2016年3月22日火曜日

映画『ジョギング渡り鳥』評text岡村 亜紀子

「映画から羽ばたいたもの」


人は同じ映画を繰り返し観る。いや、繰り返し観たくなる。その理由は様々あるけれど、一度観た映画を鑑賞する時、かつての自分がどう感じたのか、そのシチュエーションーー何処で、誰と、あるいは一人で観たのかーーを、きっとわたしたちは思い出すだろうし、思い出したいと思っているのではないだろうか。
『ジョギング渡り鳥』はそんな、きっと繰り返し観たくなる作品になるだろう。矛盾するようだけど、それは先に述べたような理由とは少し違うような気がする。
きっと、わたしが会いたいのは、かつての自分でも思い出でもなく、魅力的な映画の住人たち、そして同時に俳優たちなのだ。

この作品を観ていると、大学の頃、所属していた映画研究会がつくっていた自主映画にまつわる事を思い出す。自分が関ってもいてもいなくても、映研の仲間の作品たちは、今も愛すべき存在である。わたしの大学の映研にあったのは映写機2台と8ミリカメラだった。後に、別の放送系の団体に所属していたある優秀な学生の為に映像のラボが図書館内に作られてからは、好意でデジタルカメラやブーム・マイクなどの撮影機材を貸してもらえ、PCに入れた編集ソフトを使えるようになっていったけれど、それまでは8ミリで撮って映写機でアフレコする超アナログの方法で作品を作っていた。そんな作品を仲間内で部室で観たり、学祭にカビくさい暗幕で上映会場を作って映していた日々のことを。

この作品ではモコモコ星人という宇宙人が遠い星から神を探して旅をしてきて、地球に訪れる、というか堕ちてくる。乗ってきた宇宙船が壊れてしまい、彼らは自分たちが堕ちた町の住人たちを観察し始める。町の住人たちとモコモコ星人たちは俳優陣による一人二役によって演じられている。
作品の冒頭で映る宇宙船と船内の様子に、とても愛しさを覚えた。とてもアナログである。その自由でアイディアで勝負する(とわたしは思った)感覚に、「うわー」と興奮してしまう。それは、もしかしたらわたしが自主映画に少なからず関ったことが関係しているのかもしれないが、なによりもその自由さに圧倒された。
モコモコ星人たちが話しているモコモコ語(?)は、意味がわからないけれど、だんだん「あ、この◯◯◯って挨拶なんだ」となんとなく感じたりする。そして、見知らぬ惑星(地球)で、どこから持ってきたかわからないバナナを食べて、みんなで丸くなって眠る彼らはとてもいたいけで、きゅんとしてしまう。彼らはカメラやマイクなどの撮影機材を使って地球人の観察を始めるのだけど、モコモコ星人たちは殆どの地球人からは見えないので、一生懸命、機材を持って町の住人のまわりを追いかける。そんな観察者だった彼らは、彼らを見ることが出来るある住人に対して、物語の終盤にある大きな要求をする……。

自主映画という言葉をどう扱ってよいのか戸惑うまま使ってしまっているけれど、果たして大学の時の自分の撮ったものは自主映画なんだろうかと思う。どっぷり自主映画にはまっていたような環境でもなくて、世の自主映画を観るようになって、並列して並べてしまうには当時つくった作品はあまりに幼くて臆してしまうのだけど、ただただ世の中に溢れる映画というものを恐れながら言葉にできない何かを物語にしてみたいという欲求があったのであった。

『ジョギング渡り鳥』と、それを取り巻く出来事に感じるのは、比べるのはおこがましいけれど、その当時の幸福感なのである。あの愛しい、もう観られない作品たちを、わたしはきっと何回観てもおなかいっぱいにはならないだろう。『ジョギング渡り鳥』を観ている時に起こる胸がきゅんとする感じ、そういった楽しさ、愛しさが画面ににじみ出ているような感覚は、一体何処からくるのだろう。

