2016年7月29日金曜日

映画『二重生活』評text長谷部 友子

「尾行から倫理は立ち現れるのか?」


大学院で哲学を学ぶ白石珠(門脇麦)は修士論文のテーマとして「実存」を選ぶ。実存、つまり主観や客観を持ち出す以前の存在の状態、今ここにあるということについて。

しかしどのような手法でそれを研究すればよいのかわからない。無作為に選んだ100人にアンケートをとるという研究計画をたててみるものの、指導教官の篠原(リリー・フランキー)からそれは心理学や社会学の手法だと言われ、多数ではなく一人の人間に潜ること、つまりソフィ・カルのいう「哲学的尾行」の実践として、無作為に選んだ一人を尾行することをすすめられる。篠原と別れ、尾行することに抵抗を感じ決めかねている珠は、隣人である石坂(長谷川博己)を書店で見かけ、思わず後をつけてしまう。美しい妻、可愛い娘と幸せそうに暮らしているように見えた石坂だが、他の女性との激しいキスシーンを目撃し、石坂の二重生活から目が離せなくなる。

小池真理子の同名小説を本作が劇場映画デビュー作となる岸善幸監督が映画化した。もともとドキュメンタリーの監督であったからなのか、出演者たちはインタビューでしきりに「ドキュメンタリーのような」という言葉を口にする。 
尾行とはたいてい目的をもってされるものだ。不倫調査であるとか、ストーカー行為であるとか。理由なき尾行。石塚を尾行する珠、尾行する珠を見守る篠原。幾重にも絡まる視線の先に立ち現れるものは、たしかにドキュメンタリーのようにある種の乱暴さと無常さと、素っ気なく陳腐であるがゆえに考えずにはいられないものたちだ。

理由なき尾行の末に、珠の書き上げた論文が見事だ。
人には他人の人生を覗いてみたいという欲求が存在する。自分の生きなかった人生を生きてみたい、自分の身を他人の場所に置いてみたいというその欲求は好奇心の産物であり、下世話なものにすぎないのだろうか。珠は盗み見てしまったことの重みに翻弄され、他人の場所に身を置くことにより立ち現れる倫理ともいうべきものを体感していく。

哲学は古代ギリシアの頃から、「よく生きる」ことを探求し続けてきた。しかし私たちはそれに到達できない。渇望しながらも公正な愛なんてものがないことを知っている。傷ついたくせに、自分もまた裏切り、生き難さの中を日々泳ぐ。
結局のところ、追いかけていた者が翻って自身をあぶり出されるという古典的な手法かもしれない。しかし過ぎゆくものの無情さと陳腐さと、それでも問い続けずにはいられない者の彷徨いが行きつく先にあるものを見届けたいと思わせる作品だ。

(text:長谷部友子)




『二重生活』

2015年/126分/日本



作品解説
直木賞作家・小池真理子の同名小説を、ドラマ「ラジオ」で文化庁芸術祭大賞を受賞するなど、数多くのドラマやテレビ番組を手がける岸善幸の劇場デビュー作として映画化。門脇麦演じる大学院生が近所に住む既婚男性を尾行することで、他人の秘密を知ることに興奮を覚えていく。大学院の哲学科に通う珠は、担当教授のすすめから、ひとりの対象を追いかけて生活や行動を記録する「哲学的尾行」を実践することとなる。

キャスト
白石珠:門脇麦
石坂志郎:長谷川博己
鈴木卓也:菅田将暉
篠原弘:リリー・フランキー

スタッフ
監督:岸善幸
原作:小池真理子
脚本:岸善幸
エグゼクティブプロデューサー:河村光庸
プロデューサー:杉田浩光

劇場情報
渋谷HUMAXシネマほか全国公開中

公式ホームページ
http://nijuuseikatsu.jp

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。

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2016年7月28日木曜日

フランス映画祭2016〜映画『パレス・ダウン』ニコラ・サーダ監督インタヴューtext藤野 みさき

CJoe D Souza

テロ事件そのものではなく、
若い女の子がこの危機的な状況の中でどのような成長を遂げるのかーー
そのことが私にとって最も大切なことでした。

                        ー ニコラ・サーダ



 現在の私達の生きるこの世界は、まるで大きなうねりをあげるかのように、映画の世界をも凌駕する非情な現実が日々世界各国で起こっている。本作『パレス・ダウン』は、2015年11月13日に起きたパリの同時多発テロ事件の直後に本国フランスでの公開が予定されていた。当初は公開を慎むことも考えられたのだが、この映画の製作陣、そして何よりも監督であるニコラ・サーダは「この映画がテロへの警鐘を鳴らすものであるのなら」との想いを込めて公開することを決意した。

 この映画『パレス・ダウン』は、2008年に実際に起きたインドの同時多発テロ事件を、事件当初襲われた「タージマハル・ホテル」の一室に滞在していた一人の18歳の少女の視点から描いた事実に基づく作品である。ホテルで夜を過ごそうとしていた主人公のルイーズ(ステイシー・マーティン)は、 突如銃声音を聞き、何が起こったのかを知ろう客室を出る。しかし、事態を飲み込めぬまま部屋に戻されてしまい、部屋の鍵を閉めて電気を全て消すように指示されるルイーズ。彼女の手元に残された唯一の命綱は、一つの携帯電話であった。

 本作において最も恐ろしいことは、今自分自身の周囲で何が起こっているのかを「見えない」「知ることができない」ことである。情報は遮断され、聞こえてくるものは銃声音や悲鳴だけである。そんな目に見えない不安に襲われる中で、それでも懸命に「生きよう」とする少女の勇気と成長をしてゆく姿に、サーダ監督は一筋の希望を託したのではないだろうか。
 今回、仏映画祭で来日をなされたニコラ・サーダ監督に、本作を製作するに至るまでの動機を始め、映画の構築の仕方や影響を受けた監督達、そして、この映画に込めた想いを伺った。

(取材・構成・文:藤野みさき 2016年6月25日 パレスホテルにて)


ニコラ・サーダ監督

──この度はインタヴューをお引き受けくださって本当に有難うございます。まずはその感謝の気持ちから申し上げたいと思います。

ニコラ・サーダ(以下NS) こちらこそ、有難うございます! このような時、日本語で何と言ったらいいのかを調べておいたものがあるのです。ちょっと待ってくださいね。
「ミナサマニ カンシャ モウシアゲマス(皆様に感謝申し上げます)!」

──メルシー・ボークー! 有難うございます。
では、質問に入る前に私の感想からお伝えしたいと思います。私はこの映画を観る時、何の予備知識もなく、ただムンバイにいる女の子がテロ事件に巻き込まれたのだ、ということだけで観たのです。ですので、すごくサスペンスフルに描かれていることが本当に面白く、手に汗握りました。

NS 日本のお客さんはこのような映画を好きになると思いますか?

──はい、もちろんです。実はこの映画を観る前、私は体調が悪くてとても眠かったのですが、この映画を観たら「ハッ」と目が覚めて、最初から最後まで画面に惹きつけられました。ですので、日本の観客はもちろん、私よりも若い人達、ルイーズの歳頃の観客にも伝わる映画だと思います。

NS 有難うございます。

──では映画の内容についてお伺い出来ればと思います。この映画を撮られる一番の動機は何でしたか?

