2016年1月26日火曜日

【アピチャッポン特集】映画 アートプログラム<中・短編集>評  text高橋 雄太

「連続と断絶」、「記憶」


アートプログラムはアピチャッポン監督自身がセレクトした七つの短編・中編で構成されている。そのうちのいくつかを「連続と断絶」、「記憶」という二つのテーマに沿ってピックアップしていく。

「連続と断絶」については『国歌』(2006年)と『Worldly Desires』(2005年)を取り上げる。
タイの映画館では上映前に国歌が流れるという。このことを真似たかのように、『国歌』から本プログラムは始まる。ただし国歌が大音量で流れるわけではない。女性たちが話しており、国歌の話題も出てくるのだが、いまひとつ会話は噛み合わない。突如、体育館らしき場所に切り替わる。バドミントンが行われており、カメラはコートを周回しながらそれを撮影する。だがラリーはあまり続かず、シャトルは落ちてばかりだ。断絶するラリーと、なめらかに動き続けるカメラ。このシーンが延々と続く。

次の『Worldly Desires』は、映画やミュージックビデオのメイキングのような中編ドキュメンタリーである。 
まずミュージックビデオの撮影風景から始まる。夜の森で五人の女性グループが歌を唄っている。場面は突然変わり、男女が昼間の森をさまよう劇中劇になる。二人は何者か、なぜ森の中にいるのか。その疑問が答えられることはない。それどころか、劇中劇を撮影するスタッフの様子などが描かれる。さらに冒頭の女性たちの唄うシーンが数回にわたって挿入される。
女性グループ、逃げる二人、撮影隊、いずれのパートも深く掘り下げられることはなく、パート間の関係も不明。何の説明もなしに次々と切り替わっていく。本作は一つのストーリーラインには乗らず、三つの部分に分裂したまま続く。

『国歌』は周回を続けるカメラと断絶するバドミントンで、『Worldly Desires』は42分のひと続きの作品を3パート構造で、「連続と断絶」を示す。『トロピカル・マラデ
ィ』(2004年)や『世紀の光』(2006年)などアピチャッポンの長編と同様、分裂し、同時につながってもいる複数の世界の存在を示しているようだ。

次に「記憶」をめぐる作品『エメラルド』(2007年)と『ナブアの亡霊』(2009年)を取り上げよう。
『エメラルド』の舞台は、バンコクのエメラルドホテルの部屋。窓から光が射し込んでいるが、人はいない。部屋には白い羽毛のようなものが浮遊している。そこにナレーションが流れ、人々の記憶が語られる。その中に「カンチャナブリ」という言葉が登場する。カンチャナブリとは映画『戦場にかける橋』の舞台にもなったことで有名な、戦争の記憶が残る場所である。部屋を漂う言葉と物体は、記憶の結晶だ。映画が進むにつれ、徐々に部屋を漂う浮遊物の密度が増していき、さらに赤や青の物体も加わる。人の顔がベッドに浮かび上がり、消えていく。大都市と化した21世紀のバンコク。だが、記憶や歴史は消え去ることなく漂っている。

©Apichatpong Weerasethakul. Courtesy of SCAI THE BATHHOUSE.


『ナブアの亡霊』は、夜の闇に稲妻が光る場面から始まる。やがて、この稲妻のシーンは、荒野に設置されたスクリーンに上映された映像であることが明らかになる。スクリーンの前では、青年たちが火のついたボールでサッカーをしている。その火がスクリーンに燃え移り、スクリーンは焼け落ちる。スクリーンの背後からは、稲妻の映像を映写する映写機が現れる。スクリーンとともに稲妻の映像も消えるのだが、映写機の前の空間に断続的に光が輝く。スクリーンがなくとも、稲妻の映像は空気中の砂煙りなどに映写され、像を生み出す。映像が記憶装置であるならば、映写機から投影される光には記憶が含まれている。たとえスクリーンに映写されなくとも、空間を伝搬する光は空間を漂う記憶だ。映画館の座席につく我々とスクリーンとの間の空間、そこを伝搬する映写機の光も記憶である。
『エメラルド』の浮遊物のように、『ナブアの亡霊』の光のように、我々の周囲にも記憶は漂っているのではないか。この二作は、不可視の記憶を可視化する試みであろう。 


バラエティ豊富度:★★★★☆
(text:高橋雄太)
 

