2016年10月21日金曜日

映画『ハドソン川の奇跡』text高橋 雄太

「映画シミュレーション仮説」


過去をどのように振り返るべきか。過去を生き直すことはできるのか。クリント・イーストウッドのノンフィクション映画は近過去の出来事を手段として、そう問いかける。

本作は2009年1月15日に起きたUSエアウェイズ1549便の不時着事故とその後の経過を映画化したものである。機長チェスリー・サレンバーガー(通称サリー、演じるのはトム・ハンクス)は、バードストライクによって推力を失った機体をハドソン川に不時着させる。一人の犠牲者も出さない「奇跡」を起こしたサリーは英雄になる。しかし、国家運輸安全委員会は事故の調査を開始し、サリーと副機長ジェフリー・スカイルズ(アーロン・エッカート)の判断に疑問を呈する。不時着という危険を冒さず、空港に引き返すことも可能だったのではというのだ。サリーは事故の悪夢と厳しい追及に悩まされる。

サリーの悪夢の中では、航空機がニューヨーク市街に墜落する。言うまでもなく、この墜落は2001年9月11日のテロの記憶を示唆している。そこに「奇跡」が起き、人々は歓喜する。劇中の「飛行機でいい話は久しぶりだ」とのセリフに表れているように、悪しき記憶に幸福な記憶を上書きすることができる。

ただ、サリーにとって記憶は重荷でもある。彼は事故を振り返る。「自分は正しかったのか」、「墜落していたかもしれない」、「あの時こうすればよかったのでは」。不安と後悔の中、あり得たかもしれない過去を想像する。だが時間が戻ることはない。事故の回想シーンは何度も反復され、その度にサリーらの声、乗客の叫び、客室乗務員の「Brace! Brace! Brace! Heads down! Stay down!」の警告、爆音と警報などの多様な音が機内に響き渡る。しかし、臨場感あふれる音と映像の繰り返しに反して、生は一回限りであり、やり直しは不可能である。事故の当事者の彼をして、記憶をたどることだけが可能なのだ。

事故を振り返るのはサリーだけではない。記憶に代わるもう一つの手段はシミュレーションだ。フライトシミュレータを用いた事故のシミュレーションにより、空港への着陸は可能、つまり不時着というサリーの判断は危険なものという結果が得られる。それに対しサリーは人的要因の重要さを指摘し、自らの正しさを主張する。人的要因としてバードストライク後に待機時間を設定したシミュレーションでは、空港への着陸は不可能、つまりサリーの判断の正しさが裏付けられる。

シミュレータの中は静寂に包まれており、操縦者の「鳥だ!」の叫びだけが突出して大きく聞こえる。音に満ちた事故の回想と静寂の中のシミュレーション。結果も雰囲気もシミュレーションと事故とでは違う。すなわち、シミュレーションが過去を完全に再現することなどできるはずもない。当事者であるサリーだけが記憶を反芻することができるのだ。

そして「ハドソン川の奇跡」は幸福な出来事として私たちの記憶に刻まれる。だが、私たちが見たものも、過去そのものではなくやはりシミュレーションであろう。

シミュレータは白い箱型の装置であり、内部にはニューヨークの映像が映し出される。静かで、パラメータの入力に応じて映像を出力する箱、それがシミュレータである。このシミュレータは映画館と似ていないだろうか。前述のようにシミュレータは静寂に包まれており、内部にはスクリーンに向き合う座席が設けられている。映画館は原則的には静かで、映像と向き合うための座席が配置された空間である(さらに偶然だが日本語では映画館を「箱」と呼ぶことがある)。

事故のシミュレーションでは、パラメータ(おそらく機体の座標、速度、方位など)を入力する。仮想のバードストライクが発生し、操縦者が台本に書かれたセリフのように「鳥だ!」と叫び、決められた空港に向けてシミュレータを操作する。「人的要因」として待機時間を追加後、同じ操作が行われる。パラメータ次第で、同じ出来事を異なるものとして反復することができる。だが、そのシミュレーションが当事者の経験をそっくり再現できなかったことは前述の通りだ。

過去の反復ではあるが過去そのものではない。それがシミュレーションであり、映画である。『ハドソン川の奇跡』では、機長役にトム・ハンクス、台詞、カメラアングル、ショット数、ショットの持続時間などの「パラメータ」を設定する。映画館という「シミュレータ」に入力することで、サリーの物語をシミュレートする映像と音が出力され、上映を始めれば何度でも反復することができる。パラメータが変われば(例えばキャストの一人でも変更すれば)、この物語を別物として再現することもできるだろう。映画は過去そのものの再現ではなく、観客に過去の一つの例を体験させるシミュレーションなのだ。

近年のクリント・イーストウッドの監督作を列挙してみると、『父親たちの星条旗』(2006年)、『チェンジリング』(2008年)、『インビクタス/負けざる者たち』(2009年)、『J・エドガー』(2011年)、『ジャージー・ボーイズ』、『アメリカン・スナイパー』(ともに2014年)など、ノンフィクション映画が多い。1930年生まれのイーストウッドにとって、ほぼ同時代の出来事の映画化である。時代が違えばもちろんのこと、たとえ同時代に生きていても、全ての出来事に直接関与することも、記録することも難しい。だが彼は、事実ベースの劇映画を撮ることで、過去の記録ではなく、シミュレーションを後世に残そうとしているように思える。

『インビクタス』、『アメリカン・スナイパー』、『ハドソン川の奇跡』の元になった話は、イーストウッドよりはるかに若年の私にとっても同時代のものである。だが私は、イラクの戦場や戦時下のアメリカ、不時着事件を体験せず、当事者としての記憶も持たない。イーストウッドの映画は、過去を振り返り、再現する。ただしシミュレーションとして。誰も過去それ自体を生き直すことはできない。だが、映画=シミュレーションは、虚実の間をただよい、歴史に目を向けることを私たちに促している。


シミュレーション度:★★★★★
(text:高橋雄太)



『ハドソン川の奇跡』

原題:Sully
2016/アメリカ/96分

作品解説

クリント・イーストウッド監督、トム・ハンク主演により、機長だったチェズレイ・サレンバーガーの手記「機長、究極の決断『ハドソン川』の奇跡」をもとに、2009年のアメリカ、ニューヨークで起きた航空機事故を映画化。2009年1月15日、乗客乗員155名を乗せた航空機がニューヨーク上空で推力を失う。機長サリーはハドソン川への不時着を決断し、全員が生還する。英雄となるサリーだが、国家運輸安全委員会は彼の判断を疑問視し、調査を行う。

キャスト

チェスリー・“サリー”・サレンバーガー:トム・ハンクス
ジェフ・スカイルズ:アーロン・エッカート
ローリー・サレンバーガー:ローラ・リニー

スタッフ

監督:クリント・イーストウッド
原作:チェズレイ・サレンバーガー、ジェフリー・ザスロー(「機長、究極の決断 『ハドソン川』の奇跡」)

劇場情報

TOHOシネマズ新宿ほか全国劇場にて公開中

公式サイト

http://wwws.warnerbros.co.jp/hudson-kiseki/


***********************************

【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。アニメでは『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』、本ではディラックの『量子力学』にハマっています。

***********************************


   

0 件のコメント:

コメントを投稿