2016年6月11日土曜日

【特別寄稿】映画『緑はよみがえる』評text成宮 秋祥

「忘却の雪解け」


 この映画に出会えてよかった。日本公開から2、3日して数少ない上映館の一つ、都内の岩波ホールで本作を初めて鑑賞してから、大分月日が経過した。この映画について何か書きたいと思いつつ、何も書けないでいた自分に苛立ちと焦りを感じながら時が流れてしまった。すでに映画のストーリーがどのようなものであったか朧げになり、詳細な部分を思い出す事が難しくなった。しかし、不思議なもので本作は映画の全体像が時間と共にぼやけてくるにも関わらず、初鑑賞後に身体の内側からこみ上げてきた感動は、変わらないどころか、より一層熱くなるばかりだ。

 エルマンノ・オルミの作品を初めて観たのは、19歳の頃だった。当時、学生だった私は、その頃から映画に熱を上げていて、年代や国、ジャンルを問わず数多くの映画を観るようになっていた。私の初めてのエルマンノ・オルミ体験は『木靴の樹』(1978)だった。イタリアの貧しい農家の生活を約3時間、たんたんと描いただけの映画に関わらず一分たりとも退屈する事のない不思議な映画だった。もっと不思議な事に、『木靴の樹』をDVDで何度も観返しているはずなのに、私は映画のストーリーをまだ確かに憶えていない。映画を観て味わった深い感動とは反対に、その映画の中の出来事をもの凄い速度で忘れていくのだった。しかし、今回観たオルミの新作『緑はよみがえる』と同じく、鑑賞後に私の身体の内側にこみ上げた感動は、まだ熱いままだ。

 オルミの作品は、『木靴の樹』もそうだったが、どこかこの世ならざる世界をスクリーンに映し出す。もちろん、映像はイタリアで撮られ、その土地の雰囲気や情緒が濃厚に漂っているのだが、時に無国籍風な空気(つまり、どこかわからない世界の空気)がスクリーンのそこかしこに漂い、この世ならざる世界を観る者の心に記憶させる。本作の冒頭に映し出される画面一杯の雪景色とそれを覆う藍色の空にも、そうした無国籍風な空気が漂っている。朝なのか夜なのかもわからない、現実世界かあるいはこの世ならざる世界なのかもわからない、その独自の世界に心を引き寄せられる。

 かつて、似たような映像体験を私はした事がある。ギリシャのテオ・アンゲロプロスの作品『狩人』(1977)がそれだ。アンゲロプロスの作品は、詩情豊かな映像作品が多いが、作風は極めて政治的で難解だ。しかし、アンゲロプロスもまた、無国籍風な空気を漂わせる映画作家だと、私は思う。『狩人』の冒頭も雪景色で始まる。そこで仲の良い狩人たちが謎の死体を発見した事により、彼らはそれぞれの過去の記憶を巡る不思議な体験をする事になる。『緑はよみがえる』は、そういった幻想的なストーリーを持ってはいないが、夢なのか現実なのか判然としない過去の記憶を巡る映画としては共通している。

『緑はよみがえる』は、第一次世界大戦下のイタリアを舞台にしている。ストーリーの背景にはオルミの父親の存在が関係している。オルミの父親は強い愛国心を持ち、19歳で前線(後に“アジアーゴの戦い”と言われた)に出たが、過酷な戦場での体験により、心に深い傷を負った。本作は、オルミの父親の記憶を辿る映画だったといえる。

 薄暗い空と雪に覆われたイタリア・アルプスのアジアーゴ高原を、列をなして歩く無数のイタリア兵。彼らは一様に雪を掘り、塹壕を作る。夜、イタリア兵がナポリ民謡を歌うと、敵であるオーストリア兵から賞賛の声がどこからか響き渡る。時が止まったような束の間の静寂。しかし観る者の心が癒える事はない。戦火の気配がスクリーンに立ち込める。塹壕の中で餓えや寒さに苦しむ傷病兵たち。これからとてつもなく悲しい出来事が起こる、そう予感させる物悲しい詩情と、凍てついた緊張の混在する濃密な画に、胸の内側が痛くなる。