『ジョギング渡り鳥』は157分という長尺の物語で、監督である鈴木卓爾氏が講師を務めた映画美学校のアクターズ・コース第一期高等科の実習作品として始まった。その授業が終わってからも、出演者がスタッフを担い、この自主映画が作られたそうだ。監督・出演者・スタッフの皆さんは現在も宣伝活動を邁進している様子が日々SNSに綴られている。その活動は、もちろん真剣で大変なものであると想像するけれど、その成り立ちとともに、どうしても「play」という日本語で上手く言語化できないイメージが浮かぶ。大人がする真剣な遊び、または運動のようなイメージだろうか。それはとても楽しそうに行われているように思えてならない。
完成した映画が、上映されるという現象には多くのひとが絶えず関っていると思うけれど、「must」ではない関り方がこの作品には見受けられて、それを出演者でありスタッフの皆さんが行っていることが、映画を越境して物語と彼らが結びついているような(もちろん演じているのだから確かな結びつきがある)、どこか不思議な感覚をわたしに与えている。

映画の物語の中には人生があり、それを観て感動したり、知ったり、出会ったりということを観客はするけれど、映画内で『ジョギング渡り鳥』の住人たちにわたしが感じるのは、彼らが「生きている」というシンプルなことだったりする。役者は役を生きるものかもしれないが、この作品がわたしにとって与える印象は、それとも少し異なっていて文字通り「生きている」ことなのだ。彼らにとって、役を演じることと自分としても生きていることは、この作品でイコールなのではないかと感じる。

いまだに時折思い出す同級生の言葉がある。学祭まで1週間をきり、泊まり込んで編集をしていた時に、撮影したシーンをカットできずにいたわたしに「どれだけ苦労したとか、思い入れがあるとか、すごい頑張ったとか関係ない。観た人が面白いって思ってくれることが大事」と友人は言った。ずっと寝ていなくて変なテンションになっていたせいか「でも…でも…」と号泣したわたしに、「大丈夫だって。それでも、作ったってことは残るから。」と。その時から今まで、わたしは「残る」というのは作品が物理的に残る事だと思っていたのだけど、今になって、今頃になってそうじゃなかったのか、と思う。

“生きている”ということは、変化していくことであり、明日がどうなるかわからないことでもある。昨日孤独だった人が、翌日に出会う人と恋愛関係になるなんてことも実際にあるし、その逆もあるだろう。そうした“当たり前”にあって、予測出来ない生命が、この作品のなかで157分続いていたような気がするし、映画の外側へと繋がっていっているような気がする。
その現象は、この作品がつくられた背景にある「固定化したシナリオや絵コンテの形には一切しなかった」(※)撮影現場で始まったのではないかだろうか。この作品が「SFメタ」的な物語でありながら絶えずわたしたちの日常との親和性を感じるような映像で綴られていることの根底には鈴木卓爾監督のプロフェッショナルな視座があり、現場で起こった出来事に幾多の物語が生まれていくような出来事は、主演者の「演じている」というフィクショナルに「生きている」ということを感じるドキュメンタリー的要素のある演技を呼び込んで、物語であると同時に、映画をつくったひとびとの記録のようなものになっていると感じる。それはこの作品がつくられた時空の記録でもある。

この物語のラストシーン思いを馳せていて深作欣二監督の映画『蒲田行進曲』(1982)のことを思い出した。『蒲田行進曲』の原作・脚本の劇作家、つかこうへい氏は劇場公開時のプログラムにこんな言葉を寄せている。

「私たちは、母親による子殺しや、覚醒剤でどうこういう事件には、もう驚きもしなくなりました。今は、どう物語をつくっても、事実という重さには勝てない時代です。
この映画の誇るべきところは、ドキュメントでもなく、ノンフィクションでもなく、ただのつくりものだということです。久しぶりに、噓にみちた映画らしい映画です。」(一部抜粋)