NS 私は当時、2008年に起こったこのムンバイのテロ事件はテレビで見ていました。そのときはすごいことが起こったな、と思っていたのですが、その少し後に友人と話していたら、その友人のうちの一人の親類が事件当時、この映画の舞台となる「タージマハル・ホテル」にいて、事件に巻き込まれたのだということを知りました。
 もちろん、テロの問題というのは、今や世界中の関心を集めている非常に重要な、現代的な問題だと思います。しかし、関心はもちろんあるものの、私はそのような問題、テロを主題とした映画を作るということは考えてはいなかったのです。ですが、その友人の話を聞きながら、「このテロ事件というのは一つの映画のテーマ(主題)の中に描くことが出来るのではないか」と思い始めて、具体的な私自身の視点も輪郭を帯びてきたように思います。
 現在の大衆映画の中には、非常に残酷な場面が描かれている作品が多くあります。ですから、現在の私達というのは、大衆映画の中の残酷さに慣れてしまっていると思うのです。その映画の中には爆発シーンを始め、血ふぶきや死体など、様々な残酷な場面が出てきます。しかし、私が描きたかったものというのは、スペクタクル的な残酷な場面ではありません。観ている人の感性に訴えかける映画を作りたいと思ったのです。

──まさにそのことについてお伺いしたいことがあります。この映画は終始「見えない」ということに徹底されています。ホテルの一室でルイーズが見るもの、聞くもの全てが、観ている私達にとっての唯一の情報源となります。血ふぶきもなければ、人が撃たれる場面もありません。ピストルの音しか聞こえない、犯人の顔も見ることが出来ない。そんな見えない恐怖に包まれて、ルイーズは本当に怯えていますよね。この映画を演出するにあたり、何か意識なされたことはございますか?

NS 私はこの映画を作る時、主人公であるルイーズに焦点を定める描き方をしようという思いがありました。ですので、この映画の中で、いかにルイーズという人物像を浮かび上がらせるのか、ということを具体的に構築するために、本物のルイーズさんに会い、今あなたが私にやってくださっているようなインタヴューを行いました。その時、あの晩どのような状態であったのかという詳細を彼女に話してもらい、その話してもらったことを元に、どのようにして映画的に表現したらいいのかを考えました。
 ですから、彼女が一人であの日あの夜、どんな恐怖を感じ、不安を抱いていたのかを、どのようにして映画の中で表現するのかということが、私にとって最も大きな問題だったのです。もちろん、映画の中には時々ご両親も出てきますよね。ですが、それはあくまで時々であり、テロリストもまた存在はしていることを匂わせる描き方をしています。それは、実際にルイーズがテロリストたちを見ていないわけですから、映画の中で描く必要はなかったのです。

──とても気になっていたことがあります。本物のルイーズさんは、主役を演じられたステイシー・マーティンさんと似ていますか?

NS それは、とても不思議なことです。ステイシーは『ニンフォマニアック』という映画にも出演しているのですが、私が彼女に会ったのはこの映画が公開される前のことでした。ですが、彼女に会った時点で、彼女がこの映画に非常に適していると直感的に感じたのです。そして、映画の撮影を始める数ヶ月前に、本物のルイーズとステイシーに会っていただき、二人で話してもらう機会を設けました。そして、その時に、本当に偶然なのですが、彼女達が会話をしている最中に二人には高校時代の共通の友人がいることが分かったのです。そのような共通項を得ながら、彼女達の距離感もぐっと近づいてゆきました。色々な話が出来たことは本当にこの映画の役に立ったと思いますし、そのこと自体、私は運命的なことであったと思っています。
 そして、この映画の最後のほうで、彼女が住んでいるアパルトマンのキッチンで、ルイーズとお姉さん、そしてお母さんの三人が出てくる場面があります。そのルイーズのお姉さんを演じた女性というのは、実は本物のルイーズの姉妹なのです。ですからあの時に、全く違う感じがするのですが、なんとなく似ている。観ている人は、本物のルイーズの姉妹だということは分からなくても、「似ている」と言ってくださった方が沢山いらっしゃいました。ですので、似ていないようで、実は似ている、ということが大変興味深かったのです。

──それは非常に興味深いことですね。そんな偶然があるなんて……。

NS ええ、私もとても驚きました。




──私は、私達観客に想像力を委ねる映画が大好きです。私がこの作品を好きな理由も、やはり本作は私達観ている観客の想像力、そして知性を奪わない点にあります。映画が私達の想像する力を信じてくれるのです。私はこの作品を観た時に幾つかのアルフレッド・ヒッチコック監督の作品を思い出しました。例えば『断崖』や『裏窓』などがそうなのですが、ヒッチコック監督の映画もまた私達観客の想像力を掻き立て、委ねてくれます。
 私の好きな場面の一つに、ルイーズが身を隠したお風呂場にある電話が鳴り響くシーンがあります。あの電話を掛けた人というのは、彼女を助けようとしているホテルの従業員なのかもしれない。でも、もしかすると、それは彼女を殺そうとしているテロリストなのかもしれないのです。誰が、彼女に電話を掛けたのか。その真実は映画を観終わった後でも謎のままですね。

NS そうです。そのことがまさに私がこの場面に期待をしていたことだったのです。もしもあなたがホテルにいて部屋の電話が鳴ったとしても、それは日常的な光景ですから電話に出られますよね。でも、もしも今まさに攻撃されているホテルにあなたがいた場合は、状況は一変してしまいます。全てのことが脅威へと変わってしまうのです。ですから、私はこの場面が大変気に入っています。
 そして、ヒッチコック監督については、私が映画を観始めた頃に最も影響を受けた監督です。彼の作品は良く知っていますし、私は今でも常に彼の作品から学ぶことが多くあります。本作『パレス・ダウン』では本格的なサスペンス映画を作ろうと思っていましたので、緊張感を演出する上でも、彼の『鳥』からインスピレーションを受けました。

──有難うございます。またこの作品は一つ一つの場面がとても丁寧に撮影されていることも非常に印象的でした。中でも客室係の男性が二度、ルイーズの部屋を往復する場面があります。私はこの場面を観た時「なぜ、この場面はこんなに長いのだろう?」と、ずっと思っていました。二回目はノックして、お水を取り替えに来ますよね。そんな何気ないワンシーンが、しっかりと伏線になっており、最後に繋がってゆきます。そんなところで、観客である私達に、様々な人が存在するのだと憶えていてもらうということ。私達は一人では生きることは出来ません。そこには様々な人の存在が、支えがあります。そう思う時、この場面は非常に印象的で心に残った場面の一つでした。

NS このような非常に規模の大きな悲劇的な事件が起こった時に、その事件に巻き込まれる人々の中には、異なる宗教を持っている人達がいるでしょうし、宗教だけではなく、異なる人種や、国籍、職業など、様々な人達が一気に事件に巻き込まれて犠牲になってしまうことがあります。
 そして、それはとても大きな不幸な出来事なのですが、観ている私達や巻き込まれた人達というのは、このような不幸に巻き込まれたからこそ、宗教や人種や職業、そして社会的な階級などを全て排除して、連帯感というものを改めて確認することが出来るのではないかと考えます。それは非常に相矛盾していることであるのですが、平和な時は感じられずに、大きな災害の時だけ感じる不思議な連帯感が起こることも、また事実であると思います。

