2016年1月21日木曜日

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text高橋 秀弘

「日帰りデートのすすめ 〜『ブリスフリー・ユアーズ』を見て思うこと〜」


 ある日の午後、仕事もしないで、ミャンマー人のミン(男)と、友人のタイ人のルン(女)は、共通の友人のオーン(タイ人、女)に借りた車で森へと向かう。車が山道を走る頃、音楽が流れ映画のタイトルが画面に重ねられる。

©Kick the Machine Films

 はたして、病院の診療室の(炎症を患ったミンの皮膚を診てもらった)冒頭シーンから、全てのシーンが森を指向していたように思われる。病院帰りの街中の市場をぶらつく、ミンとオーンのツー・ショットで、オーンが差していた水色の日傘が、ところ変わって今度は、ルンと一緒に森へ足を踏み入れようとするミンの手に渡り、ルンとミンのツー・ショットを美しく鮮やかなものにする。とすればあの、ミンとオーンの市場のツー・ショットは、森への予感のショットだったことを、後で気づいて嘆息する。しかも、ルンとオーンの交替がまたドラマである。というのも、二人が森へと向かう一方、オーンが、彼女の夫の同僚である年下の男と、逢い引きする場所は同じ森であり、三人は森の中で偶然にも遭遇することになるのだから。

 森に入ると、早々に服を脱いでパンツ姿になったミンの体に、ルンは手を触れてみる。ルンは車中で何度か、塗り薬をミンの腕に塗っていた。その時からミンを求めていた。赤い木の実を、枝からむしり取っては口に頬ばる二人が、やがて接吻にいたるまでのそのじれったさもが官能的である。
 対して、逢い引き中の、オーンとその情夫のセックスシーンは、二つの裸の体が激しく揺れる生々しさが、単調なまでに強調されているのだが、むしろ、ことを終えて、丸い果物をムシャムシャ頬ばりながら、互いに愛撫し合う、まどろんだその男の横顔に、虚しさと隣合わせのエロスが滲み出ているようで魅惑される。森は、彼らにとってエロティシズムが開示される空間としてある。
 
 本作を見終わった後、森の印象が強く残る。映画の主な舞台が森だから、という理由だけではないだろう。だが、本作に登場する森は、象徴や比喩ではなく、ましてや聖性をそなえたものでもない。それから、未知なものでもない。

 ミンとルンの二人が森へと入るショットでは、カメラは森の内側から、入口の二人に向けられており、森の全体はおろか、外面も描かれていない。入口で二人は立ち止まったりしない。彼らにとって、森は明確に対象化されてはいないのだろう。
 彼らにとって森は重要である。しかし、それは「日帰りデート」の隠れスポットになってくれる存在だからである。

 ミン、ルン、オーンの三人は、間柄は友人同士だが、内心はそう思っていない。今ひとつ定かではないが、恐らくミンには妻と子供が、ルンには恋人が、オーンには夫がいて、過去に息子を失っている。オーンの家庭は金に余裕がなく、ルンは恋人に殴られた。ミンはタイ語の語学力不足で職を失う、さらに、何かの理由によって、故郷(ミャンマー)を追われているようである。三人の事情や経緯についてはそれ以上明かされないが、彼らが、本来の相手とは異なる、別の相手と共立って、森へ分け入ることになったのは、ミンがモノローグで口にするように、抱えている現実の問題から逃げるためだったと思われる。
 だが、彼らに切迫感はなく、のんびりした雰囲気である。あくまでも、現実逃避は一時的なものであり、つまり「日帰りデート」というほんのお遊びなのである。「日帰りデート」は「日帰りランデブー(火遊び)」と言ってもいいだろう。

 湧水池での水遊び、石の上での居眠り、それらは、彼らが森と関係を取り結ぶことだ。森は姿を変えて彼らの前に開示される。右を向けば右の森の姿が現れる。仰げば、顔に降り注ぐ木洩れ日となってくれる。蟻が皿の食べ物の上にたかるのもそうだ。ミンとルンの性的な戯れについても、森という空間が、その猥雑さを希薄にし、一層遊戯的なものにさせる。森と関係を取り結び、取り結ばれながら、そこで活動することが、彼らのお遊び(デート)となる。
 彼らのお遊びは、無作為的でありルールはないに等しく、論理や因果に縛られない。そのお遊びに対して、(仮に観客が)説明を求めてみたところで、答えが得られることはないだろう。目的や意味を確認しようとしても同じことだ。遊びは、「遊ぶ」という行為それ自体が目的なのだから。
 もちろん、彼らの遊びが白痴的だからといって、彼らが白痴というわけではない。彼らは大人であり、当たり前に三者三様の心理がある。戯れながら、彼らの心理はふと変化していく。そこから、三者の関係性に微妙な変化がもたらされることになるだろう。心理が垣間見えそうになる時、どこまでがお遊びでどこからがそうでないのか曖昧となる。ついさっきまで遊びだったものが、もはや遊びでなくなり、心境の一変する、ある飛躍が起こっているかもしれないが、相変わらず彼らの動きはいたって緩慢で偶発的でまばらであり、心理の流れを読み取ることは阻まれ、遊びかそうでないか、どちらなのか分からない。分からないけれども、煙草をくゆらす、空に浮かぶ雲を見つめる、池の水の中に半身つかりながら「探検」と唱える、そんな彼らの振る舞いには、“本気の素面”とでも言いたくなるような実感がある。確かに遊びというものは、プレイヤーを本気にさせる。
 
 森の中で、先の読めない遊戯を、彼ら三人がまさに経験していくそのままを、長回しでカメラが捉えたショットは、間延びしていて、冗長のように見える。だが、アピチャッポン監督は、切り捨てることなく、そのまま呈示する。観客は映し出された、彼らが遊戯を経験していくそのさまを、見続けることを要請される。
 およそ社会では、経済的、合理的、論理的な動機(他にもあるだろう)から、冗長はとかく排除されがちだ。けれども、人間や事物は自らの存在のうちに冗長さを孕むのであり、冗長さのうちに、豊かさを見ることは無駄ではないだろう。ありがたがるよりも、面白がるぐらいが丁度いい。
 カメラのようにじっと見つめれば、石の上で眠る静止したミンのすぐそばで枝葉は揺れ、せせらぎが聞こえる。不意に彼らの本気に出くわす。


初日立ち見時々屈伸度:★★★★★
(text:高橋秀弘


『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説
ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
配給:ムヴィオラ

公式ホームページ
http://www.moviola.jp/api2016/

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日

場所:シアター・イメージフォーラム

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