2016年10月2日日曜日

映画『イレブン・ミニッツ』評text高橋 雄太

「世界タイムライン仮説」


タイムラインとはTwitterなどのSNSにおいて投稿が時系列に沿って流れていく画面である。世界はそのタイムラインで構成されている。これが映画『イレブン・ミニッツ』から得られる仮説である。

本作はいわゆる群像劇である。現代の都会に生きる多くの人々の午後5時から5時11分までが描かれる。ホテルの一室で会談する、映画関係者らしき男性と俳優の女性。彼女を探す夫。ホットドッグを売る男性とその息子。犬の散歩をする女性。救急隊員。犯罪に手を染めようとする少年。老画家。他にも多くの人物が登場する。ほとんどつながりがないように思える彼らの時間は、共通の出来事に収束していく。飛行機と画面に映らない不思議な物体の目撃。そして突如訪れる思いがけぬ事件である。

「何も変えることはできない」。作中に登場する謎の男が告げるように、運命は変えられず、人は時の流れ=タイムラインには逆らえない。『イレブン・ミニッツ』のイレブン、11が9.11や3.11の象徴、悲劇から逃れられないことを示していると深読みすることも可能だ。だがここでは、前述のようにこの映画の「タイムライン」を、単なる時の流れというより、SNSにおける情報フローと考えることとする。

多くの映画において、登場人物は感情を持った人間として描写され、観客は彼らのドラマに入り込み、共感する。一方『イレブン・ミニッツ』においては、人間性の不明な人たちが登場し、観客は彼らに「共感」するのではなく、彼らの体験を「共有」する。本作の登場人物の一部を上に列挙したが、私は彼らの名前を全く記憶していない。単に覚えていないのか、そもそも作中で名前が登場しなかったのか。それすら記憶にない(公式サイトに掲載されていないため、多くの人の名前は登場していないのだろう)。彼らへの興味は、名前の有無が気にならない程度でしかないのだ。背景も人間性も不明な人々が同じ場所、同じ時間に居合わせ、その11分間の出来事がただ流れていく。

私たちがTwitterやFacebook、特に前者を開いたとき目にするタイムラインは、これと似ているのではないだろうか。会ったことのある人もない人も含めた不特定多数の人たちが投稿する情報の洪水。例えば紅白歌合戦のようなテレビ番組、雨上がりに多くの人が目撃する虹、スポーツなどのイベントでは、複数の人が同じ出来事について情報をアップする。そうした同時性と複数性を持った場がタイムラインだ。もはや古い言い方だが、『イレブン・ミニッツ』は見知らぬ人たちによる多数の「〜なう」が流れるタイムラインである。

スマートフォンによる自撮り、監視カメラの映像、ハイアングル、ローアングル、犬視点のショット、スローモーション、SF映画を思わせる無機質で単色の多い映像。これらは美しい画面を作り上げるのだが、その作為性、不自然さを誇示してもいる。そのことにより、現代においては常に誰かが見ていることを我々に告げている。この「誰か」とはビッグブラザー的な絶対の監視者というより、スマホを手にした私たち自身であろう。局在した一つの目ではなく、分散化した複数の目。それがタイムラインとしての世界を生み出す。

分散した目が世界を覆い尽くすとき、全ては映像として表象され、タイムラインというシステムの中に取り込まれてしまうのだろうか。システムに対抗するように、本作には表象不可能な一点が登場する(矛盾した言い方だ)。少年やホテルの男女が目撃談を語る不思議な物体。故障で生じたらしいディスプレイ内の一点。画家が意図に反して描いてしまった紙の上の黒点。さまざまな形をとる謎の点である。タイムライン映画『イレブン・ミニッツ』において正体が明かされぬままの一点は、システムに取り込まれない可能性があること、世界が表象し尽くされないことを示すとも思える。

しかし、そう単純な話でもない。紙やディスプレイ上での一点が現実世界でUFO的な物体として目撃されることは、表象の世界(絵や画面)が現実と同等であることを意味するのではないだろうか。また、ディスプレイの故障はデバイス固有のエラーであり、絵の具の落下は絵画だからこそ起こる誤りである。要するに、表象不可能であることを示す点自体は、表象システム内にしか存在しえない。また、他のエラー、例えば文字化け、リンク切れなどが発生すれば、その情報は閲覧できず、無視されるであろう。つまり、表象されないことは存在しないことと同じとも言える。謎の一点は、タイムライン・システムに抗するものであり、かつそのシステムの強力さを示す両義的な存在と考えられるのだ。

タイムラインとしての世界が構築された。ここで「現代社会におけるコミュニケーションの不全」という、言い古された結論を述べるつもりはない。ネットの普及でリアルにおける人間関係が希薄になったのか検証することは、私の手にあまる。ここでは平凡であるが、タイムラインによって、従来では知ることのなかった情報が伝達されることを指摘しておこう。

この映画を見ること、そしてSNSを開くことにより、会うこともない、名前も知らない人々の体験を共有することになる。その共有は、劇中時間のように11分、上映時間の81分、または一瞬かもしれない。『イレブン・ミニッツ』は、ストーリーに入り込み「共感」するのではなく、流れ行く断片を「共有」するという、映画の可能性を示したのだ。その可能性を肯定して、現実でも家族や友人との関係とは別の新たなコミュニケーションが登場したとは思えないだろうか。つまり、コミュニケーションは減退したのではなく、むしろ加算されたのだと。

事実、この文章もタイムラインを流れ、ある人は無視し、ある人は閲覧し、束の間の時間を共有するだろう。ディスプレイのドット落ちの一点も含めた画面で見るのかもしれない。タイムライン、それが現代の世界なのだ。

Twitter度:★★★★★
(text:高橋雄太)





『イレブン・ミニッツ』
2015年/81分/ポーランド、アイルランド

作品解説
『アンナと過ごした4日間』『エッセンシャル・キリング』『ザ・シャウト さまよえる幻響』などで知られ、カンヌ、ベルリン、ベネチアの世界3大映画祭で受賞歴のあるポーランドの鬼才イエジー・スコリモフスキ監督が、大都会に暮らす人々の午後5時から午後5時11分までの11分間に起こる様々なドラマをモザイク状に構成した群像劇。女好きの映画監督、嫉妬深い夫、刑務所を出たばかりのホットドッグ屋、強盗をしくじった少年といったいわくありげな人物と、一匹の犬を中心に描かれるサスペンスで、多種多様な視点を駆使した映像や都市空間にあふれる音などによって、人々の悲哀に満ちた人生の陰影を表現。人々のありふれた日常が、わずか11分で変貌していく様を描き出した。

キャスト
映画監督:リチャード・ドーマー
夫:ヴォイチェフ・メツファルドフスキ
妻:パウリナ・ハプコ
ホットドッグ屋の主人:アンジェイ・ヒラ
バイク便の男:ダヴィド・オグロドニク

スタッフ
監督・脚本:イエジー・スコリモフスキ
撮影監督:ミコワイ・ウェブコスキPSC
音楽:パヴェウ・ムィキェティン
編集:アグニェシュカ・グリンスカPSM
劇場情報
ヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷アップリンクほかにて全国公開中
11/5~横浜シネマ・ジャック&ベティにて公開

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。ロンドンに行ってプレミアリーグ、トッテナムvsサンダーランドを生で観戦しました。ハイレベルなプレーと盛り上がるサポーターたちを間近で観るという最高の体験をしてきました。


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