2016年2月29日月曜日

映画『氷の花火 山口小夜子』text長谷部 友子

「美しいことは苦しいこと」


ドキュメンタリーのあるべき姿なんてものは、よくわからない。
しかしそれはときにとても恣意的で、あぶり出すような残酷さと、冷静な第三者を気取った傲慢さと共に紡がれる。あたかも神の視点のように。そうしたものがドキュメンタリーであるとすれば、これはドキュメンタリーではないのかもしれない。

この映画は、生前の山口小夜子と交友のあった松本貴子監督が、彼女と親交のあった人々の証言を集め、残された映像に触れながら「山口小夜子」を探す旅に出る。
どうして山口小夜子は、モデルの道へ進むことになったのか。トップモデルとしての階段を駆け上がっていく中での苦悩。映画、演劇、ダンスパフォーマンス、衣装デザインといった多彩なジャンルに進出し、常に時代の最先端に居続ける努力を惜しみなく続け、表現者として妥協を許さなかった彼女は、どこを目指していたのか。
そして彼女が愛した膨大な数の服やアクセサリーの遺品を開封し、山口小夜子を現在によみがえらせようと「小夜子プロジェクト」を立ち上げる。山口小夜子を追うその視線はどこまでも優しく愛おしげで、けれど生前には踏み込むことのできなかった領域に、彼女に敬意を払いながらもゆっくりと、踏み込もうとしている。

山口小夜子。
世界中の人々に“東洋の神秘”と称賛された伝説のモデル。
1970年代初頭、ハーフモデル全盛のファッション業界で、黒髪に切れ長の瞳、神秘的で妖艶な容姿、“日本人であること”を武器に、たった一人で世界に闘いを挑んだ。山本寛斎、髙田賢三、イブ・サンローラン、ジャン=ポール・ゴルチェ、枚挙にいとまない一流のファッションデザイナーに愛され、セルジュ・ルタンス、横須賀功といったトップクリエイターのミューズとなり、世界のスター、ミック・ジャガー、スティーリー・ダンと渡り合った女性。

あるデザイナーからモデルとしての絶頂をすぎたと言われたことがきっかけなのか、彼女はパリコレから去り、長年勤めた資生堂の専属モデルも降り、姿を消す。
元トップモデルとして、仕事を選び、築き上げた地位を守ることもできたはずなのに、「身体というものを考えてみたい」と未経験の前衛的なダンスパフォーマンスの世界に飛び込み、公演のため世界中を舞踏グループのメンバーと共にまわる。36歳にしてやってくれる。
45歳。10年ぶりに、イッセイミヤケのショーでランウェイを歩く彼女の姿は圧巻であった。もはやモデルという枠におさまらず、身体のありとあらゆる部分をうごめかし、彼女は表現者となっていた。
そうして、あらゆるジャンルでこれからというときに彼女はあっけなく死んでしまう。一人ひっそりと。

整備されたコンクリートの道を歩けばハイヒールは汚れないし、土ではあるけれど既に誰かが歩いたあぜみちも、まあそれなりには歩けるだろう。獣道にすらなっていない、未だ誰も踏み入れたことのない道、道ですらないその空間に踏み込んでいくのは険しく、とがった葉っぱで頬は切れるだろうし、足はずたずたに傷だらけとなるだろう。そんな傷跡は望んでいない。けれど。

「美しいことは苦しいこと」
生前、山口小夜子はそう言っていた。
孤独だけが、研ぎ澄まされた美しい景色を見せるだろう。表現者たろうとした者に平穏は許されていない。けれどその果ての果てまで見たい。

自由であれ。
表現者たれ。
生まれたからにはその生を味わい尽くせ。
彼女は人前に立ち、大きく旗を振り、革命を志したわけではない。声を荒げることなく最後まで鈴のような声音で話し続けた。自らの内にあるものに徹底的に向き合い、自身の深淵をのぞきこみ続け、そこから示される美は死してなお、多くの人を引き寄せ続ける。

期待せずに見たのに心を奪われてしまった度:★★★★☆
(text:長谷部友子)



『氷の花火 山口小夜子』
2015年/日本/97分/カラー

作品解説
1970年代初頭に、日本人であることを武器に世界に挑んだ伝説のモデル、山口小夜子。その活躍はモデルの枠を飛び越え、様々なジャンルへと広がり、常に最先端の美を追求し続ける世界基準の表現者でありつづけた。そんな山口小夜子の知られざる実像に、生前、彼女と交友のあった松本貴子監督が、様々な関係者の証言や、没後8年を経て開封された彼女の遺品の数々、さらには残された貴重な映像を通して迫っていく人物ドキュメンタリー。

出演
山口小夜子
天児牛大
天野幾雄
生西康典
入江末男
大石一男
大塚純子
掛川康典
ザンドラ・ローズ
下村一喜
セルジュ・ルタンス
ダヴェ・チュング
高田賢三
高橋靖子
立花ハジメ
富樫トコ
富川栄
中尾良宣
藤本晴美 
松島花
丸山敬太
山川冬樹
山本寛斎
 
スタッフ
監督: 松本貴子
プロデューサー: 於保佐由紀
撮影: 岸田将生
編集:前嶌健治
音楽: 久本幸奈
音楽プロデュース: 井田栄司
整音:高木創
配給:コンパス

公式ホームページ
http://yamaguchisayoko.com

劇場情報
アップリンク  2016年1/30(土)より公開中
下高井戸シネマ  2016年4/2(土)より公開予定
他全国順次公開中





2016年2月17日水曜日

【アピチャッポン特集】映画『トロピカル・マラディ』評 text長谷部 友子

「孤独な魂の行方」


一瞬の油断もなくそれを見終えた。
鮮烈な映画だ。うねるような暑さ、体液の匂い、息遣い。どれもが生々しすぎる。

「人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。」

『トロピカル・マラディ』の冒頭で引用される中島敦の『山月記』の一節。主人公の李徴は自らが虎になった理由をそのように説明した。

山間の小さな村、兵士のケンと村の青年トンは、出会い、恋に落ちながらも静かな日々を過ごしている。突如、劇中劇といった形式で「魂の通り道」という、呪いにより人間が虎に変身するタイの民間伝承が語られる。この劇中劇を境に、淡々と描かれる前半から、同じ映画とは思えないほどに一転する。牛が次々と殺されてゆく事件を調べるため、残された足跡をたどって森の奥深くに分け入った兵士は、全身に刺青を施した不思議な男の姿を目にする。刺青の男は咆哮を上げ、虎に変身しているようだ。前半でケンとトンとされた人物が演じてはいるものの、後半では「兵士」と「虎」としか語られない。

『山月記』において虎になった理由は尊大な羞恥心とされ、「人間ならざるものになる」ということを中島敦は近代的な自我のありようと結びつけて考えている。しかし『トロピカル・マラディ』においては、虎になることは過剰な自意識や不遜さといった近代的な自我のありように下される罰などではない。太古の昔に遡り、私たちは既に虎になっているような錯覚に陥ってしまう。

兵士は虎に対峙したとき、その虎が誰なのかを問うことになる。
見ず知らずの刺青を施した男が変身した後の姿なのか、それとも前半で恋人として描かれたトンなのか。兵士は言う。「ここで会っているのは自分自身」だと。さらに「ここでお前を殺したら、互いに動物でも人間でもないものになる」と続ける。
この凄まじい緊迫感の対峙。虎に対峙している。しかしその虎とは一体何者なのだろう。虎を追って森に入ったはずなのに、私自身が虎だったのか。いや私だけが虎なのではない。絶えず誰かが虎になり、虎の自分と対峙する。森の中、猿は兵士に「お前は奴の獲物であると同時に友なのだ」と告げる。


