2016年3月2日水曜日

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text岡村 亜紀子

ある午後に車で出かけたミンとルン、そして男とはぐれたオーンが森で出会う。
そんなある一日の物語だ。三人の森でのひと時の様子は、わたしに現在というものが、いかに不安定で、脆く儚いものかを感じさせた。


物語は日々の出来事を語りながら、仕事をエスケープしてミンと出かけるルンや、森で肌をあらわに男と身体を重ねるオーンを映して、日常の範疇にありながら少し特別な様子を描いているようでもある。
物語に出てくる人物たちは色んな表情……笑顔も険しい顔も、涙も見せる。
物語の舞台が市街から離れて自然へ向かうと、その表情は段々素直になるようだ。
そして三人の登場人物——不法滞在者の青年ミン、そのガールフレンドであるルン、彼らの知人のおばさんオーンの、内面が現れてくる。

森へと分け入りミンがルンに見せたかった場所(眺めのいい崖の近く)で二人は敷物を拡げ、食べ物を並べたり、木々の中でじゃれたり、午後のまどろみの中で好意を交わし、時にルンがそれを躱しながら戯れる。

一方オーンはミンを誘っていた男と木陰で獣のように濃厚に交わっていたが、男は盗まれたバイクを追って消え、森に一人残されてしまう。

「友達はルンとオーンだけだ」(ミン)
「オーンなんて居なくなればいい」(ルン)
「何故?」(ミン)
「クソばばあだから」(ルン)

という会話がミンとルンで交わされていたところへ、オーンが現れる。
突然現れたオーンに彼らは怪訝な表情を向けながら、ルンはいままでのオーンに対するどの態度より優しく、険しい顔をしたオーンを川に誘って気持ちを和ませようとする。


この作品で登場人物によって語られる色々な噓と、そのようなもの。
病院でオーンとルンが、ミンの「健康証明書」を発行してもらう為に存在しないIDがあると言ったり、ルンはミンの診察のため仕事に遅れるが、遅刻の理由を「マラリア」と言ったりする。
オーンは夫に医者に子作りを進められたと言ってみたり、皮膚につけるクリームを刻んだ野菜と混ぜ合わせ夫に食べさせてみたりする。
森で夫の会社の部下と思われる男に一糸纏わず組みしかれていたオーンが、行為の後に満ち足りた表情で男に寄り添う姿さえ、男に対するサービスのようだ。
どこかセクシャルな空気を醸し出すミンは、終止穏やかな佇まいのなかに、シベリアンハスキーのような野生の残った大型犬を思わせる。


©Kick the Machine Films


中盤以降、映画は森と三人だけを映し続ける。
オーンとルンとミンが森で邂逅を果たしてから、ミンが見せた強ばった顔、オーンの張りつめた表情や、ルンがオーンに対して見せた優しさは、どれも偽りやかりそめの姿ではなく本当らしく感じられた。
それなのに、スクリーンに対するわたしの体感温度はどんどん失われているように思われた。
わたしの母の田舎には大きな川があり、飽きる事無く川で遊んでいた子供だったので、川に入ったルンとオーンが、身を浸すその水の冷たさも、冷えた身体に感じる陽の暖かさも、わたしは知っている。
意識はむしろそういったことを感じるよりも、三人の不思議なちぐはぐ感へと強く惹き付けられていく。

ミンの描いたミンのイラストや郷里の家族への手紙の文字が映像に重なり、ミンの眼差がここでは無い彼方へ向いていたことを思うと同時に、恋人に暴力を振るわれたというルンがミンやオーンと過ごす時間の中に安らぎを見つけている、そんな現代的な現実への姿勢が浮かぶ。
オーンの繰り返す支離滅裂にも思える言動、川縁で慟哭する姿は、どこへ向かえば良いかわからない迷子のように見える。
彼女は「家に帰りたい」とも言っていた。