作品解説

アートプログラム<中・短編集> 
104分/台詞のある作品はすべて日本語字幕付きで上映

 『国歌』(The Anthem) 
2006年/5 分 
タイの映画館では、本編上映前に国歌が流れる慣習を独自にアレンジした短編作品。

『Worldly Desires』  
2005年/42分32秒
韓国チョンジュ映画祭の企画『三人三色』で制作した映画内映画。

 『エメラルド』(Emerald) 
2007年/11分
80 年代バンコクで隆盛を極めるが、閉館してしまったエメラルド・ホテル。その場所の記録と記憶。

 『My Mother’s Garden』 
2007年/6分42秒
 仏・ディオール社のジュエリー・デザイナーの宝石コレクションを撮影。アピチャッポンの母が蘭を育てた庭をイメ ージ。

『ヴァンパイア』(Vampire)
2008年/19分 
ルイ・ヴィトンに“旅”をテーマにした映像作品を依頼され、自らタイとミャンマーの国境付近へ。そこにはヴァンパイア鳥の伝承があり......。 

『ナブアの亡霊』(Phantoms of Nabua)
2009年/10分43秒
 映像インスタレーション「プリミティブ」プロジェクト(09)と同時制作。タイ・ナブア村で少年らが燃やすものは?
“Phantoms of Nabua” 2009 ⓒ Apichatpong Weerasethakul. Courtesy of SCAI THE BATHHOUSE.

『木を丸ごと飲み込んだ男』(A Man Who Ate an Entire Tree)
2010年/9分 
タイの野生林で伐採を始めた男は、やがて、自然のドラッグ作用で自分をコントロールできない状態に......。

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ


劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年1月25日月曜日

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text佐藤 奈緒子

「裸になれる場所」


人は生きるために何かを装い繕っている。自らを偽る小さな嘘を何千何万と繰り返すうち、知らぬ間に心に積もってゆく澱……。それがいつしか堪えがたいヘドロとなるとき、人は森に逃げる。

不法移民の青年ミンは身分をごまかして就労許可をもらおうとしている。ガールフレンドのルンは残業を強いられる工場の仕事に嫌気がさしている。子供を亡くした女性オーンは夫の同僚と浮気をしている。ミンの体に発疹が出て、ルンが職場の上司に小言を言われ、オーンが皮膚クリームを夫に味見させたある日、彼らはふと、森に行くことにした。

町から森へと舞台が切り替わると、それまで表情すらよく見えなかった三人は、徐々に人格と肉体を持ち始める。森に分け入り裸になったミン。キラキラした瞳で彼を追いかけるルン。二人が赤い実をむさぼり、触れ合い、キスをするとき、太陽も木々も川も、すべてが彼らを祝福するように輝きだす。トラン・アン・ユンの『青いパパイヤの香り』さながらの無垢な官能に、観る者がうっとりと身を任せたその瞬間、オーンと愛人の生々しいまぐわいが画面をぶったぎる。ここでのオーンの表情は、いち中年女性という枠に隠れていた深い孤独と激しい情念を暴く。森は彼らを裸にしてしまう。

 
©Kick the Machine Films


偶然に川辺で三人が合流してからは完全にスリラーだ。あどけない残酷さを秘めたルン、闇を深めるオーン。一人の男をめぐって不穏な空気を醸し出す二人の女が水を掛け合う光景の戦慄。かといって、何か事件が起こる訳ではない。その後、若いカップルは木漏れ日の中、半裸で昼寝をする。傍らで慟哭するオーン。その悲しみは狂気をも孕み、この世の物とは思えない表情をたたえながら、彼女もまた一人横になる。

英語のタイトル“Blissfully Yours”は手紙の結語だが、タイ語のタイトルを直訳すると「この上ない愛情」のような意味になるそうだ。すべてが不実とはいえ、森で過ごした束の間だけでも、彼らは至高の愛を共有していたのだろうか。もしくは、森に抱かれること自体が、この上ない愛情に包まれているということなのだろうか。

見終わってからもオーンの表情が頭から離れない。彼女はどうなっただろう。あのまま眠ったら魔物にでもなってしまいそうだ。そんな予感がぬぐえない。考えてみると、アピチャッポン監督が2年後に撮った『トロピカル・マラディ』では『山月記』をモチーフに、森でトラになる男の話が出てくる。ということは、ラストショットでルンが目を見開くその視線の先はもしかすると……。テロップで説明される「三人のその後」を完全に無視した、私だけのストーリーがここにできあがった。

普通のピクニックがしたい度:★★★★★
(text:佐藤奈緒子)