©Kick the Machine Films

この作品に漂い続ける暴力的なエロティシズム。
ジョルジュ・バタイユによれば、エロティシズムとは有限な個体に対してのみ現れるものである。有限な個体は自己中心的であるが、我知らず他者との共同へと促され、自己を失う危険を冒しつつ他者との共同へと誘われる。
森に誘われ、分け入っていく兵士。そこにある圧倒的な誘惑と、拒絶と、孤独の衝突。虎は闇に潜み兵士を誘惑しながらも、決して交わることのない孤独を、咆哮を上げて訴える。ここに描かれているのは、生の根源的な哀しさである。
映画を見終えて大きく息を吐く。深呼吸を繰り返し、自分がひどく動揺していることに、疲れ果てていることに気づいた。この倦怠は、あなただけはと思う人と、多くの時間と言葉を尽くし語り合い、それでも届いていないのだという、もどかしさを越えた怒りと悲しみに似ている。

優れた作品は孤独に効く。
私を理解する者はいない。世界中に現存すると言われる七十億の人間をあたって試したわけでもないけれど、そんなことは試す前から無駄だと思っている。自分がたった一人、凄まじい孤独にさらされているという圧倒的な感覚に支配されている。
作品に対峙するとき、これを考え、直面し、取り組んだ者がいたのだと思い知らされる。芸術はどれほど孤独を描ききろうと、孤独に陥ることを許さない。その作品を受領する者が存在し続ける。そしてそれは下手な慰めなどではなく、自分が決して孤独に陥れないことを了解させられる。

映画の冒頭、前半のケンとトンの恋愛が語られはじめようとする前、一人の青年が裸で走りさる一瞬のカットがあった。あれは誰なのだろう。
生々しく、原始的なあの場所で、彷徨い続ける孤独な魂の行方を案じずにはいられない。
青年は、これから虎になるのか、すでに虎になっているのか。虎になることが恐ろしいのだろうか。いや人であることが、人に戻ることこそが恐ろしい。あらゆることはおこる。とどまれというのか、超えろというのか。変容し、変容こそが生である。
この先、何度だって森に潜るだろう。生ある限り、そこにあるものを見ないわけにはいかない。

(text:長谷部友子)

関連記事:アピチャッポン特集





『トロピカル・マラディ』
英語題:
Tropical Malady
2004年/タイ、フランス、イタリア、ドイツ/カラー/35mm/118 分

作品解説
愛し合う二人の青年の日常がみずみずしく描かれる前半から、一転、不穏な空気に包まれる後半。冒頭には日本の作 家、中島敦の「山月記」の一節が引用され、アピチャッポン作品を貫く重要な要素の一つである“変容”が最も顕著 に表現されている。観客に森の中に迷い込んだかのような感覚を与える撮影と音響は圧巻。カイエ誌ベスト 1 にも輝 いた傑作。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月14日日曜日

【アピチャッポン特集】映画 アートプログラム『国歌』評 text長谷部 友子

「エアロビとエネルギー」


一時期、新人賞を獲った小説ばかり読んでいたことがある。処女作は、概して完成度は低いし、練られておらず、雑さが目立つ。しかしその分と言っては何だが、粗削りの勢いがあり、切れ味がよく、その後総合力を身につけ、見えにくくなってしまう作者の本質をざっくりと表出させる。それが面白かった。
アートプログラムにおいて上映された『国歌』は、アピチャッポンの初期の作品というわけではないが、なぜか新人賞の作品たちを思い出した。長編では隠されてしまうアピチャッポンのエッセンスともいうべきものが、五分というこの短い作品には凝縮されている。

女性たちが水辺のベランダのような場所で話している。今一つ話は噛み合わず、突如ラジカセの音楽が大きくなり、体育館のバドミントンコートが映し出される。バドミントンが行われる体育館を360度カメラがゆっくりとすべるように回っていく。この唐突な場面転換。バドミントンのラリーは続かない。まるで先程の噛み合わない会話のように。そしてバドミントンの隣では激しいエアロビのようなダンスが繰り広げられる。

アピチャッポン映画の十八番ともいえる、このエアロビ。『世紀の光』の音楽とエアロビからなる多幸感溢れるラストシーン。『トロピカル・マラディ』でもエアロビのダンサーにウインクする場面がある。タイにおいてエアロビは一般的なのかもしれないが、それにしてもアピチャッポンの映画におけるこのエアロビのシーンは、きらきらとした軽やかさを映しながらも、一抹のもの悲しさと切なさを感じさせる。動き出してしまうということ。そこに運動があり、エネルギーがある。エアロビのダンスは、世界が動き出してしまっているという仕様もなさを思わせる。

同じ事象を見ていても、こちら側から見ると単調な会話をする女性たちに見える。けれど、そちら側から見れば続かないバドミントンのラリーと、激しく踊るエアロビ、そう分子が運動しあうようなエネルギーの流れに見える。

アピチャッポン映画のテーマでもある境界。境界の中で運動しあうエネルギー、それらは境界を越え、侵食しあおうとしながらも、寸前のところで境界内にとどまり共存しあう。境界と浸食と共存を、エアロビとエネルギーを、つまりアピチャッポンの世界観が思う存分盛り込まれた五分間だ。

(text:長谷部友子)

 

作品解説

アートプログラム<中・短編集> 
104分/台詞のある作品はすべて日本語字幕付きで上映

 『国歌』(The Anthem) 
2006年/5 分 
タイの映画館では、本編上映前に国歌が流れる慣習を独自にアレンジした短編作品。

*その他、アートプログラム〈中・短編集〉で上映された作品☟

『Worldly Desires』  
2005年/42分32秒
韓国チョンジュ映画祭の企画『三人三色』で制作した映画内映画。

 『エメラルド』(Emerald) 
2007年/11分
80 年代バンコクで隆盛を極めるが、閉館してしまったエメラルド・ホテル。その場所の記録と記憶。

 『My Mother’s Garden』 
2007年/6分42秒
 仏・ディオール社のジュエリー・デザイナーの宝石コレクションを撮影。アピチャッポンの母が蘭を育てた庭をイメ ージ。

『ヴァンパイア』(Vampire)
2008年/19分 
ルイ・ヴィトンに“旅”をテーマにした映像作品を依頼され、自らタイとミャンマーの国境付近へ。そこにはヴァンパイア鳥の伝承があり......。 

『ナブアの亡霊』(Phantoms of Nabua)
2009年/10分43秒
 映像インスタレーション「プリミティブ」プロジェクト(09)と同時制作。タイ・ナブア村で少年らが燃やすものは?
“Phantoms of Nabua” 2009 ⓒ Apichatpong Weerasethakul. Courtesy of SCAI THE BATHHOUSE.