──このような災害時における非日常な状況に置かれた時、自らの持つ本質的な人間としての芯が問われるように感じます。

NS ルイーズは18歳と非常に若く、彼女の同年齢の人達というのは、これから自分が歩む道、どんな大学へ行こうかな、ですとか、どのような勉強をして、どのような職業に就きたいのかを考えます。あるいは、恋人のことを考えたり、どのような家庭を築きたいかを考えたりもします。そのような、彼ら彼女達なりの、様々な関心があると思うのです。しかし、このような大きな災害が訪れてしまったら、普段考えている日常的な、とても普通の彼らの関心事が一気に失われ、根こそぎ切り落とされてしまうような状況になってしまいます。つまりは非常に極端な状態に陥ってしまうのです。しかし、そのことで彼ら達は、その瞬間にただの若い人ではなく、一気に成熟した大人に成長するということもまた考えられるのではないかと思います。
 ですから、これは私が本物のルイーズに会って話をした時に感じたことなのですが、とても若い彼女達だからこそ、このような大きな災害に遭ったときに大きく成長出来る可能性を秘めていると思うのです。それは本当に矛盾していることなのですが、このような災害があるからこそ、大人になってゆく。このことは本当に普遍的だと思いますし、その姿というのは私の心を揺さぶるものがありました。

──私がこの映画を観た時に感じたのは、やはり主人公であるルイーズの成長です。最初は携帯電話を片手にとにかく「怖い」と、お父さんに「早く助けに来て」と言っていた女の子が、様々な体験 ─ホテルのタオルを濡らし煙を来なくするようドアの下に敷くところなど─を通じて、少しずつ強くなってゆきます。そして、一階下に取り残された女性にも、「大丈夫。私達はきっと助かるわ」とまで言えるようになるのです。その本当に短時間の中でも人間は成長できるのだというところに私は大変感銘を受けました。若く、か弱い女の子が強くなってゆくその過程が、とても鮮明に描かれていたからです。

NS そうですね。一階下にいるイタリア人女性の存在というのは、今あなたがおっしゃってくださった、彼女がいかに成長していったのかということを見せる良いきっかけになっていると思います。私は脚本を書きながらも、イタリア人女性の存在を描いたことは、ルイーズの成長を決定付けるためにという認識は全くありませんでした。ですが、改めてそのことを考えてみますと、確かにそうだという思いがします。
 最初、彼女はただお父さんに対して「助けてほしい」「どうしたらいいの?」と訊いて、お父さんに依存をしていたのです。そしてお父さんはひたすらに「大丈夫だから」と彼女を慰め、元気づけていましたよね。でも、ことが段々大きくなってゆきながら、彼女が一階下の部屋にイタリア人女性がいると分かった時に、初めて、彼女はお父さんを理解することが出来たと思うのです。人を元気づけることがいかに大切なのかということを理解し、そして、自分もお父さんのように彼女に対して「頑張って。大丈夫、助かるわ」と言い、彼女を励ます言動に出てゆくのです。ですから、ルイーズは事件が起こった最初の時よりも成熟してゆきましたし、それから、恐怖の状態に置かれている時の責任感も得たのだと思います。イタリア人女性を励ますのは自分しかいない。しかし、彼女を励ますことは同時に自分自身を励ますことでもあるのです。


CJoe D Souza


──実はインタヴューを行う前、サーダ監督はアルノー・デプレシャン監督の幾つかの脚本に携わっていたということを知りました。私はアルノー・デプレシャン監督が大好きなのです。彼との仕事というのは、『“男たちと共に”演技するレオ』と『あの頃エッフェル塔の下で』でしょうか? 『“男たちと共に”演技するレオ』は残念ながら日本未公開なのですが、『あの頃エッフェル塔の下で』は大変美しく、素晴らしい作品でした。彼との仕事というのは如何でしたか? そしてもしも印象的なエピソードなどがございましたら、教えていただけると嬉しいです。

NS 『あの頃エッフェル塔の下で』においては、私は共同執筆をしていないのですが、モスクワの場面での脚本に携わりました。アルノーとは『“男たちと共に”演技するレオ』でも一緒に仕事をしました。彼は私のとても良き友人で、私達はしばし自分達の映画や企画についてを語り合います。特に『“男たちと共に”演技するレオ』では、彼から多くのことを学びました。アルノーはとても几帳面な人です。そしてスクリーンの上での役者の動きをよく考慮して脚本を書くべきだということを、私に教えてくれた人でもありました。この経験というのは、今でも私にとても大きな影響を与えています。

──そして、ルイーズの母親役を演じられたジーナ・マッキーさんについてもお聞かせください。サーダ監督はデプレシャン監督の『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』の彼女の演技を見て、本作に起用なされたとのことでした。私は『ノッティングヒルの恋人』が大好きなのですが、デプレシャン監督のことばを借りるのであれば、彼女は私にとってもまた「夢」の存在でした。彼女との仕事は如何でしたか?

NS ジーナはとても私達に協力的で、そして思慮深い人でした。彼女が撮影現場にいると常に場が和んでいましたし、いつもアイデアを出してくれたのです。たとえ難しい場面の撮影であっても、彼女は私を信頼してくれていましたので、彼女との仕事というのはとても楽しかったです。

──最後になりますが、このインタヴューを通じて、サーダ監督は「若い人」について触れられていました。そして日本の観客の皆さんがどのようにこの作品をご覧になられるのかということを。よろしければ、日本の観客、特に私やルイーズのような若い世代の観客にメッセージやお伝えしたいことがございましたら是非お聞かせください。

NS はい、もちろんです。この物語を書き始めたのは4年ほど前のことで、ちょうどその頃私は別の作品で東京に来ていました。その時にはもう既にこの物語を書き始めていたのですが、私にとって重要だったのは若い人が主人公である、ということでした。若い人を主人公にしたかったのです。その理由は、今の若い人達というのは、やはり世界の状況を見ると、彼らにとって残されているのは不安の材料でしかないのではないか、自分達の将来はどうなるのだろう、どのような世界に生きてゆくのだろうという、本当に切りがないほどの不安が沢山ある中で、若い人達は生きているのだと思うのです。
 ですから、そのような彼ら達がこれから先どのような局面に出会うのかというのは未知なることです。例えば、昨年フランスでロック・コンサートの会場でテロ事件があり、若い人も沢山亡くなられました。ですからテロの対象というのは、もはや若い人も含まれてきている状況にあります。そのような人達が、これからの自分達がどういう風に生きてゆくのかということに対して、恐怖を味わっていない皆さんの心の中にも不安が存在していると思いますので、実際にルイーズが体験した恐怖を共有しながら、自分達の未来、そして自分達は今の世界をどのように見なければならないのか。そのことを考えるきっかけになってくれたら嬉しいなと思います。
 それから、お互いに愛し合うということです。人間同士、お互いを尊重し、愛し合うということが大切なのだということを、この映画を通じて感じていただけたらとても嬉しいです。