『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説

ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年1月24日日曜日

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text井河澤 智子

「 ぺりぺり皮をむくのは好きです」

 
 できる限り物語に触れずに稿を進めようとすると、はたと困惑する。
どうすればいいのか。
この映画は、映画を観ている者の思い込みを軽快に裏切り続ける。
それはもう、あっけにとられるほど。

©Kick the Machine Films

 映画はいきなり始まる。
青年、若い女性、中年女性。診療所にて。診察台に座っているのは青年である。
さて、この場面を、観客はどのように捉え、映画の続きを観るだろうか。

中年女性が軽やかに野菜を刻み、タッパーに無造作に放り込む。ドレッシングをかけて……  
 
 って、それドレッシングじゃないでしょう?
 え? 食べさせるの? それ?
 それって、食べ物なの?

ずいぶん無口な青年だと思っていたら?

 ざっと冒頭数十分を観ただけで脳裏にハテナマークが山のように浮かぶ。

 しかし、映画そのものはキュートな音楽や燦々たる陽光に彩られ、幸福な空気感に包まれている。なんだかエッチなムズムズ感すら全体的に漂っている。あぁ、ムズムズ。チクチク。

 おばさんもムズムズ。若者もムズムズ。若者ふたりのラブラブいちゃいちゃ……ちょっとそのシフトノブの握り方はけしからんのではないですか…うふふ、などと迂闊に思ってしまったらもう術中にはまっている。あぶない。

 いきなり始まった映画は、町から森の中へと舞台が移るときにやっとタイトルクレジットが入る。「あ、そういえばクレジットなかった」と思うほど唐突に入ってくるのだが、ここで物語のトーンもはっきりと変化するので、丁度いい眠気覚し、というよりこれから本格的に夢うつつの世界に放り込まれる、というべきか。

 観客の目に映るのは、したたる緑に降りそそぐ光、若い恋人たちのヒミツの場所でのピクニック。コーラ、串に刺したお肉、パンのようななにか。さっきの得体の知れないものが入ったタッパーもちゃんとある。長回しが妙な臨場感を誘い、こちらもちょっとムズムズする。あらあらうふふ。若いっていいわねぇ、などと正真正銘のおばさんのごとく眩しい若さに目を細めつつ観ていると、ふたりの会話に「え?」さらにかぶさるモノローグに「はい??」と虚を突かれる。

 こっそり種明かしをしてしまうと、この作品、3人の関係性がおそらく意図的に曖昧にされているために、観る者は先入観をところどころで混乱させられるのである。そして、映像で勝手に想像させられる事柄と、音声で語られる事柄が時折乖離するために、さらにハテナマークが増える。この混乱のさせ方は非常に計算されており、そのさりげなさに「お……おぅ」とため息をついたのは映画が終わってからであった。すごい。

 若いっていいわねぇ、と言ってるそばから申し訳ないが、中年女性もなかなかやりよる。そこまでやるか。カメラの前でそこまでやるか。天晴れである。しかしこの女性の勇姿の向こうに、この作品の舞台であるタイ国境地域の問題が、ほんの少しだけ見えてくる。そして、青年の素性がはっきりしてくるにしたがって、この作品が単なる艶笑譚であること以上に、タイの社会問題、特にタイ北部、ミャンマーとの国境地帯における問題を隠しテーマとしているのであろう、ということもわかってくる。タイとミャンマーの国境線は実は大部分定まっていないとのことで、この付近の住民は、密入国者、この付近の少数民族、各々少数民族が構成する武装組織などのいろいろな問題と、すこぶる日常的に付き合っていると考えられる。

 おそらく、それらいろいろ巧みに隠された事柄と、対して驚くほど赤裸々に描かれた事柄を紐解いていくと、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督自身が本当に描こうとしているテーマにたどり着くのかもしれないが、そして実際監督はあちこちのインタビューでそれらについてはっきりと語っているのだが、なんとなくそこまできっちりと論じるのも野暮な気がするので、ムズムズと痒いところに手が届かないままで一旦考察を止める。

 深入りを野暮と感じさせるほど、この作品は軽快で、翻弄されるのも心地よい、うまく作られたスクリューボールコメディなのである。

 なお、耳に残るテーマソングは、タイのシンガーNadiaによる「Summer Samba(So Nice)」である。多くのアーティストによってカバーされているスタンダードナンバーであるが、この愛らしさが映画のトーンに大きな影響を与えているような気がする。是非フルでお聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=b9kH4dhsg6E