©Apichatpong Weerasethakul. Courtesy of SCAI THE BATHHOUSE

『木を丸ごと飲み込んだ男』(A Man Who Ate an Entire Tree)
2010年/9分 
タイの野生林で伐採を始めた男は、やがて、自然のドラッグ作用で自分をコントロールできない状態に......。

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月12日金曜日

【アピチャッポン特集】映画『世紀の光』評 text佐藤 奈緒子

「名もなき魂の幸せな記憶」


アピチャッポン監督はこれまでも前後半が明確に分かれた映画を撮っているが、この作品で特徴的なのは、舞台が切り替わっても同じことが繰り返される点だ。「同じ」と言っても単純な複製やループとは違い、変わったことと変わらないことが微妙に入り混じった「似て非なる」ことが繰り返される。舞台は時代を遡った田舎から現代の都会へと切り替わり、恋愛の主人公は過去の恋を回想するターイから、現在の恋を楽しむノーンへと切り替わる。年老いた僧侶の場面は構図が逆転し、ジェンおばさんの不自由な足は左右が変わる。このように反転して思える部分があるかと思えば、全く同じに思える部分もあり、またそのどちらとも言えない部分もあるのだ。

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

この二部構成は何を意味するのだろう。歌う歯科医が若い僧侶に向かって、死んだ弟の生まれ変わりではないかと言う場面がある。時代を置いて瓜二つの人間が生まれると誰でもそう思いたくなるだろう。だが僧侶は自分の前世は人間ではないとあっさり否定する。同じ容姿に生まれ変わるというのは輪廻転生の趣旨には反するのか。瓜二つのところもあれば、まるで似てないところもあり、時代に応じて変わっていく……。それは「生まれ変わり」というよりももっと確かな連鎖である「遺伝」に近いような気がする。前後半の人物に遺伝的なつながりを感じるだけでなく、映画の前後半そのものの関係にも言える。だからといって同じことを親と子が繰り返すはずもないのだが……。いや、果たしてそうだろうか。太古からの記憶を連綿と受け継いできたのが、長い長い人類の歴史だ。でももし、両親のささやかな、なんでもない記憶さえもDNAに刻まれているとしたら。太陽が降り注ぎ、緑が輝き、見つめ合って笑い転げる。名もない人生における幸せな瞬間が無意識下の記憶となって受け継がれていくこと、それが遺伝というものならば、こんな美しい奇跡はないじゃないか。たびたび映る並んだ窓や長い廊下が「繋がっていくもの」を連想させ、病院という舞台が「遺伝」という妄想を補強する。

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

とはいえ、義肢の転がる部屋でチャクラを開くおばさんや、公園の集団エアロビなど、なんなのかさっぱり分からない場面もたくさんある。「記憶」の映画だと監督は明言しているけれど、そろそろ正直に言おう。実はところどころ記憶がない。いや、記憶がないかどうかも定かではない。同じ映画を見た人も似たようなモヤモヤをかかえていたらしいことが救いだ。だが面白いことに、互いに記憶の抜けを埋め合って補完しようとしても、設定や場面を少しずつ違った風に記憶しているために正解が見えてこない。これぞまさに藪の中。この「似て非なる」記憶が重なり合うミステリアスな体験こそが、アピチャッポン作品の醍醐味なのかもしれない。

バナナの葉っぱいいね!度:★★★★★
(text:佐藤奈緒子)



『世紀の光』
原題:แสงศตวรรษ(世紀の光)/英語題:SYNDROMES AND A CENTURY
2006年/タイ、フランス、オーストリア/105分/Dolby SRD|/DCP
字幕:寺尾次郎 字幕協力:吉岡憲彦 

作品解説
『世紀の光』は、1月9日より東京のシアター・イメージフォーラムほか全国にて順次公開。また同館にて特集上映「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」が同時開催されるほか、監督最新作「光りの墓」が3月より劇場公開される。

出演
ターイ先生:ナンタラット・サワッディクン
ノーン先生:ジャールチャイ・イアムアラーム
ヌム:ソーポン・プーカノック
ジェンおばさん:ジェンチラー・ポンパス
サクダー(僧侶):サックダー・ケァウブアディー

スタッフ
製作・監督・脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン
撮影:サヨムプー・ムックディプローム
美術:エーカラット・ホームロー
録音:アクリットチャルーム・カンヤーナミット
編集・ポスト・プロダクション監修:リー・チャータメーティクン
音響デザイン:清水宏一、アクリットチャルーム・カンヤーナミット
挿入曲:「スマイル」カーンティ・アナンタカーン作曲
    「Fez (Men Working)」 NEIL&IRAIZA 
配給:ムヴィオラ

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

公式ホームページ

劇場情報
2016年1月9日:渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

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※同時開催 <アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016>
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月10日水曜日

山形国際ドキュメンタリー映画祭 《映画批評ワークショップ体験記》 vol.2 text佐藤 聖子

【その2】 映画批評ワークショップ&山形まなび館


〈2015年10月9日〜10月12日 ワークショップ〉 映画、そして書く!
9日朝、山形まなび館にて、講師・参加者の顔合わせとオリエンテーションが行われました。

ワークショップ初の試みとして、国際交流基金アジアセンターと共催し、東南アジアからの参加者を募っており、タイ、フィリピンから3名の若手ライターが参加していました。
国際交流基金の方もいらして「ワークショップを通じてアジアの文化的交流を深める」ことについてのお話を伺いました。

講師のクリス・フジワラ先生は、映画祭の公式カタログでも論述しておられますが、西洋とアジアの映画批評の間に広がる断絶、英語以外の言語で執筆活動をしている者たちの言語的孤立について問題提起をされています(山形国際ドキュメンタリー映画祭2015公式カタログ114ページ参照)。

ワークショップを始めるに当たり、「世界に通用する映画批評をアジアから発信してゆく」という壮大なヴィジョンが語られる中、私は場違いなところへ来てしまったかも……と小さくなっておりました。そこへいきなり、
「佐藤さん、ワークショップの最終目標は?」
金子先生、ここで振ってきなさるなんて!
咄嗟に口から出たのは「みなさんが、どんなことを考えているのか知りたいです」
自分でもガーンとなってしまうような……まるで子どもみたいな返答です。

その時の自分は小さくなりながらも、色々な職種や関係者(山形市民の方も含めて)が、さまざまな形でこの映画祭に関わっていることに感じ入っていたのです。
「きっと、一人一人がそれぞれの文化を持っているんだろうな」という考えが勝手に膨らんで「グローバルな文化交流も、電車内で人とぶつかって会釈し合うのも、すべてが異なる文化に生きる人と人との交流みたい」と嬉しくなり、「人の数だけ文化がある不思議」に想いを馳せていたのです。
それがなぜか前述の発言となって出てしまったのでした(言い訳ですが事実です)。

海外からの参加者3人はクリス・フジワラ先生、大学生の女性2人は北小路先生がそれぞれ担当され、大学4年生の男性(仮称Aさん)と地元山形から参加されている女性(仮称Bさん)、私の3人は、金子先生に担当していただくことになっていました。3グループに分かれて別々の小部屋へ。

ワークショップは、「映画を見て文章を書く」それに尽きます。
1日1本以上の映画を見て、1000字前後の文章を書くのですが、どの映画を見るかは自由です。
結果、1日2時間のワークショップと、参加を指示されたプログラム以外は個人行動になります。それぞれが自分の選んだ映画を鑑賞し、文章を書き、提出します

「見たい映画と文章にできる映画は違うんだな。初心者には映画の選び方も大事な要素なんだ」と気づいたのは、ワークショップも終了してホッとした後のことでした。

さて「金子クラス」のメンバーです。
学生のAさんは、色々な文章を書いていらっしゃるようでした。
Bさんは、ほとんど書いたことがないとのこと。
私もほとんど書いたことがありません(昔、童話を少しばかり)。

ちなみに選考通過した理由について、バラしていいのか不明ですけれども。
Aさん「文章力があり内容もレベルが高い」
Bさん「ぜひ参加して欲しかったんですよね」
私  「佐藤さんは経歴。福祉やアラブね」
  ……得心がいくとはこういうことでしょうか。

そして、一人一人に対し、金子先生から指示がありました。
「Aくんは別枠」と、彼にだけ条件が課せられます。
誰かの言葉等の引用はなし。他作品との比較もなし。自分の言葉だけで書く。というような条件だったと思います(そもそも先生とAさんの会話の速度についてゆけません)。 

Bさんには、文章を書く上での基本的レクチャー。
「起承転結、それぞれ200字ずつ書けば800字になる。
 始まりは大事。印象的なフレーズで、続きを読みたいと思わせる。
 最後はなんか良いこと書いて、じーんと余韻が残るような終わりにすれば、  
 それでもう一本になるから」
ざっくりとしたご説明ではありますが非常に分かりやすく、文章を書く上での基礎の基礎を初めて教わった気がしました。

で、私は?
「とりあえず書いてみて」
  ……クールな金子先生なのでした。
「cool」はいやだな。「sharp」ならいいけど。by金子先生)

書き上げた原稿は夜中の12時までに、メールで金子先生に送付します(ホテルの部屋からはネットに繋げられないので、ロビーまで降りなければならず……)。
そして、翌日午前のワークショップで、先生から講評という名のダメ出しがあり、即行リライトです。それを最終稿として、その場で提出しなければなりません。
映画を見て、その日のうちに原稿を書くだけでも「ひょえー」となっていましたが、1時間程度でリライトするなんて!