 一つ一つことばを選びながら、サーダ監督は丁寧に私の質問に答えてくれた。その瞳は大きく、眼差しはあたたかく、そして終始、今私が何についてを話し、何を伝えようとしているのかということを真剣に汲み取ろうとしてくれていた。「ウィ、ウィ」と頷きながら優しく微笑む時もあれば、時にその瞳から優しい光が消えることもあった。特にテロ事件の問題、そして現在の若い人達の不安については時間を掛けながら、ことばを紡ぐようにして、私の瞳をしっかりと見つめながら答えてくれたことがとても印象深い。
 最後に私が御礼の握手のために手を差し出すと、サーダ監督は優しく微笑み、とてもあたたかく大きな手で、私の想いに応じてくれた。その時の誠実な眼差しと包み込んでくれた手のぬくもりが、今でもずっと私の中に残り続けている。

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ニコラ・サーダ:Nicolas Saada

1965年、フランス・ブローニュ=ビヤンクール生まれ。87年にフランスの映画批評誌「カイエ・ドゥ・シネマ」のスタッフを経て、92年に仏独共同テレビ局Arte(アルテ)に入社し、93年~98年までに約50本のテレビ番組に携わる。99年の『砂の売人』(監督:ピエール・サルバドーリ)にて映画脚本を手掛け、その後脚本家として、アルノー・デプレシャンや、ゲラ・バブルアニらの監督作品を執筆。『スリープレス・ナイト』(2012/監督:フレデリック・ジャルダン)では共同制作を担う。短編映画『 Les Parallèles』(04)にて監督デヴュー。『ザ・スパイ 裏切りのミッション』(2009・日本未公開)が翌年のセザール賞最優秀デヴュー賞にノミネートされる。短編映画を数多く手掛け、『Aujourd’ hui』(2012)が、13年のニューヨーク映画祭に出品された。

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『パレス・ダウン』
原題:Taj Mahal
2015年/フランス/91分/フランス語・英語/DCP/2.40/ドルビー

作品解説
主演はラース・フォン・トリアー監督の『ニンフォマニアック』(14)で、色情狂のヒロインを体当たりで演じて話題となったステイシー・マーティン。本作ではテロ事件に巻き込まれ過酷な状況下に置かれた実在の少女を熱演。
公開直前の15年11月にフランス・パリ同時多発テロが起き、公開自粛も考えられたが、“テロへの警鐘を鳴らすため”と監督をはじめ製作陣は公開を決定し、大きな話題を呼んだ。
ルイーズは18歳。転勤が決まった両親とともに、ムンバイで2年間暮らすことになる。引越し先の新居が決まるまで、彼女と両親はタージマハル・ホテルの豪華なスイートルームに宿泊していた。ある晩、両親は夕食に出かけ、彼女は一人ホテルの部屋に残る。ホテルの廊下で聞き慣れない物音がして、彼女は即座にホテルがテロリストに襲撃されたことを知る。彼女と外の世界の唯一のつながりは携帯電話のみ。大混乱に陥ったムンバイの街中で必死に彼女を救出しようとする父親と連絡を取りつつ、スイーズは危険と向き合いながら、長い夜をたった一人で過ごさなければならなかった……。

キャスト
ルイーズ:ステイシー・マーティン
ルイーズ父:ルイ=ド・ドゥ・ランクザン
ルイーズ母:ジーナ・マッキー
ジョヴァンナ:アルヴァ・ロルヴァケル

スタッフ
監督:ニコラ・サーダ

配給:バップ
配給協力:プレイタイム

提供:日活

2015年 ヴェネチア国際映画祭 オリゾンティ部門 正式出品作品

公式ホームページ
「カリコレ2016」にて上映
7月29日(金) 16:00/8月2日(火) 13:00/8月13日(土) 10:00
「カリコレ2016」公式ホームページ

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき: Misaki Fujino

1992年、栃木県出身。
私にとって仏映画祭は、私の夢を叶え、そして夢の続きを歩ませてくれる映画祭でもありました。14歳のときアルノー・デプレシャン監督の映画に魅了され、その三年後の仏映画祭でデプレシャン監督にお逢いするという幸運に恵まれました。当時17歳の少女だった私をとても優しく包み込み、頬にキスをしてくださったことを忘れることはありません。またいつか逢えることを信じて、私はこれからも映画の夢を見続けたいと願っています。

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2016年7月22日金曜日

【ネタバレあり】映画『クリーピー 偽りの隣人』評text高橋雄太

「映画は恐怖する」


『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)は恐ろしい映画である。サイコ・スリラーというジャンルに分類できること。『岸辺の旅』(2015年)では死者をよみがえらせ、『CURE』(1997年)や『回路』(2000年)のような恐怖映画を撮ってきた黒沢清の監督作品であること。これらも本作の恐怖の理由である。だが、『クリーピー』の恐ろしさは、「恐怖映画」であることによるのではなく、「映画が恐怖する」ことによる。

元刑事で犯罪心理学者の高倉(西島秀俊)は、かつての同僚である野上(東出昌大)からの依頼で、6年前の家族失踪事件の調査を始める。事件への好奇心に駆られた高倉は、失踪事件で唯一残った早紀(川口春奈)に接触し、隣人だった男が鍵を握っていることを突き止める。また、高倉と妻の康子(竹内結子)は、引越し先で奇妙な隣人・西野(香川照之)と澪(藤野涼子)の親子と知り合い、戸惑いながらも付き合いを始める。だが、澪は高倉に告げる。「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です」。そして高倉夫妻の平穏な暮らしは脅かされていく。

以上のストーリーを私たちはスクリーンで鑑賞する。スクリーンという二次元の平面は、現実とは別の世界を覗き見ることのできる窓である。だが観客はその世界に触れることはできない。映画鑑賞により、見ることへの欲望は満すことができるが、触れることへの欲望は満たすことができない。本作はこうした映画の形式を意識させ、かつそれを侵犯しようとする。

高倉夫婦が暮らす家の中、カメラはパンを繰り返し、妻と夫を交互に映す。侵入者が夫婦を覗き見しているようだ。高倉と西野が歩く道路から距離を置き、彼らを追いかける横移動のシーンもある。侵入者や追跡者が監視するような視線。それは日常にひそむ恐怖と不安をあおるだけではない。見返されずに見ることができる、見る者優位のまなざしである。高倉が早紀との会談を行う大学の一室を思い出してもよい。ガラス張りで、外には大勢の人々がいる。だが早紀はガラスの向こう側にも、もちろんカメラにも目を向けることなく語る。「公開された密室劇」とでも言うべき状況で、彼女は一方通行の視線にさらされる。