妙なもの食わされて、一瞬世界がピンク色に見えませんでした?度 ★★★★☆
(text:井河澤智子)

『ブリスフリー・ユアーズ』

英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説
ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年1月21日木曜日

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text高橋 秀弘

「日帰りデートのすすめ 〜『ブリスフリー・ユアーズ』を見て思うこと〜」


 ある日の午後、仕事もしないで、ミャンマー人のミン(男)と、友人のタイ人のルン(女)は、共通の友人のオーン(タイ人、女)に借りた車で森へと向かう。車が山道を走る頃、音楽が流れ映画のタイトルが画面に重ねられる。

©Kick the Machine Films

 はたして、病院の診療室の(炎症を患ったミンの皮膚を診てもらった)冒頭シーンから、全てのシーンが森を指向していたように思われる。病院帰りの街中の市場をぶらつく、ミンとオーンのツー・ショットで、オーンが差していた水色の日傘が、ところ変わって今度は、ルンと一緒に森へ足を踏み入れようとするミンの手に渡り、ルンとミンのツー・ショットを美しく鮮やかなものにする。とすればあの、ミンとオーンの市場のツー・ショットは、森への予感のショットだったことを、後で気づいて嘆息する。しかも、ルンとオーンの交替がまたドラマである。というのも、二人が森へと向かう一方、オーンが、彼女の夫の同僚である年下の男と、逢い引きする場所は同じ森であり、三人は森の中で偶然にも遭遇することになるのだから。

 森に入ると、早々に服を脱いでパンツ姿になったミンの体に、ルンは手を触れてみる。ルンは車中で何度か、塗り薬をミンの腕に塗っていた。その時からミンを求めていた。赤い木の実を、枝からむしり取っては口に頬ばる二人が、やがて接吻にいたるまでのそのじれったさもが官能的である。
 対して、逢い引き中の、オーンとその情夫のセックスシーンは、二つの裸の体が激しく揺れる生々しさが、単調なまでに強調されているのだが、むしろ、ことを終えて、丸い果物をムシャムシャ頬ばりながら、互いに愛撫し合う、まどろんだその男の横顔に、虚しさと隣合わせのエロスが滲み出ているようで魅惑される。森は、彼らにとってエロティシズムが開示される空間としてある。
 
 本作を見終わった後、森の印象が強く残る。映画の主な舞台が森だから、という理由だけではないだろう。だが、本作に登場する森は、象徴や比喩ではなく、ましてや聖性をそなえたものでもない。それから、未知なものでもない。

 ミンとルンの二人が森へと入るショットでは、カメラは森の内側から、入口の二人に向けられており、森の全体はおろか、外面も描かれていない。入口で二人は立ち止まったりしない。彼らにとって、森は明確に対象化されてはいないのだろう。
 彼らにとって森は重要である。しかし、それは「日帰りデート」の隠れスポットになってくれる存在だからである。

 ミン、ルン、オーンの三人は、間柄は友人同士だが、内心はそう思っていない。今ひとつ定かではないが、恐らくミンには妻と子供が、ルンには恋人が、オーンには夫がいて、過去に息子を失っている。オーンの家庭は金に余裕がなく、ルンは恋人に殴られた。ミンはタイ語の語学力不足で職を失う、さらに、何かの理由によって、故郷(ミャンマー)を追われているようである。三人の事情や経緯についてはそれ以上明かされないが、彼らが、本来の相手とは異なる、別の相手と共立って、森へ分け入ることになったのは、ミンがモノローグで口にするように、抱えている現実の問題から逃げるためだったと思われる。
 だが、彼らに切迫感はなく、のんびりした雰囲気である。あくまでも、現実逃避は一時的なものであり、つまり「日帰りデート」というほんのお遊びなのである。「日帰りデート」は「日帰りランデブー(火遊び)」と言ってもいいだろう。