「そもそも映画の感想文とレビューと批評の違いって何?」レベルの私には、自分の書いている文章がどういう種類のものかも、全く分かりませんでした。

午前のワークショップで原稿を提出した安堵に浸る暇もなく、午後から映画鑑賞&さらに書く!

このスピード感、若者ならいざ知らず、私にはめちゃくちゃハードです。
それが4日間続くのです。
「まるで虎の穴だよ〜」と思わずにはいられない濃厚な体験でした。

 ☆山形まなび館☆
 ワークショップ会場である「山形まなび館」は、もとは小学校だったところを地域に開放して色々な催しを行っています。
 海外からの参加者たちも、この会場のあちこちに興味を持ったようでした。


画像提供:山形まなび館

小学校時代の机や椅子が、そのまま置いてあり、懐かしくなって座ってみました。
小学生ってこんなに小さいんだ、と思いながら机の落書きを読んだり、教室の雰囲気を味わいました。
騒いで先生に叱られる子や、真面目にお掃除する子が、ここにもいたんだと思い浮かべていたら、こぼした牛乳を拭いた雑巾の臭いまで思いだされました。

画像提供:山形まなび館

現地から山形出身のお友だちにハガキを出しました。
東京に戻ったあと、お返事メールが来ました。
「今山形にいるの?
 三津屋っていうお蕎麦屋さんがおいしいですよ。
 山形まなび館は、私が出た小学校よ。
 観光施設になってるから、お暇があったらどうぞ。
 駅の近くすずらん街のホテルサンルートの前の路地あたりで私は産まれたの。石碑がたってる。(それはウソ)」

彼女の出身校と知らずに、そこでウンウン唸りながら数日間文章を書いていたことが、人生のちょっとした「おもしろご縁」に感じられました。
冬になると日直が地下からストーブに使う石炭を運んでいたとか、トイレの花子さん的怪談話があったとか、後から話を聞かせてもらいました。
2年後は、小学生だった頃の彼女の面影を探して、山形の街を歩いてみようと思います。

映画批評ワークショップ参加者がリライトを重ねて書いた最終原稿は、冊子になるとのことです。
私は『桜の樹の下』について書きました。冊子になった際にはご報告致します。お読みいただければ嬉しく存じます。

苦闘度またはスピー度:★★★★★
(text: 佐藤聖子)

関連レビュー:
*山形国際ドキュメンタリー映画祭 《映画批評ワークショップ体験記》 vol.1
text佐藤 聖子
http://kotocine.blogspot.jp/2015/11/vol1-text.html

*山形国際ドキュメンタリー映画祭2015訪問記」
text 高橋 雄太
http://kotocine.blogspot.jp/2015/10/2015text.html


ヤマガタ映画批評ワークショップ

●10月9日-12日 [場所]山形まなび館

今回で3度目の開催となる、ヤマガタ映画批評ワークショップ。山形国際ドキュメンタリーにて、映画祭というライブな環境に身を置きながら、映画についての思慮に富む文章を執筆し、ディスカッションを行うことを奨励するプロジェクト。
応募して選考を通った若干名の参加者は、プロの映画批評家のアドバイスを受け、参加者が執筆した記事は、映画祭期間中に順次発表される。
※開催中にヤマガタ映画批評ワークショップの批評文がUPされた〈YIDFF live!〉

参加者はこのプロセスを通じて、ドキュメンタリー映画をより深く、より広い視点から理解することを可能にする映画批評の役割について考察、実践することになる。

今回は初の試みとして、国際交流基金アジアセンターと共催し、東南アジアからのワークショップ参加者を募る機会を設け、関連したシンポジウムも開催する。

ワークショップの使用言語は英語・日本語で、講師となる批評家はクリス・フジワラ、北小路隆志、金子遊の各氏。


山形国際ドキュメンタリー映画祭2015
●10月8日(木)〜15日(木)
公式ホームページ:http://www.yidff.jp/home.html

山形まなび館
公式ホームページ:http://yamagatamanabikan.jp/

2016年2月9日火曜日

【アピチャッポン特集】映画『世紀の光』評 text高橋 雄太

「光と影」 


光があれば影ができる。影が光に付き従うのではなく、光の入射と同時に影ができる。両者は対等なものとしてある。『世紀の光』が示す複数の世界も、光と影のように対等に存在する。

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

本作の前半の舞台は、タイ東北部の古い病院である。屋内は、壁や床の白で覆われ、窓枠や廊下の直線で囲まれている。屋外には緑の田園風景が広がり、風が草木を揺らす。太陽の光が降り注ぎ、光と影の強烈なコントラストが生じる。ランを育てる男性ヌムに恋をした過去を語る女医ターイ、弟の死について語る歯医者など、人々は過去の記憶を抱えている。ヌムによれば、ランは日陰を好み暗闇で発光するという。日光が射し込むことで日陰ができ、人々はランのように日光を避けて日陰に集まる。ここは、光と影が混在し、人工物と自然物、過去と現在が折り重なる世界である。

これに対し、後半の舞台は近代的な病院であり、登場人物は前半と共通している。工場の生産ラインのように、治療台が整然と並ぶ。病院は前半以上に真っ白い壁や床に覆われており、照明の光がその白い表面に反射する。影がほとんど存在しないほどに光が溢れている。後半において、ノーンの恋人は、彼女の未来の職場になるであろう社屋の建設現場の写真をノーンに見せる。その写真には、大地を埋め尽くす巨大な建造物が並んでいる。人々は過去ではなく未来を語り、日陰に集まることもなく人工の光にさらされる。光と人工物に満たされ、過去の記憶の痕跡がない世界である。

女医ターイによるノーンの面接、僧侶の診察など、前後半で共通する部分もあるのだが、セリフや人物の配置にもやはり違いがある。例えば診察のシーンは、前半では僧侶の後頭部からのショット、後半では僧侶の正面からのショットとして描かれる。二つの世界は鏡合わせのように対照をなしているのだ。
先に述べたように、前半には光と影があり、それと呼応するように現在と過去がある。その一方で、後半の病院は光に満たされている。だが、全てが光のもとにあるわけではない。ノーンは薄暗い地下室へと降りていく。ほとんどのシーンで絵画的な美しい構図の画面を撮ってきたカメラが、ドキュメンタリータッチでノーンを追いかける。この場面は、『トロピカル・マラディ』後半の森へ入り込むシーンを思わせる。地下室はアピチャッポン作品に頻出する森=人知を超えた世界であろうか。