このまなざしは観客の視線でもある。すなわち、こちらからは相手を見ることができ、かつ相手からは見られない。映画を見ることは、見る者と見られる者との権力関係に身を置くことである。この関係は、本作において「上から目線」=ハイアングルのショットとしても現れる。真相を探る高倉は、丘の上から西野の家や失踪事件の現場だった家を見下ろす。西野は高所から街を見渡して次のターゲットを探す。家の住人から見返されることはない。さらに冒頭、階段の踊り場に立った凶悪犯の男は、警官たちを見下ろしながら、高倉に「後ろを向け」と命令する。高倉はそれに従う。見る者が上に立って権力を握り、見られる者はその眼下にて服従する。西野が仕掛ける落とし穴のトラップも、権力関係を位置の上下関係に対応させた大掛かりな舞台装置であろう。

アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』(1960年)において、母とノーマン・ベイツの支配・被支配の関係は、丘の上に建つ家とその下のモーテルに象徴されていたように思う(死体を沈める沼さらに下に位置する)。『クリーピー』では、位置的な上下関係が、映画における視線のヒエラルキーを示す。私たちはカメラと同一化することで、彼らを見下ろし、監視することができる。

ただ、観客は見る権力を有しているが、映画の中の人や物に触れることは禁じられている。観客にとって映画は、文字通り「手の届かない存在」なのだ。しかし、本作の人々は観客の未達の欲望を代行してかなえてしまう。スクリーンが平面であることを確認するように、オープニングの取調室、高倉と西野が歩く住宅街の道路などは奥行きに乏しい。一方、西野の家は高倉宅の並びから奥まったところに位置し、西野は奥から手前に歩いてくる。平面のスクリーンに深さを加える3D的アクション。そして西野は康子の手を握り、高倉家の犬マックスをなでる。映画の中の存在に触れたいという観客の欲望を、西野はあっさりとかなえてしまうのだ。

高倉夫妻は西野宅の暗い通路を通り、西野親子と高倉夫妻は車でトンネルのような空間を走る。横からではなく縦(被写体にほぼ正対する方向)から捉えられたこれらのシーンは、物語上は高倉夫妻が危険に引き込まれることであり、同時にスクリーンという二次元に安住していた彼らが別の空間に導かれることでもある。スクリーンの中への侵入と触れること、それは映画において実現不可能なはずの欲望である。その禁忌を侵す西野は、単なる異常者を超えた、映画にとって恐怖の対象だ。事実、西野が隠していた死体は袋に密着する。死と接触とは一致するのだ。

アピチャッポン・ウィーラセタクンの『光りの墓』(2015年)では、見える世界と見えない世界とが同時にスクリーンに登場し、こちらとあちら、現在と過去が接続された。『クリーピー』では、西野が奥と手前とを行き来することが、こちらとあちら、日常と恐怖との接点になる。本作は、サイコ・スリラーというジャンルに依拠しつつ、映画という形式を示し、その限界に至る。『クリーピー』の恐怖とは映画自体にもたらされる恐怖である。

最後にその恐怖の行方について述べる。終盤、高倉は西野に促され、自動車を降りて画面の奥から手前に歩く。「これがお前の落とし穴だ」、そう告げて向き直り、画面の奥に向けて銃を放つことで、三次元から来た男・西野を葬る。西野を見下ろし、視線の権力を行使する。映画の空間が三次元から二次元に戻り、見る者という優位な地位を手に入れたとき、高倉は康子を抱きしめる。だが、恐怖は去っていないだろう。

夫に抱きしめられて叫ぶ妻。この不自然なラストは、触れられることへの嫌悪感を示しているのではないか。西野を殺すとき、高倉は奥からやってきた。高倉は西野に取って代わり、禁じられた三次元と接触への欲望を実現したのではないか。それは『CURE』において、役所広司演じる高部が間宮(萩原聖人)の後を継いだことにも対応する、恐怖の継承とも思える。事実、西野の死の直後、澪はマックスとともに画面の奥へ、我々が見ることのできないスクリーンの向こう側へ走り去る。あちら側への道は閉じられていない。スクリーンという窓を前にし、映画が上映されるとき、その窓の裂け目から再び訪問者が訪れるかもしれない。恐怖とともに。

ご近所付き合いは遠慮したい度 :★★★★★
(text:高橋雄太)





『クリ—ピー 偽りの隣人』
2016年/130分/日本

作品解説
元刑事の犯罪心理学者・高倉は、刑事時代の同僚である野上から、6年前に起きた一家失踪事件の分析を依頼され、唯一の生き残りである長女の記憶を探るが真相にたどり着けずにいた。そんな折、新居に引っ越した高倉と妻の康子は、隣人の西野一家にどこか違和感を抱いていた。ある日、高倉夫妻の家に西野の娘・澪が駆け込んできて、実は西野が父親ではなく全くの他人であるという驚くべき事実を打ち明ける。

キャスト
高倉:西島 秀俊
康子:竹内 結子
早紀:川口 春奈
野上:東出 昌大
西野:香川 照之

スタッフ
監督:黒沢 清
原作:前川 裕「クリ―ピー」
脚本:黒沢 清、池田 千尋
製作総指揮:大角 正

配給

松竹、アスミック・エース

公式サイト


劇場情報
渋谷・シネパレス、新宿ピカデリー他全国公開中

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi
1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。最近は映画とともに『機動戦士ガンダムUC RE:0096』や『ふしぎの海のナディア』、『装甲騎兵ボトムズ』などのアニメも見ています。

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2016年7月21日木曜日

【特別寄稿】映画『二ツ星の料理人』評text村松 健太郎

「ブラッドリー・クーパー 儚さ(はかなさ)・脆さ(もろさ)の男 」


待望の新作『二ツ星の料理人』

パリの一流フレンチレストランの元シェフ、アダム。才能にあふれ、天才的な技能を誇る彼であったものの、天才ゆえの傲慢さから、酒・女・金で問題を起こし続け、-恩人の顔もつぶして姿を消した。

それから3年、死んだともうわさされていた中、ゼロからやり直したアダムはロンドンに姿を現し、三ツ星レストランを目指すと宣言する。しかし、3年前の問題は今も尾を引き、再会した人間たちともいざこざが絶えない。抑えきれない天才の傲慢さが新たに作り始めた人間関係もギクシャク。さらに3年の時の流れの中で最新のグルメ事情も変わり、アダムも戸惑いも隠せない。

そんな状況だから、新店オープンも混乱の中で、失敗の連続に終わる。かつてなら、ここでキレて終わってしまうアダムだったが、踏ん張りを見せて何とか周りの意見も聞き体制を整えなおす。そのときミシュランの調査員らしき人物が来訪。大一番を迎える。

脆く儚いアダムの復活劇。反発しながらも徐々に惹かれあうシエナ・ミエラー演じるシングルマザーの副シェフとの恋模様。そして思わずお腹が鳴ってしまいそうな素敵な料理とその調理シーンの数々、目にも耳にも刺激的だ。

この脆さ・儚さと傲慢さを併せ持つ天才肌のシェフ・アダムを演じるのがブラッドリー・クーパーだ。

本国アメリカ、そして日本でも大ブレイクを果たした『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』。それが2009年の作品だから、そこからまだわずか7年しか経っていないことになる。

しかし、この7年で『世界にひとつのプレイブック』『アメリカン・ハッスル』『アメリカン・スナイパー』での3年連続アカデミー賞ノミネートを筆頭に、作品のヒット・批評両面でほぼ取りこぼしのない状態だ。2014年の大ヒットアメコミ映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では傭兵アライグマのロケット役で声の出演もしている。実際には180センチを超す長身の彼が小さなアライグマというもの面白い。



『二ツ星の料理人』 (C)2015 The Weinstein Company.