 やがて、兵士たちに上層部の命令を伝えに、ベテランの少佐と実戦経験に乏しい若い中尉が塹壕にやってくる。命令の内容は、現場の実情を無視した現実的に無茶なものであり、現場を指揮する大尉は強く反対するが聞き入れられない。結局、命令を実行に移すが犠牲者を出し、大尉は軍位を返上してしまう。後を託されたのは、実戦経験に乏しい若い中尉だった。

 この映画を観ながら、第一次世界大戦を題材にした映画を何本か思い出そうとすると、私の場合、二本を思い出す。一本目はフランスのジャン・ルノワールの名作『大いなる幻影』(1937)だ。『緑はよみがえる』の画は、『大いなる幻影』の格調高い詩情豊かな画に迫っていた。しかし戦争場面の描き方は『緑はよみがえる』の方が残酷だった。次に思い出される二本目の映画がアメリカ・ハリウッドの戦争映画の名作『西部戦線異常なし』(1930)だ。『西部戦線異常なし』は詩情豊かとは言わないまでも、戦争の残酷性を見事に描いた古典だ。『緑はよみがえる』の作品としての雰囲気は、詩情性を高めた『西部戦線異常なし』だといえる。

 米国アカデミー賞の作品賞を受賞した『西部戦線異常なし』のストーリーは、愛国心に燃える主人公が自ら志願して戦場に赴くも、その惨たらしい実情に絶望していく過程をたんたんと描いたものだ。『緑はよみがえる』のストーリーは、愛国心に燃える若人が主役である事、その若人の想いが実際の戦争体験を通して打ち砕かれ、戦争が招いた残酷な現実に絶望し、心に深い傷を負うという点で『西部戦線異常なし』と共通している。劇中で戦闘指揮を託された若い中尉は、『西部戦線異常なし』の主人公の立場によく似ている。この若い中尉のモデルは、間違いなくエルマンノ・オルミの父親である。

 愛国心に燃える若い中尉は、実戦経験に乏しいながら冷静に部隊を指揮しようとするが、結果として敵の砲撃の前に為す術もなく惨敗してしまう。残っていたのは、絶望に飲まれ暗い涙に歌を失った兵士たちと、無残に散乱した戦死者の山。若い中尉は、憎しみと悲しみに襲われ、ただ立ち尽くすばかり。『西部戦線異常なし』の主人公は、憎い敵国の兵士と塹壕にて一対一で対面するも、その敵兵に愛すべき家族がいる事を知り、愕然とする。また、『大いなる幻影』においてもドイツ人将校とフランス人将校が共に貴族であった事から懇意になるも、最終的には脱走したフランス人将校をドイツ人将校が撃ち殺してしまう。互いの国の兵士たちは、どこかで通じ合う事ができたはずなのに、戦争という名の悪魔は、全てを惨たらしくあっさりと奪ってしまう。

 『緑はよみがえる』で、最も戦争の残酷性を意識したのは、砲撃の音だ。そもそもの始まりの画は、無国籍風のどことも知れない世界を表したかのような幽玄の詩情に満ちている。ナポリ民謡を歌うイタリア兵士やそれを賞賛するオーストリア兵士、一心不乱に塹壕を掘る兵士たちの動き、飢えと寒さに苦しむ兵士たちの様子、上官たちの心の葛藤にしても、そこかしこに独特の詩情があった。つまり、オルミの綴った“一つの詩世界”がそこにあった訳だが、塹壕を破壊し、若い中尉の部隊の兵士を死に至らしめた砲撃の轟音は、その一つの詩世界に相容れない不協和音を生じさせていた。まるで別世界から魔物が侵入してきたかのように、その一つの詩世界は崩壊してしまった。

 オルミの描いた詩世界への考察から再びルノワールの『大いなる幻影』を思い出したのだが、『大いなる幻影』は、始まりから終わりまで全てに温かいユーモアと儚い切なさが混在した詩情があった。このルノワールが描いた画の中(一つの詩世界)に、戦争を感じ、悲劇を感じ、人間の愚かさを感じた。だからこそ、映画に芸術を感じた。しかし『緑はよみがえる』は、砲撃という戦争が生み出した暴力を加える事で、作り上げていた一つの詩世界を途中で壊してしまったのだ。戦争は、芸術を無残に破壊する行為なのだ、とオルミは伝えようとしているのかもしれない。砲撃という轟音によって――その単純な暴力的な響きによって、一つの詩世界(芸術)は崩壊してしまう。自身の繊細な一つの詩世界を無残に破壊してみせる事で、戦争がもたらす残酷性を彼は表現していたように思えた。