別々の次元に意識を置きながら、同じ方向を向いていない、三人の現在が確かに重なっている場所の存在。
その光景はとても普通でありながら特別なものとして映り、それを観るわたしがわたし自身に何事か囁きはじめる。
それは映画がある事柄を浮かべるように示唆されて作られているというよりも、鑑賞した個人の内側にあるものが映画に依って浮かび上がるような現象のように感じた。

ミンがドライブ中に、「昔ここで日本兵がたくさん死んだ」と呟いた。
その一言に「タイには道路にそのような記憶があるのか」と感じて、日本のことを思った。
そして、アピチャッポン監督の『世紀の光』(2006)で、一枚の写真に映っていた工事現場の日本人に面差しが似ていた男は、やっぱり日本人なのかも知れないと思う。


この作品では病院でミンが診察を受けているシーンから始まって、画面に映る人物が次第に減って行く。
最後まで映っていた三人、ミン、ルン、オーンのその後の消息がエンドロールで文字として現れる。

ミンを診察していた女医とその助手、オーンの夫、オーンと森で交わっていた男、ルンの上司などの彼らは、おのおのその人となりを想像させながら、あくまで三人にそれぞれ関わりのある人物として、三人をわたしたちに紹介するような「場」のような存在だろうか。
彼らはミンがオーンを待っていた間、そこに映っていたTVの映像のようにも思える。その「場」とはなんだろうか。
ミンにとって、ルンにとって、オーンにとってそれは全部違う。

三人の現在が重なる「場」が、とても普通でありながら特別なものとして映ったのは、この映画が積み重ねて来た瞬間瞬間の「場」が、ただ表現していることの空間の中に、この映画のようではないけれど、わたしの普通な、あるいは特別な日々を重ねられる「場」、静止した時間と共に動いて行く時間、それを成立させる現在が存在しているからではないだろうか。


何度か映画に現れる車に乗るシーンでは、前の景色が遠ざかって行く、または後方の景色が近づいてくる映像が繰り返される。

「進んでいるのか? 戻っているのか? それともその二つは同じたりえるのか?」(もちろん映像が表すのは車が前に走っているという同じ風景である)

と、そんな疑問が頭をかすめる。

進んでいても、戻っているように見えても、留まろうとしてみても、時間が止まらない限り、その居合わせた「場」において同じ次元で異なる方向へと進み続いて行くことは、きっとルンとミンとオーンと同じように日々のなかにある。

そしてそんな普通で特別な時間に起こる、他者が居るからゆえの脆く儚い交差した一点のように静止しながら連続する「場」として動いている相対した現象に、わたしのなにかしらが感応した。

川縁でミンに寄り添って目を閉じているルンの頬に羽虫が止まっている。
彼女の手はルンに触れるために動き、ミンの身体には陽の光がさしている、穏やかなその光景のただ中にあるルンの微笑みに、正反対の体感の伴わない“死”をイメージさせるなにかが静止したように宿っていた。

そのなにかに、スクリーンを観ているときには背筋がヒヤっとするくらいの衝撃を受けたのに、私が思い出すあの午後にミンの頬にとまった羽虫の映像は暖かい体感さえ伴っている不思議さ。


「blissfully yours」というこの映画の英題は、英語の「God bless you」という言葉に響きが少し似ている。
「God bless you」には相手に「大丈夫」と言っているような意味が感じられる。

「blissfully yours」という言葉を調べると、なんだか遠くて近い感覚があった。
その言葉の持つ意味と相反するようなこの胸の中に手を突っ込まれて心臓に穴を空けられたような衝撃は「大丈夫」とは言わないけれど。

この物語は、ただそこにある。
そっと語りかけてくるのは、映画の中でわたしが出会った「場」ではないだろうか。
一瞬を写し取るのが写真なら、あの時あの空間で、ある一日の連続を映し続けたこの映画の中にあったものは、暖かい体感を伴ったわたしの回想などではなく、衝撃を感じたヒヤリとする何か——決して静止しないもの——「場」によって変化し続けるなにかである。

そのなにかに、あの陽光の中ミンにただ触れていたルンのように、今ひととき触れていたい。

(text:岡村亜紀子)

『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説
ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

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