる。羊飼いの恋歌をカラオケで唄い、女性のなすがままに三つ編みからスキンヘッドになってしまう。そして彼は自分を見失う。ファムファタルに惑わされる男という個人の中に、伝統と現代との軋轢、チベットと中国との摩擦という、大きな問題も見えてくる。

彼の不安定さには一つのテクノロジーが関わっている。カメラである。
本作はモノクロ、固定ショット、長回しで構成された作品である。冒頭の派出所では、固定ショットの左側にタルロ、右側に所長が配置され、二人は向かい合い、なごやかな雰囲気で会話をする。理髪店では鏡越しにタルロと女は見つめ合い、親密になる。ワンシーン=ワンショットの長時間にわたって交わされる視線が、人と人とを近づける。
しかし、人間とは別の視線=カメラの視線がタルロの存在を揺るがしていく。序盤、彼は写真撮影のために写真屋を訪れ、カメラの前に座る。映画のカメラと写真屋のカメラとが一致しているかのような正面からの固定ショット。所長や女性とは画面内で見つめ合っていたタルロであるが、ここでは画面内に孤立し、かつ見つめられる存在になる。写真屋に洗髪をすすめられたことで、理髪店の女性と出会い、前述の関係が始まる。羊飼いとして暮らすことの証拠とも言える砂埃や汗、彼のアイデンティティを示すものを洗い流すとき、ファムファタルと現代の文化が彼を襲う。
写真撮影の直前、バストショットのタルロに、画面外からの声が「帽子を取れ、髪を整えろ、カバンを下ろせ、上着を脱げ」と指示を与える。画面内のタルロはそれに従う。チベットの羊飼いタルロが、中国の国民へと矯正=強制される過程の長回しである。カメラにより魂を抜かれるという言い伝えが現実になったかのように、彼は写真撮影により自分を失い始めるのだ。すなわち撮影は一種の殺人であり、カメラは凶器、「殺人カメラ」とすら言える。
さらに、写真屋でタルロの先客の夫婦は、伝統衣装を着込み、写真のプリントされた幕を背景にして記念写真の撮影中である。その背景は、ラサ、北京の天安門、ニューヨークの摩天楼と変化していく。写真屋の「パッとしない」との意見のままに夫婦は伝統衣装から洋服に着替えるが、やはり「パッとしない」らしい。夫婦は、背景の変化により世界をたらい回しにされ、着替えを繰り返す。二人は、新婚の喜びに輝いているわけではなく、不安定な世界に投げ込まれたことに戸惑っているようである。また、ニューヨークの背景の右隅には2001年に崩壊したツインタワーが写っている。不安定な世界を象徴しているように。
ショット同士の対照にも不安定は現れている。「三つ編み」という名のタルロが坊主頭になったとき、皮肉にも三つ編みだった頃の写真付きIDが出来上がる。所長らは外見が違いすぎるとして、写真を撮りなおすようタルロに告げる。名前の由来である三つ編みを失い、自分を証明するはずのIDが自分を証明しない。このときタルロは自分が善人か悪人かもわからなくなり、自慢の記憶力すら薄らぎ始める。
ID受け取りのシーンは、冒頭の派出所のシーンの鏡像である。つまり冒頭シーンとは左右反転しており、右側にタルロ、左側に所長の配置で、二人は向かい合う。派出所を舞台にした二つのショットは、「殺人カメラ」に殺される前後の世界、相容れない異次元の世界を示しているのだ。固定ショットでは視界は揺れず、被写体を安定して納めることができるはず。だが、その安定から不安定が発生し、「私」は揺らいでいく。
もう一度問う。「私」とは誰か。本作で「私」という存在への不安を観た後、この疑問を無視できるだろうか。

私は誰?度:★★★★★
(text:高橋 雄太)

『タルロ』(Tharlo / 塔洛)

2015/中国 /123分

作品解説

『オールド・ドッグ』で第12回東京フィルメックスグランプリに輝いたペマツェテン監督の最新作。現代文明と伝統文化の相違に引き裂かれてゆくチベットの遊牧民をユーモアとほろ苦さを交えて描く。長回しの撮影と大胆な構図が強烈なインパクトを与える力作である。

スタッフ

監督:ペマツェテン(Pema Tseden)

第16回東京フィルメックス

2015年11月21日(土)〜29日(日)まで開催。「映画の未来へ」--いま世界が最も注目する作品をいち早く上映する国際映画祭。アジアの若手によるコンペ部門、最先端の注目作が並ぶ特別招待作品の上映。特集上映のひとつはフランスのピエール・エテックス作品。

公式ホームページ