2016年1月25日月曜日

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text佐藤 奈緒子

「裸になれる場所」


人は生きるために何かを装い繕っている。自らを偽る小さな嘘を何千何万と繰り返すうち、知らぬ間に心に積もってゆく澱……。それがいつしか堪えがたいヘドロとなるとき、人は森に逃げる。

不法移民の青年ミンは身分をごまかして就労許可をもらおうとしている。ガールフレンドのルンは残業を強いられる工場の仕事に嫌気がさしている。子供を亡くした女性オーンは夫の同僚と浮気をしている。ミンの体に発疹が出て、ルンが職場の上司に小言を言われ、オーンが皮膚クリームを夫に味見させたある日、彼らはふと、森に行くことにした。

町から森へと舞台が切り替わると、それまで表情すらよく見えなかった三人は、徐々に人格と肉体を持ち始める。森に分け入り裸になったミン。キラキラした瞳で彼を追いかけるルン。二人が赤い実をむさぼり、触れ合い、キスをするとき、太陽も木々も川も、すべてが彼らを祝福するように輝きだす。トラン・アン・ユンの『青いパパイヤの香り』さながらの無垢な官能に、観る者がうっとりと身を任せたその瞬間、オーンと愛人の生々しいまぐわいが画面をぶったぎる。ここでのオーンの表情は、いち中年女性という枠に隠れていた深い孤独と激しい情念を暴く。森は彼らを裸にしてしまう。

 
©Kick the Machine Films


偶然に川辺で三人が合流してからは完全にスリラーだ。あどけない残酷さを秘めたルン、闇を深めるオーン。一人の男をめぐって不穏な空気を醸し出す二人の女が水を掛け合う光景の戦慄。かといって、何か事件が起こる訳ではない。その後、若いカップルは木漏れ日の中、半裸で昼寝をする。傍らで慟哭するオーン。その悲しみは狂気をも孕み、この世の物とは思えない表情をたたえながら、彼女もまた一人横になる。

英語のタイトル“Blissfully Yours”は手紙の結語だが、タイ語のタイトルを直訳すると「この上ない愛情」のような意味になるそうだ。すべてが不実とはいえ、森で過ごした束の間だけでも、彼らは至高の愛を共有していたのだろうか。もしくは、森に抱かれること自体が、この上ない愛情に包まれているということなのだろうか。

見終わってからもオーンの表情が頭から離れない。彼女はどうなっただろう。あのまま眠ったら魔物にでもなってしまいそうだ。そんな予感がぬぐえない。考えてみると、アピチャッポン監督が2年後に撮った『トロピカル・マラディ』では『山月記』をモチーフに、森でトラになる男の話が出てくる。ということは、ラストショットでルンが目を見開くその視線の先はもしかすると……。テロップで説明される「三人のその後」を完全に無視した、私だけのストーリーがここにできあがった。

普通のピクニックがしたい度:★★★★★
(text:佐藤奈緒子)


『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説

ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

0 件のコメント:

コメントを投稿