 湧水池での水遊び、石の上での居眠り、それらは、彼らが森と関係を取り結ぶことだ。森は姿を変えて彼らの前に開示される。右を向けば右の森の姿が現れる。仰げば、顔に降り注ぐ木洩れ日となってくれる。蟻が皿の食べ物の上にたかるのもそうだ。ミンとルンの性的な戯れについても、森という空間が、その猥雑さを希薄にし、一層遊戯的なものにさせる。森と関係を取り結び、取り結ばれながら、そこで活動することが、彼らのお遊び(デート)となる。
 彼らのお遊びは、無作為的でありルールはないに等しく、論理や因果に縛られない。そのお遊びに対して、(仮に観客が)説明を求めてみたところで、答えが得られることはないだろう。目的や意味を確認しようとしても同じことだ。遊びは、「遊ぶ」という行為それ自体が目的なのだから。
 もちろん、彼らの遊びが白痴的だからといって、彼らが白痴というわけではない。彼らは大人であり、当たり前に三者三様の心理がある。戯れながら、彼らの心理はふと変化していく。そこから、三者の関係性に微妙な変化がもたらされることになるだろう。心理が垣間見えそうになる時、どこまでがお遊びでどこからがそうでないのか曖昧となる。ついさっきまで遊びだったものが、もはや遊びでなくなり、心境の一変する、ある飛躍が起こっているかもしれないが、相変わらず彼らの動きはいたって緩慢で偶発的でまばらであり、心理の流れを読み取ることは阻まれ、遊びかそうでないか、どちらなのか分からない。分からないけれども、煙草をくゆらす、空に浮かぶ雲を見つめる、池の水の中に半身つかりながら「探検」と唱える、そんな彼らの振る舞いには、“本気の素面”とでも言いたくなるような実感がある。確かに遊びというものは、プレイヤーを本気にさせる。
 
 森の中で、先の読めない遊戯を、彼ら三人がまさに経験していくそのままを、長回しでカメラが捉えたショットは、間延びしていて、冗長のように見える。だが、アピチャッポン監督は、切り捨てることなく、そのまま呈示する。観客は映し出された、彼らが遊戯を経験していくそのさまを、見続けることを要請される。
 およそ社会では、経済的、合理的、論理的な動機(他にもあるだろう)から、冗長はとかく排除されがちだ。けれども、人間や事物は自らの存在のうちに冗長さを孕むのであり、冗長さのうちに、豊かさを見ることは無駄ではないだろう。ありがたがるよりも、面白がるぐらいが丁度いい。
 カメラのようにじっと見つめれば、石の上で眠る静止したミンのすぐそばで枝葉は揺れ、せせらぎが聞こえる。不意に彼らの本気に出くわす。


初日立ち見時々屈伸度:★★★★★
(text:高橋秀弘


『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説
ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
配給:ムヴィオラ

公式ホームページ
http://www.moviola.jp/api2016/

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日

場所:シアター・イメージフォーラム

2016年1月20日水曜日

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text 長谷部 友子

「森に隠してきたもの」


若い男、若い女と中年の女。
彼らの関係は何なのだろう。最後までよくわからない。

ミャンマー人の青年ミンは、職を求めてタイへ来た不法移民だ。町で暮らす彼は、不法移民ゆえに職を得ることができず、若い女のルンと中年の女オーンはそんなミンを世話している。彼らの関係性はよくわからない。
ある日、ルンはミンと森にピクニックへ行く。同行したわけでもないのに、ふとしたことからオーンも合流し、奇妙なピクニックが続けられる。

©Kick the Machine Films

ピクニック。
軽やかな響きのする言葉だが、このピクニックは長閑でありながらも、どこか不穏だ。森でのピクニックで、食事をし、セックスをし、昼寝をする。森で行われること、それは欲望の発露であり、隠したいことなのだろうか。
そもそもどうして人は森へピクニックに行くのだろう。自然に分け入り、そこで何をしようというのだろう。

誰も誰かを選びきることをしない。
ルンはミンに好意を寄せているようだけれど、彼女を殴る恋人と喧嘩中らしい。オーンはミンの面倒を見ているが、ルンがオーンに金銭を渡しているところからすると、純然たる善意ゆえに二人と関わっているわけでもなさそうだ。そんなオーンは夫の同僚と思しき男と森でセックスをしているが、息子を失った悲しみから立ち直れないようだ。ミンはあまり話さず二人の女性から世話を焼かれ、中途半端に流されているが、国には妻と子供を残しているらしい。

愛し切ることも掴み切ることもせず、その場のむなしさを埋める。くだらない、覚悟のない、やるせない、そんな惰性の日常。どこにも行けない。そんな日常からの束の間の離脱であるピクニック。

叫び出すほどの孤独。それはなんと生ぬるく甘っちょろいものだろう。慟哭はいつか止み、涙も枯れる。しかし日常は終わることがない。日常の行き場のない孤独を描き出したとき、そこにあるのは、滑稽さか、不穏さか、それとも美しさなのか。

