2016年3月4日金曜日

【特別寄稿】映画『サウルの息子』評text成宮 秋祥

「負の歴史に奪われた生命に対して、私たちが唯一できる事」


 無力感が暫く続いた。席を立つ事が中々できなかった。全身から精気が抜けてしまったようだ。映画が終わって、画面の幕が下り、劇場が明るくなっても、私は暫く席を立てなかった。得体の知れない無力感に打ちのめされていた。

 映画の冒頭、画面にゾンダーコマンドについての簡単な文が挿入される。ゾンダーコマンドとは、ユダヤ人の死体処理を行う特殊部隊の事である。構成員は全員、同胞のユダヤ人であり、彼らはわずか数か月間の延命と引き換えに、その過酷な任務に従事していた。主人公のサウル・アウスランダー(ルーリグ・ゲーザ)もゾンダーコマンドの一員だ。

映画は、サウル自身を、まるで「観察する」ように映し進行する。「観察する」とは一体どういう事か? この映画はサウルの肩から顔の辺りまでだけしか映さない。まるで自画像のようなこじんまりした画面が、映画の始まりから終わりまで延々とサウルを映し続ける。

サウルは、収容所の死体処理場に黙々と同胞のユダヤ人を連れて行き、彼らの衣類を脱がし、ガス室に詰め込み、扉を閉める。すぐに中で複数の壮絶な悲鳴が響く。サウルは表情を落として、ひたすら耐えている。サウルの沈黙した表情とガス室内の悲鳴が、観ている者の視覚と聴覚を刺激し、ガス室内の地獄の光景を想像させる。恐ろしく居心地の悪い気にさせる。しかし実際の映像は、焦点がぼやけていたり、サウルの身体に隠れていたりと非常に断片的でよくは分からない。不穏な空気感だけが画面に持続している。それは終始一貫して徹底されている。

 その後も、サウルが何処かに移動し、何か作業をしているらしい事は想像できるが、実際に何をしているかは分からない。また、周囲で何か恐ろしい出来事が起こっているらしい事は想像できるが、これも実際に何が起きているかは分からない。明らかに全体を見せまいとする意図が感じられる。その意図に従って映画を観ていくと、次第にサウルの傍に自分がいるような不思議な感覚を覚える。自分も映画の中にいる。しかし映画の全体は分からない。観客それぞれが想像した恐ろしい世界の中で、ただサウルの傍に寄り添っている自分がいるだけなのだ。

 サウルを映すカメラは一体何を意味するのか? 誰がサウルを観察しているのか? 恐らく「神」であり、そして確実に私たち「現代人」である。神の視点を通じて、私たちはサウルの二日間の過酷な生活を観察する。しかし、私たちは神ではない。ただの人間だ。サウルに対して何もする事はできないし、起こってしまった悲劇を変える事もできない。サウルや奪われてしまった他のユダヤ人の魂に対して、私たちは徹底的に無力である事を痛感させられる。ただ、そこで起こった事象を、視覚や聴覚など、五感を通じて全身で体感し、忘れないように記憶する事しかできない。

 サウルを映すカメラは、時折サウル以外の被写体にも注目する。それはサウルの息子と思われる少年であったり、遺体を解剖しようとする医師であったり、作業着の背中に赤い×印を施された同胞のユダヤ人であったり、不気味に微笑むナチスの将校であったり。彼らを眺める視線は、映画のほぼ全編を貫くサウルを観察する視線とは異なっているように思う。実際にはサウルの後方から捉えた諸々の事象なのかもしれないが、どうしてもその被写体への深い注目は、サウル自身の視線から捉えているように思えてならない。サウルを観察する神の視線は、時にサウル自身の視線にも変化し、私たちに逃れようのない臨場感を持たせる。そこには、確実に命を奪われた人々がいて、また反対に、命を奪った人々がいた。そうした事実を、当事者の視線から私たちに再認識を促しているかのようだ。しかし、そこにもやはり途方もない無力感が湧き起こってくる。既に起こってしまった悲劇は変えられない。その事実を観察する事しかできない私たちは徹底的に無力でしかない。ただ、知られなかった事実を受け止める事しかできない。

 やがて、ナチスの残虐な殺戮が続く中、武装蜂起したゾンダーコマンドが死体処理場を爆破し、その混乱に乗じて収容所を同胞と共に脱走したサウルは、息子と思われる少年の遺体を川で流してしまい、埋葬に失敗する。生きる目的を失ったサウルは仲間と小屋に隠れるが、そこに一人の少年がやってくる。少年に微笑むサウルのショットを最後に、カメラはサウルの傍を離れ、小屋から走り去る少年の後を追いかける。これ以降、カメラは完全にサウルを映さなくなる。神はサウルを見捨てたのだろうか? 否、むしろ見捨てたのは私たちの方ではなかろうか? そこに、確かにゾンダーコマンドとして同胞をガス室に送って虐殺を手伝わされ、わずかに生き長らえるも無残に殺された、人間の尊厳を奪われた彼ら(ユダヤ人)が存在した。その事実から目を背けるように、カメラは遠くに走り去る少年の後ろ姿を追いかける。その最中、けたたましい機関銃の音が私たちの聴覚を直撃した。サウルは殺されてしまったのだろうか? 恐らくそうだろうが、その実際がカメラに映される事はない。私たちがその痛ましい最期を想像するしかない。まるで既に起こってしまった負の出来事について目を背けたり、忘れようとしたりした事への罰を、私たちは受けているかのようだ。そして、私たち現代人は、この映画に映された真実に対して、どうしようもなく無力なのだ。私たちに唯一できる事は、人間の尊厳を奪われた彼らが存在した事実を、忘れないように記憶するしかない。悲しい歴史を繰り返さないために。

(text:成宮 秋祥)




『サウルの息子』
英題:SON OF SAUL
2015年/107分/ハンガリー/カラー/スタンダード

作品解説
2015年、第68回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したハンガリー映画。アウシュビッツ解放70周年を記念して製作され、強制収容所で死体処理に従事するユダヤ人のサウルが、息子の遺体を見つけ、ユダヤ教の教義に基づき葬ろうとする姿や、大量殺戮が行われていた収容所の実態を描いた。

キャスト
サウル:ルーリグ・ゲーザ
アブラハム:モルナール・レべンテ
ビーダーマン:ユルス・レチン
顎鬚の男:トッド・シャルモン
医者:ジョーテール・シャーンドル

スタッフ
監督:ネメシュ・ラースロー
脚本:ネメシュ・ラースロー、クララ・ロワイエ
撮影:エルデーイ・マーチャーシュ
音響:ザーニ・タマーシュ

配給:ファインフィルムズ

公式ホームページ
http://www.finefilms.co.jp/saul/

劇場情報
新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか公開中

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Narimiya Akiyoshi

映画交流会「映画の゛ある視点(テーマ)゛について語ろう会」主催。本業は介護福祉士。映画ライターとして、ドキュメンタリー専門誌neoneo(neoneo web)に映画レビューを寄稿。

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