地下室では、義足の製造と装着、さらにチャクラを使った怪しげな治療が行われている。旋盤とドリルで製造される義足は、人間が作る人工物である。一方、チャクラは人間に自然に備わっているものらしい。しかし医師たちはチャクラの位置すら把握していない。光に満ちた近代的な病院にも、人間の目では捉えることのできないもの、光の届かないものが存在しているようだ。

前半の日光、後半の人工照明に加え、もう一つ強烈な光が存在している。映画館の映写機からスクリーンに投影される光だ。我々は、光の生み出す映像を目にすることはできるが、スクリーンの裏側にできる影は見ることができない。しかし本作には、裏側の世界を示唆する場面がある。

病院の地下室において、ダクトが煙を吸い込んでいる。クローズアップされたダクトの口は、我々まで飲み込んでしまいそうなほどに黒い。スクリーンに開いた黒い穴、文字通りのブラックホール。ブラックホールに生じる事象の地平面が認識の限界であるように、我々はダクトの向こう側を、スクリーンの裏側を見ることはできない。だが、穴が開いているということは、その奥が存在することに他ならない。見ることはできなくとも、裏側の世界は存在しているようだ。

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

映像を受け止めるスクリーンの裏側を意識させることは、映像が全てではないこと、目に見えるものだけが全てではないことを意味しているのではないか。『トロピカル・マラディ』(2004)などに登場する森、本作における過去の記憶と地下室、スクリーンの裏側……我々の理解が及ばない世界。医師ターイと僧侶とが互いに診察し合っていたように、複数の世界に優劣・主従といった関係はないのかもしれない。光があれば影ができることと同じく、一つの世界があれば、ブラックホールでつながった別の世界も存在する。アピチャッポンの映画を観れば、その存在を感じることができる。

光に目がくらむ度:★★★★☆
(text:高橋雄太)

関連記事:アピチャッポン特集





『世紀の光』
原題:แสงศตวรรษ(世紀の光)/英語題:SYNDROMES AND A CENTURY
2006年/タイ、フランス、オーストリア/105分/Dolby SRD|/DCP
字幕:寺尾次郎 字幕協力:吉岡憲彦 

作品解説
『世紀の光』は、1月9日より東京のシアター・イメージフォーラムほか全国にて順次公開。また同館にて特集上映「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」が同時開催されるほか、監督最新作「光りの墓」が3月より劇場公開される。

出演
ターイ先生:ナンタラット・サワッディクン
ノーン先生:ジャールチャイ・イアムアラーム
ヌム:ソーポン・プーカノック
ジェンおばさん:ジェンチラー・ポンパス
サクダー(僧侶):サックダー・ケァウブアディー

スタッフ
製作・監督・脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン
撮影:サヨムプー・ムックディプローム
美術:エーカラット・ホームロー
録音:アクリットチャルーム・カンヤーナミット
編集・ポスト・プロダクション監修:リー・チャータメーティクン
音響デザイン:清水宏一、アクリットチャルーム・カンヤーナミット
挿入曲:「スマイル」カーンティ・アナンタカーン作曲
    「Fez (Men Working)」 NEIL&IRAIZA 
配給:ムヴィオラ

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

公式ホームページ

劇場情報
2016年1月9日:渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

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※同時開催 <アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016>
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月5日金曜日

【アピチャッポン特集】映画『真昼の不思議な物体』評 text奥平 詩野

「真昼の不思議な物体」


あまりにもきつい明暗のコントラストに眩しくなった目は、光景を光と闇、白いものと黒いものに二分し、その二つのもののうごめきが互いに寄り添いつつ反発しながらそれ自体がひとつの生命体の動きであるかのように息づき、そしてその動きが更に言葉の物語と寄り添いつつ反発するかたちで、またあるひとつの言葉無き物語を語っている。それは丁度、本作が物語の作られてゆくのを撮ると同時に作られる物語を撮るがために、まるで今私が撮っているかのように感じられるまでに観る事それ自体の行為の自由や生命力が強調され続ける本編の内容全体が与えるショックと通じている。観る者は物の自由の中で、物は観る者の自由の中であてもない散歩をしている。

空想が立ち現れるのはどこかと言うと、今でしかない。空想シーンと語りのシーンの場所や時代が違うからと言ってそれらが分かたれた次元のものであるのでは決して無い。魚売りの車のスピーカーや村の自然音は空想シーンでも途切れず、その事は今話している状況から空想が逃れ出ているのを表現していると言うよりはむしろ、逆にその生活音のリアリティが空想シーンの二色しかない画面の後ろで鳴り続けている事で、その平坦さに奥行きを与え、ある種の開かれた場を示唆し、空想も依然その場所における出来事なのだと感じさせている。劇団員は物語を話す代わりに、そしてそれを後に他者が演じる代わりに、自分達で演じて見せてしまうし、空想を再現する劇の中で役を得ていた人々さえも結局演技をしていないところを撮られている。

そういった場で私達が観ているのは物語だろうか、それともただの偶然の出来事だろうか、あるいは複雑にそれらが入り組んだ作為と偶然の混合物だろうか。私はどの質問も否定で返す事は出来ないが、しかし私が一番に観せられたものは、現実の時間、現実の場所に無限にある事物の持つ、もしくはそれらに私達が与える、物語性や物語の可能性である。それが誰々のこんな空想だというラベルを張れないからと言って無視できるものも、反対にこれは誰々の空想だといってそれ故に完全に意味を硬直させているものも、何一つこの映画には映っていない。もちろんある人が語る物語にはその人と分かちがたい個人性があるのだが、丁度手話で話す女子学生の空想と話している手の動作を一つの音楽で統合してしまうように、物語の性質(メロドラマ的だとか)と個人(劇団員だとか)を結びつけ、その関連性に新たなドラマ性を感じる観る側の能動的な物語制作意欲も、常に映画の音と映像の上に目を光らせているのを感じるだろう。この場合は劇団員だから「せいぜい楽しむがいいわ、覚えてらっしゃい」といったような演劇的なセリフと展開が生まれたのだなと想像させ、その物語が観客を喜ばせるだろうが、観客はいつも筋の通った言語的な物語ばかりを発見できるわけではない。


©Kick the Machine Films

インタヴューされる人と、その人とを取り巻くインタビューされている状況は、彼らが何かを語るという目的のためにある沈黙した場であるのでは無く、木々や動物や学校の騒めきや羊の群れのようにモコモコした子供の群れの動きそれ自体が、私達に何かを語らせる為に存在しているようなのである。二色のヤギが藪を切り開いて現れたかのようにスクリーンを裂いて現れた時、そのヤギに対する視覚が、ヤギのイメージを急速に捉え、未だいかなる意味も受肉していないヤギそのもののあまりにも透明でそれ故に私達を際限無く期待させる物語の可能性を捉えるのだ。そして空想も依然それと同じ場にあり、だから空想内の出来事や物事も誰かに語られたものであると同時に、多分それ以上に私に何かを語らせようと一瞬一瞬動いているのである。先生を二人の子供が布製の衣装ケースに詰めようとしているシーンは、想像される心境としては、急に死んだ先生を取り敢えず見えない所に隠してしまおうと試みながら、大人の女性の重さに手間取る動転か焦りなのかも知れない。しかし、実際観られる映像はもっと思考的ではない原初的な事の成り行きと、シンプルだからこそ鮮明でエグくさえある印象を与えている。布ごしに黒いぶよぶよしたものの力ない重量感がもたれかけてきたり押し込まれたり時々布の裂け目から飛び出して来たりする気味の悪いイメージそのものが語られているのである。