脆さ(もろさ)・儚さ(はかなさ)≒(は)弱さ(よわさではない)?

現代の“重い”“悲愴”“複雑”をエンターテイメントへ。

ブラッドリー・クーパーは『ハングオーバー!』シリーズでは比較的冷静な立ち位置にいるが、この『二ツ星のレストラン』そして、『世界にひとつのプレイブック』『アメリカン・スナイパー』などなど、憂いをたたえた瞳でメンタル面での難を抱える男を演じている。

『二ツ星の料理人』では自身にも他人にも100%を求めるあまりに上手く立ち回れない天才。『世界にひとつのプレイブック』では妻の浮気を機に躁うつ病になり精神病院を退院したばかりの男。『アメリカン・スナイパー』では周りの人間がその悲惨さから去っていく中、取り憑かれたように戦場に向かい続ける男。

どれも、一歩間違えれば“ただ傷ついた男”という姿に見えてしまいかねない。しかし、ブラッドリー・クーパーはこのキャラクター達に独特の魅力・チャーミングさを与え、“弱く”見える部分を“脆さ”“儚さ”に転化・昇華させることができる稀有な存在だ。

結果として映画の物語自体が重くなりがちなときに彼がやってくると、どこか軽やかさを感じることができる。

悲愴なテーマ・重いテーマ・複雑な問題を扱った映画はいくらでも物語に悲愴感を与えることができるし、どこまでも暗鬱と重い話にできる。それは確かに真摯な見せ方なのかもしれないが、やはり映画はエンターテイメントでもあるので、どこかは軽さや見やすさ、話への入り易さが欲しくなるのが本音だ。

そんな中、ブラッドリー・クーパーは元々のテーマの部分を軽んじることなく、我々の前に間口を広げ、敷居を下げた形で作品を見せてくれる。

少し大きな話になるが、現代は過重なストレスに人々が飲み込まれている時代である。そうなると映画に限らず、多くの創作物にもそれが反映されていく。

人間、身につまされる事柄、殊にネガティブなことにはそこにあることは認めていても、どこかで触れてほしくないという気持ちがでるもので、どうしても目をそらしがちになる。

しかし、夢物語ばかりというわけにいかない。そんな時にバランス感覚に優れた表現者が必要なる。

ブラッドリー・クーパーはその一翼を担っている人物と言っていいのではないだろうか?

彼の登場は時代が求めていたものなのかもしれない。人は儚く・脆い者ではあるが、決して弱い者ではないことを彼はそっと教えてくれている。


(text:村松健太郎)





『二ツ星の料理人』
2015年/101分/アメリカ

作品解説
『世界にひとつのプレイブック』『アメリカン・ハッスル』、そして『アメリカン・スナイパー』と3年連続でアカデミー賞にノミネートされたブラッドリー・クーパーが、問題を抱えた天才シェフを演じた主演作。一流の腕を持ちながら、トラブルを起こし、すべてを失った料理人アダム・ジョーンズ。パリの二ツ星レストランから姿を消して3年後、アダムは料理人としての再起を図るため、ロンドンの友人・トニーのレストランに「この店を世界一のレストランにしてやる」と、自分を雇い入れる約束を取り付ける。

キャスト
アダム・ジョーンズ:ブラッドリー・クーパー
エレーヌ:シエナ・ミラー
ミシェル:オマール・シー
トニー:ダニエル・ブリュール
マックス:リッカルド・スカマルチョ

スタッフ
監督:ジョン・ウェルズ
製作:ステイシー・シェア、アーウィン・ストフ、ジョン・ウェルズ
共同製作:キャロライン・ヒューイット

劇場情報
新宿ピカデリーほか全国公開中

公式ホームページ
http://futatsuboshi-chef.jp

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【執筆者プロフィール】

村松 健太郎 Kentaro Muramatsu

脳梗塞との格闘も10年目に入った映画文筆屋。横浜出身。02年ニューシネマワークショップ(NCW)にて映画ビジネスを学び、同年よりチネチッタ㈱に入社し翌春より06年まで番組編成部門のアシスタント。07年初頭から11年までにTOHOシネマズ㈱に勤務。12年日本アカデミー協会民間会員・第4回沖縄国際映画祭民間審査員。15年東京国際映画祭WOWOW賞審査員。現在NCW配給部にて同制作部作品の配給・宣伝、イベント運営に携わる一方でレビュー、コラム等を執筆。

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2016年7月17日日曜日

【映画イベント紹介】「ムビハイ16」text今泉 健

「ムビハイ16」


今年もまたこの季節がやってきました。16回目です。ここ3年お手伝いしております。

新宿K's cinemaにて、7月16日(土)~22日(金)までの7日間、NCW(ニューシネマワークショップ)のクエリエイターコースの実習作品からOBの監督作品まで、計40本の作品が上映されます。

精選されていますが、玉石混交ともいえる楽しさがあります。

私のイチ推しは7月18日(月・祝)19:00~の野本梢監督特集。6作品上映されます。

中でも『青三十二才』は小田原映画祭早雲賞受賞、『私は渦の底から』は昨年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭でグランプリを受賞となっています。

また1週間ロードショーとして2作品が連日上映されます。

『彦とベガ』と『野生のなまはげ』はそれぞれ連日13:00~と15:00~の上映です。

『彦とベガ』(谷口未央監督)は伊参スタジオ映画祭シナリオ大賞(中編の部)受賞。『野生のなまはげ』は横浜、静岡、大阪、福岡等で上映が決定しています。

新井健市監督は『おっさんスケボー』で2013下町コメディ映画祭の短編コンペティション準グランプリを受賞した監督です。

5分弱の作品でネット上で観られますので是非ご覧ください。

ドラマとコメディーと実に対照的な2作品です。

「ムビハイ16」スケジュール


(text:今泉健)



「ムビハイ16」
2016年、20 年目を迎えたニューシネマワークショップ。その[つくる]コースの成果を披露する恒例の映画祭イベント「ムビハイ」も16回目。映画クリエイターコースの実習作品から制作部&OBの監督作品まで、今年は40本を精選しました。この「ムビハイ」から、日本映画の明日がきっと見えてくるはずです!