 しかし、この映画を見つめるオルミの眼差しは不思議と温かいように感じる。それを強く意識したのは、その一つの詩世界の崩壊後だ。戦闘に惨敗し、多くの死傷者を出してしまった若い中尉は、「この世で一番難しい行為は人を赦す事です。しかし人が人を赦せなければ人間とは何なのでしょう」と、そんな内容の手紙を母親に書いた。彼は、戦争で敵を憎む事を考えながら、同時に敵を赦す事も考え、戦争で人を赦す事の難しさに苦悩しているのが伝わった。若い中尉のモデルであるオルミの父親が、このような苦悩を本当にしたのかはわからない。それでも戦争が憎しみを生み、その憎しみが戦争を育て、そしてまた新たな憎しみが生まれ、戦争の悲劇が肥大化してしまうという、戦争の本質が十分に伝わってくる。そしてそれを止める手段が人を赦す事だという事も、若い中尉の、心の痛みに震えたその眼差しから確かに伝わってくる。

 戦争がもたらした悲劇を、私たちは忘れてはいけない。また、『緑はよみがえる』はそれだけではなく、“人を赦す”事も、忘れてはいけないと温かく語りかけてくる。

 この映画は、エルマンノ・オルミ監督が父親の体験した第一次世界大戦の記憶を巡る映画であるが、同じように戦争の悲しい記憶を巡る映画に、今年の米国アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した『サウルの息子』(2015)がある。『サウルの息子』は、主人公への徹底した主観視点による撮影で、観る者に戦争の疑似体験をさせる作りになっている。そのため、戦争への恐怖や憎悪を、強烈に視覚に記憶させる。しかし『サウルの息子』は、その徹底した映像表現への拘りに、戦争の実態を全て描こうとする監督の執念を感じ、激しく動揺させられ、どこか居心地の悪さがあった。そこには戦争の本質だけがあったように思えてならなかった。

 エルマンノ・オルミの『緑はよみがえる』は、『サウルの息子』にはなかった戦争がもたらす憎悪を超えた先にある人間の高潔な心のあり方を描いていたように、私には思えた。世界に戦争の火花が絶えない現代において、人間はどう生きるべきかを、イタリア映画の巨匠エルマンノ・オルミは、自身の父親の戦争の記憶を巡って、その問いを見事に導き出したといえる。

 私たちは戦争を忘れてはいけない、そして同時に、人を赦す事も忘れてはいけない。それが人間にできる最大にして、あまりに人間らしい行為なのだから、と。

(text:成宮 秋祥)





『緑はよみがえる』
2014年/76分/イタリア

作品解説
「木靴の樹」「ポー川のひかり」の巨匠エルマンノ・オルミ監督が、第1次世界大戦開戦から100年にあたる2014年に平和を願って撮りあげた戦争ドラマ。1917年、冬。北イタリアの激戦地アジアーゴ高原では、オーストリア軍と対峙する前線のイタリア兵たちが、大雪で覆われた塹壕の中にこもっていた。飢えや病気で次々と倒れていく中、司令部から不条理な指令が下され、兵士たちは追いつめられていく。さらに、オーストリア軍の激しい攻撃が彼らを襲う。

キャスト
少佐:クラウディオ・サンタマリア
若い中尉:アレッサンドロ・スペルドゥーティ
大尉:フランチェスコ・フォルミケッティ

スタッフ
監督:エルマンノ・オルミ
製作:ルイジ・ムジーニ、エリザベッタ・オルミ
脚本:エルマンノ・オルミ
撮影:ファビオ・オルミ

配給:ムヴィオラ

劇場情報
岩波ホールほか全国公開

公式ホームページ
http://www.moviola.jp/midori/


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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥 Akihiro Narimiya

1989年、東京都出身。専門学校卒業後、介護福祉士として都内の福祉施設に勤める。10歳頃から映画漬けの日々を送る。これまでに観た映画の総本数は5000本以上。キネマ旬報「読者の映画評」に掲載5回。映画イベント「映画の“ある視点(テーマ)”について語ろう会」主催。その他、映画解説動画「映画観やがれ、バカヤロー!」を定期的に実施。将来の夢、映画監督になる。

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