この言葉を読んでわたしはなにか、すとん、と落ちてくるものを感じた。あくまで『蒲田行進曲』に関してであり『ジョギング渡り鳥』のラストシーンはわたしにとって、未だ謎に満ちている。『蒲田行進曲』のそれが映画とわたしたちの人生のクロスオーバーをして、いわれえぬ感動を呼び起こすのだとしたら、『ジョギング渡り鳥』のそれには、鼻がすんとするようなせつなさを感じて、なんとなく……旅のようなものの、一つの終わりと重なるような気がする。旅がそうであるように、映画がまた俳優・スタッフ・観客にとってそうであるように、または物語の中でモコモコ星人たちがそうであるように……。「またどこかで」と、そんな言葉が聞こえてきそうな、晴れがましさとともに感じる一抹の寂しさ。わたしはそんな寂しさがきらいではない。それは、きっと自分にとって“残る”日々にしか感じられないものだからだ。そして終わりは始まりへの序章なのである。

体内に残存するものは思い出すものであるだけではなく、生きていたら自分の中で違う意味を持つものに変化して行くから不思議だ。その愛しさは映画をつくった側のひとには、ふと思い出した時、あの頃の自分たちがいたことが疑いようのない事実として、存在の証明のように残っていくのではないだろうか、と想像する。そして記憶の意味は生きていくなかできっと変化していくのだろう。そして映画を通して出会った彼らに共振するように、観客であるわたしにも、まるで自分もモコモコ星人や、彼らが観察する町の住人になったかのように、彼らが過ごしたせつないような夕闇や穏やかな午後や透明な朝の風景は、町の住人の動いていく時間やウクライナさんのキリリとした表情は、確かに刻まれたことを感じて、また会いたくなるだろうと予感している。

なんで愛しく感じたのかという問いに、この映画で起こった不思議に、早急に理由を求めることもしなくてもよいじゃないかと思ってしまうのは安易だろうか? ふと思い起こしては、まだ見ぬプレゼントの中身を想像するように、この物語のことを考えるのもよいのじゃないかと思っている。
『ジョギング渡り鳥』の羽ばたきは、始まったばかりなのだから。
  
※公式ホームページ内、プロダクションノート参照

(text:岡村亜紀子)




『ジョギング渡り鳥』
2015年/157分/日本

作品解説
俳優としても活躍する鈴木卓爾監督が、講師を務めた映画美学校のアクターズ・コース第1期高等科の実習作品として、3年がかりで生徒たちと作り上げた初のオリジナル長編作品。遠い星から神を探して長い旅を続けてきたモコモコ星人が、地球へとたどり着く。母船が壊れて帰れなくなった彼らは、とある町の人々をカメラとマイクを使って観察しはじめる。しかし、モコモコ星人には人間のような「わたし」と「あなた」という概念がなく……。

キャスト
地絵流乃 純子:中川 ゆかり
山田 学:古屋 利雄
留山 羽位菜:永山 由里恵
留山 聳得斗:古川 博巳
走咲 蘭:坂口 真由美
麩寺野 どん兵衛:矢野 昌幸
摺毎 ルル:茶円 茜
海部路戸 珍蔵:小田 篤
瀬士産 松太郎:柏原 隆介
背名山 真美貴:古内 啓子
部暮路 寿康:小田原 直也
海部路戸 ノブ:吉田 庸
郵便局員:佐藤 駿
瀬士産 仁:山内 健司
ジョガーの女:兵藤公美
ハンター 入皆茶:古澤 健

スタッフ
監督:鈴木 卓爾
場面構成:鈴木 卓爾
撮影監督:中瀬 慧
音響:川口 陽一
照明応援:玉川 直人
助監督/制作:佐野 真規、石川 貴雄
編集:鈴木 歓
ロケーションコーディネート:強瀬 誠
宣伝デザイン:三行 英登
宣伝統括:吉川 正文
製作:映画美学校、Migrant Birds Association
宣伝・配給:Migrant Birds Association、カプリコンフィルム

公式サイト
劇場情報
新宿K’s cinemaにて3月19日(土)より公開
大阪 第七藝術劇場にて公開決定


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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子:Akiko Okamura

映画を観て感じたことを言語化してみたくて、勇気を振りしぼって
映画ライター講座であるシネマ・キャンプを受講しました。
その受講生有志で始めた「ことばの映画館」で参加・活動しています。
映画に興味を持ったきっかけは反抗期にTVで観た『カーリー・スー』でした。
今一番観たい映画は、岩井俊二監督の新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』です。

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