映画学校・ニューシネマワークショップとは
1997年、東京都新宿区早稲田町にて、新しい映画人養成機関として開設。仕事等で忙しい社会人や学生も無理なく通えるよう、カリキュラムが組まれています。映画監督・クリエイター等を養成する「映画クリエイターコース」(つくる)、配給・宣伝等映画業界への就職・転職のための「映画ディストリ ビューターコース」(みせる)の2つでスタート。その後、映画俳優養成のための「映画アクターズワークショップ」を加え、2016年に20年目を迎えました。従来の映画学校とは全く異なる映画学校(スクール)として様々な実績を重ね、これまでに数多くの終了者(卒業生)が映画業界に入り、今も第一線で活躍を続けています。(公式ホームページより抜粋)

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

オールタイムベストは「ブルース・ブラザーズ」(1980 ジョンランディス)。
昨年の映画ベストは「激戦 ハート・オブ・ファイト」(ダンテ・ラム)、「海賊じいちゃんの贈りもの」(ガイ・ジェンキン)と「アリスのままで」(リチャード・グラッツアー)。

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【イベントのご紹介】ドキュメンタリーマガジンneoneo7号刊行記念イベント

特集上映「よみがえれ土本典昭」


没後8年の日本ドキュメンタリー界の巨匠・土本典昭。今夏、土本典昭監督の特集が組まれたドキュメンタリーマガジンneoneoの7号が刊行されました。
7月18日・19日の2日間、渋谷UPLINKにて刊行記念イベントが行われます。
貴重な上映機会ですので、是非足を運んでみてください!
 
(本体1,000円)


【イベント概要】

〈日時〉※開場時間は上映の10分前
◉7/18(月祝)
・18:00〜『みなまた日記』トーク付き上映
 ゲスト:杉田俊介(評論家)、金子遊(neoneo編集室)
・21:00〜『みなまた日記』上映のみ

※7/18の18:00〜のトークイベント終了後、近隣で打ち上げ(懇親会)あり

◉7/19(火)
・19:00〜『映画は生きものの記録である』トーク付き上映
 ゲスト:伏屋博雄(『映画は生きものの記録である』プロデューサー)、
     菊井崇史(neoneo編集室)、佐藤寛朗(neoneo編集室)
・21:10〜『映画は生きものの記録である』上映のみ

〈会場〉
渋谷UPLINK :FACTORY(1F)
会場アクセス☞ http://www.uplink.co.jp/info/map/

〈料金〉
[トーク付き]一般¥1,500 / アップリンク会員、neoneo7号持参か購入で¥1,200
[映画のみ]一般¥1,200 / アップリンク会員、neoneo7号持参か購入で¥1,000

※上映会場にてドキュメンタリーマガジン「neoneo」新刊7号とバックナンバーの販売あり

〈UPLINK・イベントwebページ〉ご予約はこちらから☟


〈上映作品〉

『みなまた日記』(監督:土本 典昭、2004年/日本/100分)

1990年代「水俣病はいまだ終わらず」という荷の重い課題に、答えを見つけることが出来なかった土本典昭は、水俣 病で死んだ人々の遺影を集めるかたわら、水俣の四季の美しさ、人々の祭り、喜び、祈りの姿などに心惹かれるまま にカメラを向けた。それは水俣と、そして自身の蘇りを探す旅でもあった。撮影の10年後、土本は仮編集のまま放置 されていたビデオを見る。そこに「風化に抗して動く水俣のスピリット(魂)」を再発見する。水俣の海・魚・人々の甦り の声にひたすら耳澄まし、自らの“よみがえりの記録”を映像日記としてとどめたパーソナル・ドキュメンタリー。


『映画は生きものの記録である』(監督:藤原敏史、2006年/日本/113分)

日本が世界に誇るドキュメンタリー映画の巨匠、土本典昭。本作はその映画と、見守り続けてきた「水俣」への思い を余すことなく伝える。海にたたずむ、ドキュメンタリー映画作家・土本典昭の姿。懐かしさ、寂しさ、悲しさ、嬉しさ さまざまな思いがあふれる。土本典昭の姿と彼の「水俣」への思いを余すことなく伝えたドキュメンタリー。

『映画は生きものの記録である』予告編

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about neoneo

日本で唯一のドキュメンタリーカルチャーマガジン。
雑誌最新刊7号では、原一男監督のインタビューで挑戦的な土本観も読むことができます。もう一つの特集、ノンフィクション×ドキュメンタリー10本勝負も硬軟織り交ぜた多彩な文章が楽しめます。webサイトでもインタビューやレビューを多数掲載。

website

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2016年7月14日木曜日

映画『若者よ』評textミ・ナミ

「〈世界〉との格闘前夜」


 鈴木太一監督の新作短編『若者よ』は、昼間は会社員として働き、夜はデリヘル嬢として客を取る桐島愛子と、彼女をめぐる3人の若者による青春悲喜劇である。愛子の職場の後輩、勇太。客として愛子と再会した中学校の同級生、健一。デリヘルの送迎車のドライバー、昇。3人3様に、愛子への思いを募らせている。愛子には陽介という彼氏がおり、近頃めっきり冷えてしまった愛子との関係を何とか修復させようと焦っている。


鈴木監督のデビュー作『くそガキの告白』(以下『くそガキ~』)では、主人公・大輔は、映画監督を夢見ているものの、もてあました自我のせいで創作も人間関係もままならないどん詰まりの「くそガキ」だったが、大輔以上に闇を抱える女優志望の桃子への片思いによって、凝り固まった自分を壊し、脱出していくある種の爽快感を持った映画だった。短編である本作は単純に比較することは出来ないにしろ、大輔が(そんなものありもしないとどこかで自覚しながらも)叫び続ける〈世界観〉というエッセンスを受け継ぎ描かれるのは、自分の持つ〈世界〉と、相手の〈世界〉との格闘だ。

 人当たりの良さそうな愛子は、男性が喜びそうな言動・行動を取れてしまう女性だ(こうしたキャラ設定も、ある意味、男性側の願望で都合よく解釈されがちだ)。だが、それを自覚的に演じてみせるほどには、すさんでいない。ヘルスのサービスを受けた別れ際、健一が高揚して「あなたが僕の世界でした」と叫ぶと、愛子は微笑みとともに「お前も世界だ」と返すが、口をついて出たその言葉の空虚さに彼女は耐えられない。

 彼氏の陽介と昇が先輩後輩の関係ではあるが、登場人物の男性たちはほぼ面識がなく、愛子だけでつながっている。陽介と、会社の後輩の勇太は愛子の夜の顔を知らず、同級生の健一は会社員としての愛子を知らない。昇は陽介の友人だが、愛子は風俗で働いていることを陽介に隠していて、送迎車を運転する昇だけが、その事実を知っている。昇は3人と違った目つきで、愛子に視線を送っている。その、一見感情のなさそうな目だけが、愛子の胸のうちを見透かしているようだ。愛子の「〈世界〉って何?」に答えてやれるのは昇しかいないのではないか。

 だが昇は、送迎車の外へ彼女を連れ出せない。まるで大輔が、手持ちカメラ越しでしか桃子と通じられなかったように、昇が真っ向からぶつかることのできる愛子は、バックミラーの中にしかいない。街なかで見初めた女性を売春窟に叩き落とし、彼女が客に抱かれるさまをマジックミラー越しにみつめ続けるチンピラの歪な純愛を描いた、キム・ギドクの初期の傑作『悪い男』の主人公が、頭をよぎる。陽介も勇太も健一も昇も、愛子の姿は虚像でしかない。

 相互不理解を抱えた若者たちの間に横たわる溝は残酷なくらい深く、特にラストは、男たちが愛子の〈世界〉を完全に拒絶しているようだ。だが、互いが抱えている面倒くさい〈世界〉と格闘し、相手との関係を強引に結んでいく予兆もある。だが『くそガキ~』の大輔が荒々しいやり方で結局桃子を救い出したように、突如〈世界〉がぶち破られる展開も予感させる。若者たちの、〈世界〉との格闘が始まる。