彼らは森に欲望を隠しに行ったのだろうか。
いや、一番隠したかったのはさみしさだ。
孤独にすらなれないさみしさを森にそっと隠している。

(text:長谷部友子)



『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説
ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

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「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年1月17日日曜日

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text大久保 渉

「 君と見つめ合った瞬間を思いだす 」

 あの日あの時あの場所で、彼らは何を感じていたのだろうか。今でもふと思いだす、あの涙。あの頬笑み。

 優しく女の頭をなでていた、男の大きな手。慈しむように男の体に触れていた、女たちの小さな手。澄み切った川の中で触れあう男と女のみぎ足ひだり足。女たちを温かく見つめる男の穏やかな瞳。

 それは純情な愛ゆえの行動なのか、それともただ満たされない心を埋めたいがための、孤独ゆえの行為なのか。不法移民で無職の青年ミン。息子を亡くした中年女のオーン。そして恋人との仲がうまくいっていない年若い娘ルン。カメラは彼らの不思議なつながりを映しだす。時に遠くから、時に彼らの背後から。まるで無関心を装うかのように、まるで彼らの心の中を隠すかのように。お互いに足りない何かを補い合って生きている彼らの姿が、眩く、侘しく、心の内に滑り込む。

 そして私は、思いだす。過ぎ去りし日々の中で出会った大切な人たちの面影を。今はもう会うことのない人たちの眼差しを。もしもあの時彼らの気持ちにもっと寄りそっていたならば、いや、それはしかし、やはりどうでもいいことなのかもしれない。

 あの日あの時あの場所で、過ごした日々のぬくもりは、今もこうして微かに胸の中に残っているのだから。たとえそれがその場限りの慰めであったとしても、それは映画の中の、あの生い茂る森の木々の間から差し込む陽光と同じように、私の心を、じわりじわりと温めてくれるのだから。たとえそれがやがては消え去ってしまうものであろうとも、しかしいずれはまた陽が昇るのと同じように、不思議と胸の奥底からふっと思い出される日が来ては、あの瞬間を恥ずかしく思いながらも、きっと懐かしむことができるのだろうから。

©Kick the Machine Films

(text:大久保渉)




『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説
ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

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「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

【アピチャッポン特集】映画『ブンミおじさんの森』評 text長谷部 友子

私はもうアピチャッポンについて何も語りたくない 

独特である。見る人を選ぶというか、ある種の忍耐がいる。けれどそれは厳格な、選民的なものではなく、優しさと素朴さに満ちている。この独特の流れにのることができれば、身を任せることに快感を覚えるし、他の作品も見たくなる。アピチャッポン監督の作品とはそういうものだ。

タイの山間に住むブンミおじさんは死期が迫っている。亡くなった妻の霊や、かなり昔に行方不明になった息子が猿の姿をした精霊になって現れる。そんなとんでもない状況に少し驚きながらも、ブンミおじさんは自然と受け入れ、かつての家族と話し、束の間の交流をする。彼らはブンミおじさんを迎えに来たかのように、おじさんと共に再び姿を消していく。
人間、幽霊、精霊や動物。人ならざる者との共生と転生輪廻。タイにおける共産主義化をめぐる歴史問題を織り交ぜつつ、詩情豊かに「土地」と「記憶」をめぐる物語が紡がれる。

世界は開かれているらしい。
万人に等しく開かれているのだから、万人にわかるように、合理的で論理的な説明が求められる。最短での論理の組み立てが是とされ、なんとなくといった弱い感覚は隅に追いやられ、零れ落ちていく。

世界は広がっているらしい。
インターネットの普及をはじめとするテクノロジーの進化により、あらゆるものはアクセス可能となり、つながることができる。けれどそこに理解はあるのだろうか。理解ではなく、わかる範疇のものへの同意と、それ以外のものへのすさまじい切り捨てと分断こそが行われているようにも見える。

©Kick the Machine Films

アピチャッポン監督の映画が私に与える感覚を、まだ私は言い当てられない。
けれどそこに潜む快楽は、世界の広大さを予感させる。そしてその広大さとは、先述した類のものとは、まったく別の種類のものだ。

「私たちは等しく間違っている」と私は常々思っている。何故そう思うのかと聞かれても、究極的に理由はない。人生に対して肯定よりも否定を多く感じる性質なのだろう。しかしある種の作品は「私たちは等しく正しいのかもしれない」と励ましのような、前向きさのような肯定を与えてくれることがある。アピチャッポンはそれすらも超え、私の予知や予感が及びもしない領域が世界にはある、そしてそれはよきものであると感じさせるのだ。示すのでもなく想定するのでもなく、感じさせる。アピチャッポンの特異さはそこにあるように思う。