その言葉無き物語においては、それが私以外の対象から私に向かって語られているのか、それとも私が自分の内で語っているものなのか、もはや定かではない。一瞬一瞬の時間の中に、選びようも無く常に目の前にある物事から何かを紡ぎ出そうとする視線の活動を、普段多くの場合私が映画の言語的物語が指示する視線に同化して任せてしまいがちなその活動を、観客に自分のものとしてありありと意識させる本作は、そうした意識によって逆説的にも明かされる全ての対象物の私からの自由さと、私の全ての対象物からの自由さに気づかせ、だからこそ目前で私の精神活動を占めている映画と私との結びつきを切らない為にほとんど神経質に私が行っている一秒も途切れないような努力を明かしてしまうのである。そしてその努力とは言葉無き物語を発見し続けなくてはならないという、いわばイメージに対する異常な執着なのではないだろうか。

子供は呆気なく「主人公は死にました。」と言ってしまうがやはりそこには悲しげな避難の声があがる。「死んじゃうの?」と不安に駆られて訊く級友のその不安こそが私達に映画を観せているものなのではないだろうか。そしてやはり主人公は死なない事になり物語は続くのである。続くと言うよりも、続く可能性を残すのである。最後の虎の話も同じで、魔法の虎はその滅亡によって物語を閉じる事を思い直し、森へ消え去る事で物語の可能性を残す。その可能性が私達の眼差しを強く鋭くスクリーンへ向けさせているのだ。子供達が車のおもちゃを犬の首を括りつけて遊ぶシーンで本作は終わるのだが、犬が困惑しながら走る運動に添って車が転がり跳ねながら引かれているそのままのイメージが子供に歓喜の声を上げさせる。その歓喜こそが私達に映画を観せているものなのではないだろうか。


(text:奥平詩野)


『真昼の不思議な物体』
英語題:Mysterious Object at Noon

2000年/タイ/モノクロ/35mm/83 分

作品解説
監督はタイの国中を旅し、出会った人たちに物語の続きを創作してもらう。画面には、マイクを向けられるタイの地方の人々と、彼らによって語られた「不思議な物体」の物語が、交錯して描かれる。話し手により物語は次々と変容する。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
脚本:タイの村人たち
撮影:プラソン・クリンボーロム
編集:アピチャッポン・ウィーラセタクン、ミンモンコン・ソーナークン



配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text高橋 雄太

越境

内と外、都市と自然、虚構と現実……多くの境界を越えていく作品である。

映画は突然始まる。ファーストシーンは病院。中年の女性オーンと若い女性ルンに連れられて、ミンという男性が医師の診察を受けている。次の舞台はルンの働く工場。オーンは白いクリームと野菜とを混ぜ合わせ、タッパーに入れている。その後、ルンとミンは自動車で街を離れて森林へピクニックに向かう。上映開始から30分程が過ぎたこのシーンで、音楽にのってようやくオープニングタイトルが現れる。
前半の病院や工場は、白と直線が目立つ無機質な人工的世界である。後半では、曲がりくねった木、葉の緑と果実の赤、木漏れ日、流れる水の支配する森林が舞台になる。このように本作は、2パート形式の映画であり、都市から森へと入っていく映画とも言える。前後半の変わり目となる道路は、木に囲まれており、都市と森をつなぐトンネルのように見える。

「越境」のテーマは、本作の随所に見られる。
冒頭の病院のシーン。ミンは医師の指示に従い深呼吸をし、身体の内側に空気を吸い込み、外へ吐き出す。また、医師は彼の喉と皮膚を診察する。さらにオーンが作る奇妙なクリーム。オーンの夫らしき男性が一口食べているのだから、食べ物かもしれない。だがミンの肌に塗っていることから、ボディクリームと野菜を混ぜたものにも思える。そしてミン自身、ミャンマーからの不法入国者らしい。国境を越えてきた男ミン。その身体の内外を、空気、診察、クリームがめぐる。また、ミンはシンガポールで働きたいと述べるなど、さらなる「越境」を考えているようだ。

森の中に入ると、なぜかミンは服を脱いで下着一枚になり、露出した身体から皮がポロポロと剥がれ落ちる。身体が服という境界を越え、さらに新しい皮膚が内から外へ越境していく。森への移動中、ルンはクリームでドロドロの手でシフトレバーを握る。終盤の森の中、彼女はミンの男性器に触れる。シフトレバーと男性器、白いクリームと精液との対応。そしてミンの「脱皮」。まるでミンが森と川の中で洗い流され、生まれ変わるようにも思える。だが、彼は何に生まれ変わるのか。その答えは示されない。 


©Kick the Machine Films

越境、その先に何が待つかわからない。だが、越境という行為それ自体が重要なのではないか。その証拠に、観客である私たちにも越境が促されているように思える。木漏れ日の射す森の中、水の流れる音を聞きながら、ルンはミンの横で寝入る。タイトルの「ブリスフリー」が示す通り、自然に囲まれた至福のとき。長回しの映像にはセリフもほとんどなく、何らのドラマもアクションも起きない。観ているこちらも眠気を誘われる。観客も巻き込んで、意識から無意識への越境を意図しているようである。
さらに最終盤、登場人物三人の現実が伝えられる。ここに至って、映画と現実との境界も
越えられ、今まで観たものがフィクションなのかドキュメンタリーなのかわからなくなる。

この宙ぶらりんの状態に来たところで詮索はやめようと思う。本作とともに虚構と現実、都市と自然など、様々な境界を越えてきたのだ。言葉で定義することで、意味の境界を定めてしまう必要などない。意味づけしてしまうのではなく、謎を謎として残し、それについて考えるべきだろう。前半のミンも言葉を発さなかったではないか。沈黙の越境者ミンのように、境界を定めるよりも「越境」を続けるべきだろう。

ピクニックに行きたい度:★★★★☆
(text:高橋雄太)

『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説

ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

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「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

【アピチャッポン特集】映画『真昼の不思議な物体』評 text長谷部 友子

「物語が生まれる場所」


ある女性がつらい過去を語りはじめるところから映画ははじまる。ドキュメンタリーなのだろうか。カメラを回す側にいる青年は、もっと話を聞かせてほしいという。「本当のことでなくてもいいから」と。
このはじまりからして見事だと思う。君につらいことを思い出させ、無理に口を開かせようとは思わない。けれど君が語ることを待ち望んでいる。物語られることの本質がそこにはある。

女性は架空の物語を語りはじめる。主人公は車椅子の少年。少年の家庭教師である女性は、ある日急に倒れてしまい、少年が助け起こそうとすると女性のスカートから「不思議な物体」が転がり落ちる。女性がそこまで話し終えると、カメラは何故か車に乗って移動していき、象使いの少年たちが映し出される。女性が語った物語を伝えた後、続きを考えてほしいとカメラ越しに告げる。かくして、老若男女様々な人が物語を引き継ぎ、即興の物語が続けられるが、不思議な物体は男の子になり、家庭教師の女性になり、様々なものに姿を変えていく。話は二転三転、こう言ってはなんだが、本当に支離滅裂でわけのわからないへんてこな話が続いていく。語られたことは止まるところを知らず、ころころと転がっていく。

©Kick the Machine Films

人々が物語を語る部分はドキュメンタリー、物語を映像化している部分はフィクションと二重の構造をとっていたはずが、途中から物語を語った人がそれを演じてみせたり、どんどんとその境目はわからなくなっていく。

物語とは何なのだろう。
語り手を変え、架空の話を引き継がせ、物語る主体に一貫性をもたせないこの試みは、その後のアピチャッポン作品に色濃く反映される。アピチャッポンの作品には主人公というものを見出すことが難しく、この人が主人公なのだろうと思って見ていたのに、たまたま出てきた他の人について行ってしまうことがよくある。