昇が車内で聞いているラジオ番組の硬派度:★★★★★

(text:ミ・ナミ)




『若者よ』
2016年/27分/日本

作品解説
桐島愛子24歳。昼は平凡なOL、夜は風俗店で勤務。どこか儚げで、どこか可愛らしい。
そんな愛子と愛子を巡る4人の男たちの物語。
ある男は言う「風俗は世界を変える」と。
ある男は言う「あなたは私の世界でした」と。
希望より絶望の大きなこの世界で生きる若者たちの純情喜劇。

キャスト
桐島 愛子:新井 郁
村上 昇:日下部 一郎
本城 陽介:赤染 萌
内田 勇太:生沼 勇
林 健一:炭田 洋輔
風俗嬢:小畑 はづき、柴田 千紘

スタッフ
監督・脚本・編集:鈴木 太一
原案:田中 佑和
撮影・照明:上川 雄介
音楽:34423
録音:遠藤 耕介
助監督:緒川 尊


劇場情報
4/16 〈「青春群青色の夏」オールナイト〉@横浜 シネマノヴェチェント
(24:30~『若者よ』、上映後に鈴木監督らゲストによるトークあり)
http://cinema1900.wix.com/home#!blank-3/jednn

4/16〜4/22 〈DROP CINEMA FESTIVAL vol.27〉@新宿 K's cinema
(4/20 21:00〜『若者よ』上映)
http://www.ks-cinema.com/movie/drop27/

5/5〜5/8 〈ヨーロッパ企画presentsハイタウン2016〉@京都 元・立誠小学校
(5/6、5/8両日16:15〜『若者よ』上映)
http://www.europe-kikaku.com/projects/hi-town2016/

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【執筆者プロフィール】

ミ・ナミ:Mi Nami

架空のスナック〈ミナミの小部屋〉店主にして映画ライター、ときどき映写係。
「ことばの映画館」冊子では主に韓国映画を担当。
『韓国映画で学ぶ韓国の社会と歴史』(キネマ旬報社)が発売中。

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2016年7月11日月曜日

フランス映画祭2016〜映画『エヴォリューション(仮)』Q&A レポート

ルシール・アザリロヴィック監督へのインタビューのお知らせと
フランス映画祭2016での上映後 Q&A のご紹介


この度「ことばの映画館」はフランス映画祭2016のために来日されたルシール・アザリロヴィック監督にインタビューを行いました。フランス映画祭2016で上映された新作『エヴォリューション(仮)』の公開予定である11月にあわせてインタビュー記事を掲載します。

photo by Masataka Miyamoto


今回は、インタビュー記事の掲載に先駆けて、フランス映画祭2016でのルシール監督のQ&Aをご紹介いたします。
(6月27日(月)、有楽町朝日ホールにて開催されたフランス映画祭2016でのジャパンプレミア上映後、ルシール・アザリロヴィック監督の舞台挨拶で行われた観客との質疑応答)

ルシール監督:『エヴォリューション(仮)』は『エコール』(2004)より前から構想があったので、ずいぶんと長いあいだ企画をあたためていました。一番最初にあったイメージは病院と少年、そして少年と母親の関係性を描くことです。『エヴォリューション(仮)』があったからこそ『エコール』があったとも言えます。また、デジタルで撮影した映画ですが、テクスチャー(触覚)にこだわり、あまり鮮明には撮りたくなかった。衣装なども"性的"ではない官能性を意識しています。

観客A:この作品が直接影響を受けている作品はありますでしょうか?

ルシール監督:特に直接影響を受けた映画はありませんが、太陽が燦々と照っている田舎の村で怖いことが起こるという話は『ザ・チャイルド』(1976年に制作されたスペインのホラー映画)、あとはデヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』の影響はあるかもしれません。また、『エヴォリューション(仮)』は言葉の映画というよりはシュルレアリスティックな無意識を描いているので、ヤン・シュヴァンクマイエルの影響なども挙げられるかもしれません。

観客B:理屈ではなく、感じる映画だと思いました。

ルシール監督:たしかにそのとおりです。もし理屈があるとすれば、それはあくまで抽象的な意味であって、"夢"の理屈で構築されている作品です。私はこの映画が、感覚的、有機的、精神的な映画であって欲しいと思います。

観客C:これまでのルシール監督の作品(『ミミ』や『エコール』)が一貫して子供の視線から描かれている理由を教えてください。

ルシール監督:10歳から15歳くらいの子供は感受性が発達していて創造力が豊かです。まだ大人に従わなければならない時期だけれども、何か内に秘めた強い感情を持っている。私はそういう子供の気持ちというのを表現したかったのです。

質疑応答後、ルシール監督は、作中に登場する赤いヒトデをモチーフにしたブローチを胸に、チャーミングな笑顔で一礼すると大きな拍手とともに会場を後にしました。

© LES FILMS DU WORSO • NOODLES PRODUCTION • VOLCANO FILMS • EVO FILMS
A.I.E. • SCOPE PICTURES • LEFT FIELD VENTURES / DEPOT LEGAL 2015

ことばの映画館によるルシール監督のインタビュー記事、『エヴォリューション(仮)』の劇場公開をおたのしみに!





映画『エヴォリューション(仮)』
2015年/フランス、スペイン、ベルギー/フランス語/81分/DCP/2.35/5.1ch

『エコール』の監督が贈る、最も美しい“悪夢”。
少年と女性しかいない、人里離れた島に母親と暮らす10歳の二コラ。その島ではすべての少年が奇妙な医療行為の対象となっている。「なにかがおかしい」と異変に気付き始めた二コラは、夜半に出かける母親の後をつける。そこで母親がほかの女性たちと海辺でする「ある行為」を目撃し、秘密を探ろうとしたのが悪夢の始まりだった。“エヴォリューション(進化)”とは何なのか…?

© LES FILMS DU WORSO • NOODLES PRODUCTION • VOLCANO FILMS • EVO FILMS
A.I.E. • SCOPE PICTURES • LEFT FIELD VENTURES / DEPOT LEGAL 2015

ギャスパー・ノエの公私にわたるパートナーであり、森で暮らす少女たちを描いた『エコール』のルシール・アザリロヴィック監督が贈る、最も美しい“悪夢”。映画祭で上映されるや否や「初期クローネンバーグを思わせる!」「ルイス・キャロル、グリム兄弟、アンデルセンの死体を掘り起こした」等大きな反響を巻き起こした。

監督:ルシール・アザリロヴィック
出演:マックス・ブラバン、ロクサーヌ・デュラン、ジュリー=マリー・パルマンティエ
配給:アップリンク

2015年 トロント国際映画祭 正式出品
2015年 サン・セバスチャン国際映画祭 審査員特別賞・最優秀撮影賞受賞
2015年 ストックホルム国際映画祭 最優秀撮影賞
2015年 ナント・ユートピア国際SF映画祭 最優秀撮影賞

2016年11月 渋谷アップリンク、新宿シネマカリテほか全国順次公開