しかしアピチャッポンの作品を手放しに称賛することに、私はためらいを覚える。
西洋人からみた東洋の思想、特に転生輪廻などの死生観はとても新鮮に映るようだが、それはアピチャッポン個人としての独創の産物というより、彼に連なる脈々とした土地の記憶から生じているもののように思われる。ある種の素朴さから生じているものに、過剰な意味づけをすることで、そこに宿る本質を損なってしまうのではと恐れている。

西洋的な価値が敷衍している現在、各々の宗教観や死生観によるとはいえ、多くの人間はこのたった一度の人生を生き切らなければならないというすさまじい圧力のもとにある。この人生で勝たねばならないし、表現をしなければならない。意味のあることをしなければならないし、価値を創出しなければならない。この一生を生き尽くさなければならない。

心配なら幽霊になって手伝いにくるから、この農場を継がないかと亡き妻の妹に言うブンミおじさんに思わずくすりと笑ってしまう。
もしもこの生だけではないとしたら。幽霊にもなるし、猿の精霊にもなれる。転生輪廻をするとしたら、たゆたうような善良さで私たちは生きられるのかもしれない。何かを為さずとも、その素朴な生がきらめくのかもしれない。

私はもうアピチャッポンについて何も語りたくない。
彼を論じれば、それは論理という枠組みで彼の素朴さを殺してしまうことに加担するような気がする。アピチャッポン監督は、自身の映画を解釈されることを求めてはいないと思う。くすっと笑うこと。きっとそういうことのはずだ。

感じることからはじめてみよう。
ブンミおじさんと一緒に森へ分け入りながら。

(text:長谷部友子)





ブンミおじさんの森
英語題:
 UNCLE BOONMEE WHO CAN RECALL HIS PAST LIVES
2010年/イギリス、タイ、ドイツ、フランス、スペイン/カラー/35mm/114 分

作品解説
腎臓の病に冒され、死を間近にしたブンミは、妻の妹ジェンをタイ東北部の自分の農園に呼び寄せる。そこに19年前に亡くなった妻が現れ、数年前に行方不明になった息子も姿を変えて現れる。やがて、ブンミは愛するものたちと ともに森に入っていく......。美しく斬新なイマジネーションで世界に驚きを与えた、カンヌ国際映画祭パルムドール(最 高賞)受賞作。

キャスト
タナパット・サーイセイマー
ジェンチラー・ポンパス
サックダー・ケァウブアディー
ナッタカーン・アパイウォン

スタッフ
製作/脚本/監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン 
製作:サイモン・フィールド/キース・グリフィス/シャルル・ド・モー/アピチャッポン・ウィーラセタクン
撮影:サヨムプー・ムックディープロム
編集:リー・チャータメーティクン
音響:清水宏一

第63回カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)受賞
「ブンミおじさんの森」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督
UNCLE BOONMEE WHO CAN RECALL HIS PAST LIVES
A FILM BY APICHATPONG WEERASETHAKUL

提供:シネマライズ

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年1月16日土曜日

【アピチャッポン特集】映画『真昼の不思議な物体』評 text高橋 雄太

「森への入り口」


アピチャッポン・ウィーラセタクンの長編第一作『真昼の不思議な物体』は、アピチャッポン映画への入り口となるだろう。

本作は次のような作品である。アピチャッポンたち撮影チームの依頼により、行商人の女性が「真昼の不思議な物体」の登場する架空の物語を即興で語り始める。彼女の後を受け、老婆、セパタクローをする青年たち、村人たちなど、多くの人々が物語を語り継いでいく。物語の中では、脚に障害のある車椅子の少年と家庭教師の女性の元に「不思議な物体」が現れ、その物体が別の少年になり、家庭教師になり、さらに鬼になり、再び少年に……と「物体」は定型をなさず、変化していく。それとともに語られる物語も、少年と家庭教師との話、隣人による鬼退治、隣人と家庭教師との恋物語、少年の脚が悪くなった過去のいきさつ、子供を誘拐してバンコクへの逃避行……などと移り変わっていく。この映画は、始めから終わりまでが一本につながる線形的なものではない。語り手が物語の分岐点として機能することで、彼らに応じて変化していく多元的なものである。また、おそらく映画とは関係のないと思われるテレビ番組やボクシングの試合も、ナレーションや字幕を重ねることで、例えば少年の過去を説明するなど、物語の一部として機能する。