アピチャッポンは常に物語に揺さぶりをかける。確固たる物語を解体する。ゆらぎのような場所に一瞬表出する突起を丁寧に拾っていく。
物語の価値は語られることの内容にあり、そこに一本しっかりとした背骨が通っているという幻想から、私たちはやはりどこかで逃れられない。しかし語りだそうとするそのときに、物語はすでに宿っている。

(text:長谷部友子)






『真昼の不思議な物体』
英語題:Mysterious Object at Noon
2000年/タイ/モノクロ/35mm/83 分

作品解説
監督はタイの国中を旅し、出会った人たちに物語の続きを創作してもらう。画面には、マイクを向けられるタイの地方の人々と、彼らによって語られた「不思議な物体」の物語が、交錯して描かれる。話し手により物語は次々と変容する。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
脚本:タイの村人たち
撮影:プラソン・クリンボーロム
編集:アピチャッポン・ウィーラセタクン、ミンモンコン・ソーナークン



配給:ムヴィオラ

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「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

【アピチャッポン特集】映画『ブンミおじさんの森』評 text高橋 雄太

「お迎え」のために


「お迎えが来る」、死ぬことをそう表現することがある。すでに亡くなった人が、死にゆく者を迎えに来て、あの世に連れていく。だが、「お迎え」とはこの世からあの世へという一方通行ではない。

農場を経営するブンミは、腎臓の病に冒され、死が近いことを感じている。彼のもとに義妹ジェン、その息子トンが集まっている。夕食の席に、亡くなったブンミの妻フエイ、さらに失踪したブンミの息子ブンソンまでが毛に覆われた姿で現れる。親類、そして不思議な存在たちに伴なわれ、ブンミは森の中の洞窟に入っていく。ブンミは洞窟のことを「母胎」と呼び、「自分はここで生まれた」と述べ、その洞窟で最後を迎える。まるでフエイやブンソンが「お迎え」として異世界から人間世界に現れ、ブンミを連れていくかのようだ。

ブンミの家は森林にほど近いところにあり、食卓は屋外にある。開け放たれた窓、簡単に押し上げることのできる蚊帳など、彼らのいる空間は閉じられたものではなく、外の空間と通じている。木々のざわめき、鳥や虫の声にも包まれている。このことからも、ブンミのいる場所は、異世界と近いことがわかる。
フエイは、ブンミら三人が席についている食卓の空席を埋めるように、ゆっくりと実体化する。人間以外の存在に変貌したブンソンも、ジェンに促され空席に座る。家族団欒の食卓は、異世界の住人たちにも開かれており、彼らを迎え入れる。


©Kick the Machine Films


前述の「母胎」とされた洞窟も、閉ざされた空間ではない。天井の裂け目から陽光が降り注ぐ、開かれた場所である。ブンミが死の世界に旅立つことが可能であると同時に、母胎として新たな生命を受け入れることもできるであろう。洞窟は墓場であり母胎、生死が交差する場だ。
森、洞窟、そしてブンミの家では生者と死者が出会う。フエイの言葉によれば「死者は生者に執着する」。その生者ブンミは、フエイらと食卓を囲み、彼女と抱擁する。異世界から「お迎え」が来る。人間たちは訪問者を「お迎え」する。そして抱き合う。生者と死者の想いは双方向に行き交い、生死の境を越える。

一方、葬式が行われる部屋は、白い壁に閉ざされており、虫の鳴き声ではなくお経が響き渡る。自然から離れることで、人間世界と異世界とのつながりが断絶されるようにも思える。だが、つながりは絶たれていない。
葬式の後、トンはホテルの一室でシャワーを浴びる。彼は画面の右側に偏って位置しており、左側には大きな空間があいている。シャワーを終えたトンは、ベッド上の空いたスペースを占める別の自分たちを見る。異世界との交差点は、森やその近くに限られない。空席があれば、異世界の者たちを迎え入れることができるのだ。

ブンソンが追いかけたという猿の精霊とは何か、ベッドに座っていたトンらは何者か、挿入される王女の物語や未来の夢の意味するところは……本作には多くの謎が残る。だがこれ以上の言葉で本作を埋め尽くすのはやめよう。ブンミらは、驚きながらもフエイたちを優しく迎えていた。だから私の言葉にも余白を、いや「空席」を残しておこう。彼らを「お迎え」するために。

お迎えしたい度:★★★★★
(text:高橋 雄太)

ブンミおじさんの森
英語題:
 UNCLE BOONMEE WHO CAN RECALL HIS PAST LIVES
2010年/イギリス、タイ、ドイツ、フランス、スペイン/カラー/35mm/114 分

作品解説
腎臓の病に冒され、死を間近にしたブンミは、妻の妹ジェンをタイ東北部の自分の農園に呼び寄せる。そこに19年前に亡くなった妻が現れ、数年前に行方不明になった息子も姿を変えて現れる。やがて、ブンミは愛するものたちと ともに森に入っていく......。美しく斬新なイマジネーションで世界に驚きを与えた、カンヌ国際映画祭パルムドール(最 高賞)受賞作。

キャスト
タナパット・サーイセイマー
ジェンチラー・ポンパス
サックダー・ケァウブアディー
ナッタカーン・アパイウォン

スタッフ
製作/脚本/監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン 
製作:サイモン・フィールド/キース・グリフィス/シャルル・ド・モー/アピチャッポン・ウィーラセタクン
撮影:サヨムプー・ムックディープロム
編集:リー・チャータメーティクン
音響:清水宏一

第63回カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)受賞
「ブンミおじさんの森」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督
UNCLE BOONMEE WHO CAN RECALL HIS PAST LIVES
A FILM BY APICHATPONG WEERASETHAKUL

提供:シネマライズ

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月4日木曜日

『蜜のあわれ』試写イベントレポート text 井河澤 智子

大正・昭和初期の文豪・室生犀星が最晩年に発表した『蜜のあわれ』。

 老作家と、美しい「金魚」の会話が織りなす艶やかな物語である。

『生きてるものはいないのか』(2011)『狂い咲きサンダーロード』(1980)などで知られる石井岳龍監督によって映画化され、1月27日、都内で試写イベントが行われた。

 登壇者は、石井岳龍監督、「金魚」を演じた二階堂ふみさん、老作家を演じた大杉漣さん。

    二階堂さんは高校の頃に原作を読み、是非やりたい、と思ったそうで、

「いろんな方にこれがやりたい、という話をしていたので、言い続けていたらちゃんと出会う、ということを実感しました。」

「やりとりが会話文なんですけど、それがとても可愛くて。あの時代の文学作品の深みに惹かれて。その深みって、頭でどうこう言語化するのではなくて、体で感じ取る、直接的にワクワクさせるものだな、と思いました」と語る。

 人間ではない「金魚」の役だということについては、その難しさと楽しさについて

「赤ちゃんみたいな、言葉とか、文字とかを認識していない……大人になるとどうしても、言葉の意味であったり、文字の意味であったり、イメージであったり、そういったものが染み付いてしまっていますが、動物は多分言葉の意味はあまりよくわからなくて、感じるものを頼りに発しているんじゃないかと思って。セリフを発するだけでとても新鮮な毎日でした」と表現した。

 老作家を演じた大杉さんは、石井監督作には初出演で、

「自分も40年俳優をやり続けて、監督と、二階堂さんと、こうして映画の現場を一緒にできるということは、簡単に言うと「冥利に尽きる」ということだと思うんです。役者も、監督も『蜜のあわれ』という現場で真剣勝負をしたと思います。厳しくも濃密な時間を過ごしたな、という印象です。」と穏やかに語る。

 また、室生犀星とよく似ているという件について

「写真を見たんですよ、真似をしたわけではないんですが、メガネがとても好みだったんです。僕メガネ大好きなので。それで、室生さんとよく似たメガネを東京で一週間くらいかけて探したんです」と、その裏話を明かした。

    とても言葉が美しい作品であるとのこと。キーとなるセリフは

    “人を好きになるということは、愉しいものでございます。”

このセリフについて大杉さんは

「当たり前なんですが、当たり前のことをスッと言える彼の潔さ。蜜のあわれというタイトルも、蜜という甘い部分の中に、あわれさ、老いていくはかなさ、人としての滑稽さ、いろいろな部分が含まれている、ということを感じました。老いていくということは、そんなに悪くないな、とちょっと思っています。」

二階堂さんは、役作りの段階から言葉の出し方にこだわっていたそうで

「全体を通して、とても気持ちいいセリフで。言葉を発すること自体が愉しいことでした。」

 石井岳龍監督は、作品についてこう語る。

「老作家と、若い女の子の姿をした金魚が、とりとめないお話を繰り広げて、そこに幽霊が絡んでくる、とっても不思議な話です。室生犀星は日本の代表的な詩人ですが、これは最晩年に書いたフィクションで、こんな不思議なものを書いた室生犀星ってどんな人なのか、興味が湧いて。」

 「自分が一番特等席でその世界を見たわけでしたが、酔わされました。この感じをどのようにみなさんに届けるか、というのが私の使命でした。二階堂さん、大杉さんも素敵ですが、他の俳優さんも、スタッフの仕事もとても素晴らしいので、どうぞ存分に堪能してください」

 真木よう子、永瀬正敏、高良健吾らが脇を固め、また、「フィルム撮影にこだわった」という本作。細部まで行き届いた美しさで、原作小説の耽美なエロティシズムを再現している。特に「赤」という色が持つ様々な表情が、非常に印象的な作品である。

   映画『蜜のあわれ』は、4月1日(金)より新宿バルト9ほかにて全国ロードショー。



舞台上手より、大杉漣さん、二階堂ふみさん、石井岳龍監督。

二階堂さんは金魚を思わせる真っ赤なドレスで登壇。

劇中の衣装もとっても可愛い!どうぞお楽しみに!

(text&photo:井河澤智子)

『蜜のあわれ』

2015年/日本/105分

作品解説

昭和の文豪・室生犀星が理想の女性をつづったとされる金魚の姿を持つ少女と老作家の物語を、『シャニダールの花』などの石井岳龍監督が映画化した文芸ファンタジー。丸いお尻とチャーミングな顔の赤子(二階堂ふみ)は、自分のことを「あたい」と言い、「おじさま」と呼ぶ老作家(大杉漣)と一緒に暮らしていた。赤子には、何と真っ赤な金魚にもなる秘密があった。二人がひっそりと生活していたある日、老作家の過去の女が現れ……。

出演

老作家:大杉蓮
赤井赤子:二階堂ふみ
田村ゆり子:真木よう子
丸井丸子:韓英恵
金魚売り:永瀬正敏
バーテンダー:渋川清彦

スタッフ

監督:石井岳龍
原作:室生犀星
脚本:港岳彦
エグゼクティブプロデューサー:香山哲、小西啓介
                   

公式ホームページ

劇場情報

2016年4月1日TOHOシネマズ新宿ほか全国ロードショー

2016年2月2日火曜日

【アピチャッポン特集】映画『トロピカル・マラディ』評 text高橋 雄太

「内なる野生」


オープニングに引用される中島敦の『山月記』と同じく、『トロピカル・マラディ』は人間が虎になる変身物語である。人はなぜ虎になるのか、虎はどこに潜んでいるのか。

森林警備員ケン、森の近くに住む青年トン。二人は恋人である。ケンはトンの家に出入りし、彼の家族とも仲良くなる。愛し合う二人の笑顔、暖かく見守る家族たち。彼らの姿は幸福と光に満ち溢れている。トンが歌を唄うステージは明るいライトに照らされている。トンらが買い物に訪れるショッピングセンターは、イタリア製の革靴やパソコンなどが陳列され、人工的な光に包まれた空間である。明るく、幸福で、穏やかな日々。
だが、その明るさにも、黒いものが垣間見える。「黒いもの」とは不幸の比喩ではなく、文字通り色としての「黒」、言い換えれば「闇」である。
トンとケンは、太陽の光が届く地上から、薄暗い洞窟に入り仏像を拝む。森の近くにあるトンの家、そのすぐ外にはうっそうとした森林と闇が広がっている。トンを乗せたケンのバイクは街から離れ、暗い森に向かう。バイクを降りたトンは、笑顔を浮かべたまま、飲み込まれるように暗闇へと去っていく。


©Kick the Machine Films

このシーンを境に、映画の舞台は森に移る。森の中では、トンだった男が、全身に黒い線のメイクを施された姿で、”虎”として出現する。ケンは”虎”を追跡するため森に入る。カメラもそれに続き、観客を森へと誘う。木々が視野を遮り、鳥や虫の鳴き声が響き渡る。まとわりつくような湿気まで画面から伝わるかと思える、深くも美しい森。
猿を見つめるケン目線のショットでは、猿の鳴き声にタイ語と日本語の字幕が付けられている。すなわち、森に入った人間は動物の言葉を解するようになる。さらに、ケンと虎との切り返しでは、「自分を見つめている」とのセリフで、ケン自身が虎であることが示唆される。
明るい街、街と森との境界に位置するトンの家、そして森の奥深く……闇の方へ移動するにつれ、人間と動物とは一体になるようだ。

前半に描かれているように、タイでは経済発展に伴い都市化が進んでいる。だが闇の奥=森には、文明以前の記憶、野生の記憶が隠れているのではないか。そして人間の中にも野生が隠れているのではないか。
中島敦の『山月記』では、李徴の羞恥心、自尊心といった個人の感情が、虎に変化した原因とされている。虎の根底には、李徴という個人の人格があるのだ。一方、本作では、前半で「ケン」という固有名詞で呼ばれていた人物が、後半では「兵士」という一般名詞で呼ばれることになる。無論のこと、虎と化したトンが「トン」と呼ばれることもない。李徴のような特定の個人に限らず、人間の誰もが自分でも気づかない野生=虎を抱えているのかもしれない。

光の届かない闇の奥に野生はある。また猿のシーンに示されるように、森は人語が通じる場所ではない。したがって「野生」、「文明以前」などと言語化してみたところで、それで何かを言い表せたとは思えない。我々の視覚や言語では捉えることができない世界があるのだ。
ケンのように闇の奥へと、別の世界へと踏み込むこと。本作をはじめとしたアピチャッポンの映画を観ることは、そうした体験だと思える。


虎になりたい度:★★★★☆
(text:高橋雄太)

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『トロピカル・マラディ』
英語題:
Tropical Malady
2004年/タイ、フランス、イタリア、ドイツ/カラー/35mm/118 分

作品解説
愛し合う二人の青年の日常がみずみずしく描かれる前半から、一転、不穏な空気に包まれる後半。冒頭には日本の作 家、中島敦の「山月記」の一節が引用され、アピチャッポン作品を貫く重要な要素の一つである“変容”が最も顕著 に表現されている。観客に森の中に迷い込んだかのような感覚を与える撮影と音響は圧巻。カイエ誌ベスト 1 にも輝 いた傑作。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム