2016年11月2日水曜日

第29回東京国際映画祭〜映画『あなた自身とあなたのこと』評text岡村 亜紀子

「初めての意味」


「こんなこと初めて」。
映画のヒロインを演じるイ・ユヨンがそう、つぶやく。初めてのこと、それは新鮮であると共に、未知数ゆえ、少し怖いことなのかも知れない。しかし、それにある言葉が加わると“初めて”はきらめく。
「こんなこと“今までで”初めて」。
きらめいているのはヒロインの感動だ。しかし、この“初めて”と“今までに”について、もう少し考えてみる余地がありそうなのが、ホン・サンス監督の最新作『あなた自身とあなたのこと』なのである。その理由に触れるために、まずはヒロインとその周囲の男たちについて触れる必要がある。

 舞台はソウル・延南洞(ヨンナムドン)。田舎でもなく、オフィス街でもなく、そこはかとなく文化の香りが漂う街が映し出される(延南洞はアパートの多いソウルの風景とは違ってこじんまりとした一軒家の多い住宅街である。そして最近観光地として注目されているらしい)。
 冒頭のアトリエのシーンでは、ほとんどシャドウのない、淡いクリーム色を基調としたコンテクストに、鮮やかな絵筆などの色彩が配されている。そんなスクリーンに映される画自体が、点描で描かれた絵画のようでもある。ヨンス(キム・ジュヒョク)とその友人の服装はコンテクストに基調を同じくして、まるでその一部のように人物すら殆どとけこんでいる。

 ヨンスが恋人(イ・ユヨン)との結婚の可能性を語ると、友人は驚く。2人が結婚するのは想像できない、彼女はヨンスとの約束を破り隠れて酒を飲んでいる、というのだ。ヨンスは彼女――ミンジョン――に直接聞くという。
 この物語ではいくつかの偶然が、きっかけになって進んでいく。しかしその偶然は人々の人生に日々起こることであり、代替え可能なもの――例えその偶然が起きなくても、他の出来事を通していつしか同じ方向へ進んでいく――として散りばめられている。
 ヒロインを中心に起こっていく、偶然のようでいて起こるべくして起きた出来事の一部だけでなく、他者にも偶然が起きていく。後者は物語の歯車になりながらもいかにも偶然らしい偶然として、ときに笑いを誘ったりしながら、観客に受け入れられる。延南洞の町並みや、冒頭から続いていく人物と風景とのバランスが、少しファンタスティックな本作にとても似合っている。

 カフェで「ミンジョン!」と親しげに声をかけられたヒロインは「人違いではないか?」と言いつつも、相手の男との会話を続ける。そしてミンジョンと自分は一卵性双生児だと告白して、男と別れる。
 シーンはヨンスの部屋に変わり、ミンジョンはTシャツ姿でヨンスの眠るベッドにもぐり込む。しかし、ヨンスと酒のことから口論となって「しばらく距離を置こう。連絡もしないで」というミンジョン。彼女が帰宅するために着替えたのは、あの「ミンジョンと自分は双子だ」といった女性が着ていた服装と同じなのである。
 またある時、彼女は同じカフェで別の男に声をかけられる。しかし、一度目と同じく、人違いだと困惑しながらも男と会話を続ける。今度は双子とは言わず、自分について話しながら。 

(c) 2015 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

 男たちはこぞって彼女を美しいと讃え、彼女も「私って男好きのするタイプみたいなの」と言う。ミンジョンではないという時のイ・ユヨンは好感を持っていることをしぐさに交えてアピールする。その男たちのツボを押すような立ち振るまいに、ミンジョンとの微妙な違いを感じて色々と想像(妄想)をめぐらせてしまった。彼女の行動はアルコールのせいとか、精神障がいのような病気や多重人格なのだろうかと。
 最も簡単なミンジョンが嘘をついているという解答は、半ば意識的に思考回路でかわされ続けていく。それは全てに当てはまるとも取れるし、反対に(特に本作において)定義することが曖昧な事柄だからだ。
 利己性、他者性、利便性……嘘にもいろいろなタイプがあるがだれかは嘘によって利益(?)を得ているはずだ。それに対し、イ・ユヨン演じるヒロインのそれは、嘘というにはあまりにも捨て身なのである。そもそも嘘を定義することは、とてもむつかしいのであるまいか。事実と違っていてもそれを本当だと思っていたら? 自分の内側にある真実を素直に表に出せないときは? それは、嘘ということばでは言い表せない事柄に思われる。 
 
 ミンジョンに間違われた(とする)時の彼女ヒロインは名乗らないので、彼女を「私」と呼ぶことにする。イ・ユヨンが演じているヒロインの本当の姿はミンジョンなのか「私」なのか。それに依って物語の意味さえ変化するだろう。そしてヒロインの色々な姿を見聞きしなながらも、それぞれに現れる彼女の断片は結ばれることのないまま物語は続いていく。
 一方、ヨンスの心情はミンジョンや「私」と違ってダイレクトに示されている。彼のミンジョンに対する感情の揺れは、妄想に形を変えたり、友人たちへの告白だったり(そのシーンの居酒屋の風情は、おしゃれではないけれど韓国らしくて素敵だった)、酒場で出会う女性との会話だったりに表されている。
 反対に、ミンジョンや「私」の感情を、観客は殆ど目にしない。わたしが見たのは、演技や無意識に抑制されコントロールされたそれであって、彼女の他者への気持ちから生まれたものではなく、誰かのために用意されているかに思える。それを嘘や本物という視座で見ることはしないまでも、少なくとも彼女自身には見えないのである。

 そんな感情のバランスが崩れるクライマックスがやってくるのは、「私」にカフェで出会った2人の男が鉢合わせするシーンだ。一瞬の泣き出しそうな表情、そして泣き声の響く路地裏、という短い瞬間にふと彼女自身が現れる。
 そして彼女が「 “今までで”で初めて」と言って目を潤ませるとき。感じる感動は、ヒロインの感動であり彼女が表した感情からわたしの内部に生まれたものである。何を指して、そして誰として、彼女は“今まで”と言って(感じて)いるのだろう。複雑なヒロインが感じた「今までで」×「初めて」は何を意味するのだろうか。経験と感情が合わさって生まれたであろうこのセリフが不思議な余韻をもたらし、そのセリフに感じた光を強く印象づけるのである。

 さて、そんなわたしにも、本作を観たときに「初めて」が起きた。
 この作品を楽しみにしていたミ・ナミさんが偶然に隣の席だったのである。本作は3回上映されるので、もしかしたら今日いるのかな? くらいに思っていたけれど、こんな偶然があるなんて。彼女は、この偶然がホン・サンス作品を観る前に起きたことが、また凄いと言っていた。それは、いうなればしっくりとくる偶然である。
 そして『あなた自信とあなたのこと』終盤のイ・ユヨンの「“今まで”で初めて」というセリフは、本作の中において、そしてきっと“今までの”彼女の人生において、幾人も存在した彼女の姿をひとりの女性として届けてくれる。そして、鑑賞時に起きた偶然とは趣が違うけれど、「今までで」×「初めて」の組み合わせがこんなにしっくりと感じられるのは本作だけかも知れないとわたしに思わせるのである。

イ・ユヨンの魅力にノックダウン度:★★★★★
(text:岡村亜紀子)


(c) 2015 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

『あなた自身とあなたのこと』
原題: 당신 자신과 당신의 것、英題:Yourself and Yours
2016年/韓国/86分

作品解説
舞台はソウル・延南洞(ヨンナムドン)。ある日、画家ヨンス(キム・ジュヒョク)は恋人のミンジョンと痴話喧嘩する。ミンジョン(イ・ユヨン)は去り、翌日ヨンスは彼女を探すがなかなか見つからない。そして彼女そっくりの女性を目撃するが、まるで赤の他人のようで……。ヨンスの頭は混乱していく……。芸術家(くずれ)の男の恋愛話という点では従来のホン・サンス作品と共通するが、本作は不条理なファンタジーの要素が加わっている。

キャスト
ヨンス:キム・ジュヒョク
ミンジョン:イ・ユヨン

スタッフ
監督/脚本 : ホン・サンス
撮影監督 : パク・ホンヨル
編集 : ハム・ソンウォン
音響 : キム・ミル
作曲 : ダルパラン

作品ホームページ
(東京国際映画祭・公式ホームページより)

第29回 東京国際映画祭

29回を迎える東京国際映画祭(以下TIFF)は、1985年からスタートした国際映画製作者連盟公認のアジア最大の長編国際映画祭。アジア映画の最大の拠点である東京で行われ、スタート時は隔年開催だったが1991年より毎年秋に開催される(1994年のみ、平安遷都1200周年を記念して京都市での開催)。

注目の集まる、若手映画監督を支援・育成するための「コンペティション」。国際的な審査委員によってグランプリが選出され、世界各国から毎年多数の作品が応募があり、入賞した後に国際的に活躍するクリエイターたちが続々現れている。
アジア映画の新しい潮流を紹介する「アジアの未来」、日本映画の魅力を特集する「日本映画クラシックス」、日本映画の海外プロモーションを目的とした「Japan Now」、「日本映画スプラッシュ」。本年は日本映画2大特集として、アニメーション特集 「映画監督 細田守の世界」 、Japan Now 部門 「監督特集 岩井俊二」が行われる。
さらに、海外の有名映画祭での受賞作や、名匠・巨匠の新作、あるいはTIFF おなじみの監督の新作で、8月31日現在で日本公開が未定の作品をピックアップする「ワールド・フォーカス」など始めとする多様な部門があり、才能溢れる新人監督から熟練の監督まで、世界中から厳選されたハイクオリティーな作品が集結する。

本年は新たな試みとして「ユース」部門と野外上映が行われる。「ユース」部門は「TIFF チルドレン」、「TIFF ティーンズ」の二部構成に分かれており、これからの映画を担う若い人に向けて創設された部門であり、本年は3作品が上映される。海外の映画祭で多くの観客が参加して映画を楽しんでいることに習って企画されたという野外上映では、六本木ヒルズアリーナにて無料の上映が行われる。

また、アジア映画の特集上映を行う「CROSSCUT ASIA」(クロ スカット・アジア)では、本年は究極の多様性を内包する国ともいわれる「インドネシア」を大特集する。
その他、国際交流基金アジアセンターとの共同製作による、東京国際映画祭が初めてオムニバス映画製作を手がけた記念すべき第一作、『アジア三面鏡 2016:リフレクションズ』が上映されることにも注目が集まる(ブリランテ・メンドーサ監督 「SHINIUMA Dead Horse」、行定 勲監督 「鳩 Pigeon」、ソト・クォーリーカー監督 「Beyond The Bridge」)。

国内外の映画人、映画ファンが集まって交流の場となると共に、新たな才能と優れた映画に出会う映画ファン必見の映画祭である。

開催情報
2016年10月25日(火)~ 11月3日(木・祝)[10日間]

上映作品一覧

上映スケジュール

開催会場
六本木ヒルズ、EXシアター六本木(港区) ほか 都内の各劇場および施設・ホール
会場アクセス☞ http://2016.tiff-jp.net/ja/access/

公式ホームページ


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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子:Akiko Okamura

1980年生まれの、レンタル店店員。勤務時間は主に深夜。
ホン・サンス作品をスクリーンで初めて見ることが出来、幸せでした。

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