©Kick the Machine Films

では本作は、各人の語る物語やテレビ番組をコラージュして一つの物語を作り上げたのだろうか。いや、この映画ですら一つの物語とは言えないであろう。
「物体」の物語は、基本的に劇映画的な映像として描かれている。だがその物語を演劇として演じる村人たちも登場する。脚の不自由な少年は、映像では車椅子の少年として登場するが、演劇では自転車に乗った大人の男性になっている。また、家庭教師や隣人も、映像と演劇とでは別人が演じている。複数の語り手たちが織りなす一つの物語が、複数の形式で表現されているのだ。
また、村人たちの前にテープレコーダーが置かれ、撮影チームが彼らに物語の続きを語るように促すシーンがある。このことから、映画に登場する人々は、「物体」の物語を映像として観ているのではなく、口伝えで物語を聞いていると推測される。一方、映画の観客である我々は「物体」の物語を映像として観る。すなわち、都市伝説のように口承される物語と、一本の映画としてスクリーンに投影され、我々の目に触れる映像としての物語が存在している。無論のこと、これらは別物である。
複数の語り部たちが語る複数の物語、それらをコラージュした物語、そして複数の表現形式。これらを組み合わせた本作は、通常の劇映画のように単線的に物語る構造ではなく、複線的な構造を有している。噂や都市伝説が伝播するうちに変化していくように、複数の語り手たちによる即興の物語は、常に変化の可能性に開かれている。実際、前述のように本作の中において、物語は次々と変わっていく。だが、可能性は本作に具現化したものに限られない。例えば語り部の一人が別人、または語る順番を入れ替えれば物語が変わり、それに影響されて物語の続きも変わったはずだ。また、音声ではなく映像によって彼らに物語を伝え、その続きを語らせることもできたであろう。その場合、別の物語が語られた可能性もある。さらに、劇映画か演劇かなど、表現の形式にも選択肢が存在する。本作は確かに一本の映画であるが、それすら可能性のうちの一つを取り出したに過ぎないのだ。

これがアピチャッポンの長編第一作であることは示唆的である。アピチャッポンの映画には『ブリフスリー・ユアーズ』のような二部構成の作品がある。『ブンミおじさんの森』には本筋とは異なる物語が挿入される。複数の物語を有しており、また観る者によって意見が大きく異なるであろうアピチャッポン作品。その作品群の始まりにおいて、既に複数の世界が並行しており、わかりやすい唯一の世界など存在しない。本作はアピチャッポンの森に分け入るために準備された作品のようである。

「物体」と同様に、映画に登場する人々も複数の世界を生きている。序盤に登場する行商人や老婆のシーンでは、例えば行商の宣伝の声が「物体」の物語の映像内に重なるなど、彼女らの実生活の声と物語を語る声とが区別なく響く。村人たちの演劇のシーンでは、終演するとカメラは舞台からパンして、拍手する観客たちを映し出す。終盤、二人の少年たちが「物体」の物語を演じているのだが、同じショットで「もう終わった?」、「アイスクリーム忘れないでよ」などと物語外のことを話し始める。さらに車椅子の少年は自らの脚で立ち上がる。これらのシーンにおいて虚構と現実との区別は消失し、ワンカットの中で共存する。まるで現実から分岐して虚構の物語が生まれているようだ。見方を変えれば、現実の方が物語の一つの可能性にも思えてくる。

現実に生きる我々が、映画『真昼の不思議な物体』を観て、それについて語ること。このことは本作の語り部たちの活動を引き継ぐこと、物語を継続させることではないか。アピチャッポンの映画と同様に、複数の世界を発生させることではないか。我々の前にアピチャッポンの森への入り口は開かれているのだ。

森への誘惑度:★★★★★
(text:高橋 雄太)

『真昼の不思議な物体』
英語題:Mysterious Object at Noon
2000年/タイ/モノクロ/35mm/83 分

作品解説
監督はタイの国中を旅し、出会った人たちに物語の続きを創作してもらう。画面には、マイクを向けられるタイの地方の人々と、彼らによって語られた「不思議な物体」の物語が、交錯して描かれる。話し手により物語は次々と変容する。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
脚本:タイの村人たち
撮影:プラソン・クリンボーロム
編集:アピチャッポン・ウィーラセタクン、ミンモンコン・ソーナークン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム