2016年2月2日火曜日

【アピチャッポン特集】映画『トロピカル・マラディ』評 text高橋 雄太

「内なる野生」


オープニングに引用される中島敦の『山月記』と同じく、『トロピカル・マラディ』は人間が虎になる変身物語である。人はなぜ虎になるのか、虎はどこに潜んでいるのか。

森林警備員ケン、森の近くに住む青年トン。二人は恋人である。ケンはトンの家に出入りし、彼の家族とも仲良くなる。愛し合う二人の笑顔、暖かく見守る家族たち。彼らの姿は幸福と光に満ち溢れている。トンが歌を唄うステージは明るいライトに照らされている。トンらが買い物に訪れるショッピングセンターは、イタリア製の革靴やパソコンなどが陳列され、人工的な光に包まれた空間である。明るく、幸福で、穏やかな日々。
だが、その明るさにも、黒いものが垣間見える。「黒いもの」とは不幸の比喩ではなく、文字通り色としての「黒」、言い換えれば「闇」である。
トンとケンは、太陽の光が届く地上から、薄暗い洞窟に入り仏像を拝む。森の近くにあるトンの家、そのすぐ外にはうっそうとした森林と闇が広がっている。トンを乗せたケンのバイクは街から離れ、暗い森に向かう。バイクを降りたトンは、笑顔を浮かべたまま、飲み込まれるように暗闇へと去っていく。


©Kick the Machine Films

このシーンを境に、映画の舞台は森に移る。森の中では、トンだった男が、全身に黒い線のメイクを施された姿で、”虎”として出現する。ケンは”虎”を追跡するため森に入る。カメラもそれに続き、観客を森へと誘う。木々が視野を遮り、鳥や虫の鳴き声が響き渡る。まとわりつくような湿気まで画面から伝わるかと思える、深くも美しい森。
猿を見つめるケン目線のショットでは、猿の鳴き声にタイ語と日本語の字幕が付けられている。すなわち、森に入った人間は動物の言葉を解するようになる。さらに、ケンと虎との切り返しでは、「自分を見つめている」とのセリフで、ケン自身が虎であることが示唆される。
明るい街、街と森との境界に位置するトンの家、そして森の奥深く……闇の方へ移動するにつれ、人間と動物とは一体になるようだ。

前半に描かれているように、タイでは経済発展に伴い都市化が進んでいる。だが闇の奥=森には、文明以前の記憶、野生の記憶が隠れているのではないか。そして人間の中にも野生が隠れているのではないか。
中島敦の『山月記』では、李徴の羞恥心、自尊心といった個人の感情が、虎に変化した原因とされている。虎の根底には、李徴という個人の人格があるのだ。一方、本作では、前半で「ケン」という固有名詞で呼ばれていた人物が、後半では「兵士」という一般名詞で呼ばれることになる。無論のこと、虎と化したトンが「トン」と呼ばれることもない。李徴のような特定の個人に限らず、人間の誰もが自分でも気づかない野生=虎を抱えているのかもしれない。

光の届かない闇の奥に野生はある。また猿のシーンに示されるように、森は人語が通じる場所ではない。したがって「野生」、「文明以前」などと言語化してみたところで、それで何かを言い表せたとは思えない。我々の視覚や言語では捉えることができない世界があるのだ。
ケンのように闇の奥へと、別の世界へと踏み込むこと。本作をはじめとしたアピチャッポンの映画を観ることは、そうした体験だと思える。


虎になりたい度:★★★★☆
(text:高橋雄太)

関連記事:アピチャッポン特集





『トロピカル・マラディ』
英語題:
Tropical Malady
2004年/タイ、フランス、イタリア、ドイツ/カラー/35mm/118 分

作品解説
愛し合う二人の青年の日常がみずみずしく描かれる前半から、一転、不穏な空気に包まれる後半。冒頭には日本の作 家、中島敦の「山月記」の一節が引用され、アピチャッポン作品を貫く重要な要素の一つである“変容”が最も顕著 に表現されている。観客に森の中に迷い込んだかのような感覚を与える撮影と音響は圧巻。カイエ誌ベスト 1 にも輝 いた傑作。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

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