2017年12月26日火曜日

映画『パーティで女の子に話しかけるには』評text彩灯 甫

「新しい希望が植わる時」


一部、物語の結末の触れている箇所があります

頭がくらくらして、おかしくなりそうな映画だ(もちろんいい意味で)。例えばデヴィッド・リンチの作品はいつもそうあり続けてきたかもしれないし、個人的に2017年のベストだと思っているポール・ヴァーホーベン監督の『エル ELLE』だって、典型的な人物描写をことごとくはねのけて観客を不安に陥れるような、頭を殴られたような気分になる映画だった。だから『パーティで女の子に話しかけるには』を観た時の感覚自体が「新しい」と言い張るつもりはない。過去にこんな映画があった、と類似した作品を挙げることもできると思う(個人的には『時計じかけのオレンジ』に似ていると思った。内容ではなくデザインが)。だけど本作は2017年現在の「映画」にとって、新しさの萌芽みたいなものを秘めている。あらゆる言葉と感情が息詰まって、対立して、ポリティカル・コレクトネスが本当に「正しい」もののような顔をして映画に横行し、「多様性」という言葉が権力を持った全然多様でない人たちに奪われてしまった時代。そんな地平に立って、フォースが覚醒した結果過去に対する新しさを主な対立軸に大論争が起きている(否定してません)某シリーズより一歩も二歩も前に進んだ、新しい希望を観た気がする。

舞台は1977年のロンドン郊外。現代ではない。パンクを愛し、憧れ、音楽のレビューと自分の漫画を載せたファンジン作りに夢中になっているボンクラで童貞でまだ何者でもない青年エン(アレックス・シャープ)は、パンクで繋がる友人二人とライブを観た後、ある一軒家に吸い寄せられる。そこでは赤、オレンジ、黄色、水色、紫、白の各「コロニー」の色の全身タイツみたいな服に身を包んだ人々が踊ったり体を触り合ったり超音波を発したり組体操のようなことをしている。奇妙過ぎる。パンクと恋と青春、みたいなメッキがすっかり剥げて観客は何を観ているのかよく分からなくなる。そしてその感覚は映画の終盤まで続く。エンは黄色の第4コロニーに属す少女ザン(エル・ファニング)と出会う。各コロニーはそれぞれ瞑想とか官能とか身体表現とか、それぞれの性質というか宗派? みたいなものを持っていて、多分それに基づいて謎に踊ったりしている。第4コロニーは個性を尊重することを大切にしていて、互いの顔を触り合って慈しみ感を出しているが、その実、本当の意味で個人の想いや衝動や渇望のようなものは全体の調和のためにソフトな手つきで抑制されている。それに対し反抗心を抱くザンはエンの「パンク」に反応し、一緒に逃げ出す。まるで本末転倒だけど、それは僕たちが生きている現代の状況を、撫でるようにして思い起こさせる。

「……もっとパンクして」

奇妙な家から抜け出した時、エンの仲間の一人ジョン(イーサン・ローレンス)は「あれは未来だった」と言う。劇中、ザンたちはどうも宇宙人であるらしいことがぼんやり示される。あるいは外国から来た旅行者、であるように見えなくもない。その曖昧さが終始、観客を不安にさせる。今、見ているのは神秘的で夢のあるSF・宇宙人・未来といった類のものなのか、それとも危険なカルト(その暴力性を観客は知っている)なのか。映画の中でそれがはっきりしないのは「いちばん大切なことではないから」としか言えないだろう。現実と虚構をついはっきりさせたがる傾向がある(「現実対虚構」というコピーの映画もあった)と感じるけれど、本作は「虚実入り乱れる」というニュアンスでもなくて、本当に境がない。だからある場面でエンのもう一人の友人ヴィックが、第5コロニーのオレンジの女がパンクの少女とアナルセックスみたいなことを始めて、少女は興奮しているのだけどオレンジの女の身体からはもう一人別の男が産まれてきて……という、自分でも何を書いているのかよく分からないことが起こっているのを目撃するのだが、そのシーン以外、直接的な描写で真に異常なことは意外と発生しない(なのでそのふんわりした感覚を残すためにもこのシーンは不必要だったのではないかと思ったりもする)。男と女、人種、国家、家族、コロニー、善と悪、やっていいことと悪いこと……などなど、いろんなところにはっきりした境界があるように思い込みながら僕たちは生きていて、社会はそういうふうにできている。だけどその考え方は実際には宗教というかカルトみたいなものかもしれなくて、本当ははっきりした線など多分どこにもない。本作は現実と虚構の間にさえ「そんな線ないよ」という曖昧な世界に観客を放り込んで、僕たちが「まっとうだ」と信じ込んでいる感覚をぐらぐら揺さぶってくる。

ザンとエンに残された時間は48時間。そう、本作は小難しい社会派ドラマなどではなく、切なく胸キュンなラブストーリーなのだ。だけど臭う。とても臭い。「クサイ芝居だ」とかそういうレベルの話ではなくて、登場人物たちの体臭が、若い肉と汗の香しい感覚がスクリーンからはみ出してくるような、近づきすぎなほど人間に触っていくまなざし。
家を飛び出したザンは、そこでエンと口づけを交わす。「私の身体、壊れかけてる」なんて言いながら。本当に壊れかけているのか、どうもメカニズムは不明なのだがザンはエンとキスしながら嘔吐する。本作の最も印象的な瞬間の一つだと思う。人がゲロを吐くシーンがある映画に悪いものはない、と誰かが言っていた。それはつまり汚いものや人が見たくないもの、綺麗ごとでないことを見せてくれるという担保のようなものだと思うけれど(ちなみにこの映画でエル・ファニングが吐くゲロは実際にはリンゴジュースとコーンフレークだったらしく 、それを知ったエル・ファニングのファンたちが喜んだり興奮したりしているらしい、というのはどうでもいい)、この映画では不思議と、あまり汚いもののように見えない。キスという甘美な「記号」が描かれる瞬間に脈絡なく差し挟まれるそれは、まだこの世界で言葉になっていない感覚、かけがえのない個人の感情が発露する瞬間のようで、愛しいと同時にとても狂おしい。ある種の美しさみたいなものを帯びているようにさえ感じられる。
エンはザンの身体に性的な興奮を覚えるけれど、ザンはエンの身体に興味津々ながらも性欲という感覚自体が覚束ないらしく、体を触り合ったり、顔を舐めたり、互いの口の中に向かって叫んだりする。口臭、体臭、排泄物……吐しゃ物以外は画面に映っていないはずのこうしたものの匂いが全部漂ってくるかんじがする。だからこれは褒めているのだけど、実際にそういう感覚を僕が抱いたのでそのまま書くと、本当に「気持ち悪くなる」映画だ。ザンはエンと「不完全な性交渉をした」と言う。その場面は描かれない。

宇宙人たち(あるいはカルト集団)には「子どもを食べる」という風習があった。彼らは好き勝手にセックスしまくった結果、派閥主義、戦争、環境破壊に陥って資源を使い果たしてしまった。その反省から親が子どもを食べ、少しずつ人口を減らしているのだと言う。このまま元の星に帰ったら、ザンも食べられてしまう――。ちなみにザンたちが帰ることをエンは「集団自殺」と言ったりもする。
「食べる」瞬間は劇中、セックスに代替、あるいは対極の行為として描かれる。旧時代的な家族の在り方や血の繫がりから脱出しようとする「アンチ・家族」な映画がいろいろなところで生まれてきていると思う(たとえば日本の『湯を沸かすほどの熱い愛』はそれをやろうとして上手くいかなかった映画なのではないか)。それと同時に、性交渉を介した関係の継続や、それを物語上の「ゴール」とする恋愛の形から脱却しようとする「アンチ・セックス」な映画が生まれてきているようにも感じている(たとえば『溺れるナイフ』では中学生の頃から互いを想い合っている二人が数年後にようやく……という場面があるが、このシーンはよく見ると「試みたけれど結局できなかった」ようにも見える)。それは何もプラットニックでウブな青春の恋、というような話ではなくて、そういう身体的・動物的な結び付き(もちろんそれだけではないとは思うけれど)ではない形で人と人が繋がるとはどういうことなのか、他に方法がないのか、もっと深く相手の中に入れる何かが……という模索ではないだろうか。ただ、それはどんなに切実であっても、新しい段階への踏み出しであるようなかんじもするけれど、強者からすれば「それじゃ人間は殖えないし死しかないじゃん」という話であって、それを言われたら手も足も出ないような脆さがあった。本作はそこに一つの禁断、あるいはドラッグ、魔法?をかけた。ザンが「妊娠」するのだ。ザンはエンに「あなたの子よ」と告げる。先にも書いたけれど、二人は「不完全な性交渉」しかしていないはずなのに。馬鹿げているけれど、僕はそこに新しい希望の種が植わる思いがした。

監督のジョン・キャメロン・ミッチェルは、自身のフィルモグラフィーの中で何度も、「まっとう」な人からすれば不安定な心を、湿っぽくないポップな手触りでスクリーン上に燃え上がらせてきた。性転換した結果男性器が中途半端な盛り上がりとして残ってしまったロック歌手を主人公に据え自ら演じた『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』に続き、2作目『ショートバス』では、セックスという行為にある種カルト的に癒され、支えられ、狂わされる人々を描いた。『ショートバス』と本作はセックスへの距離感が対極でありつつも、より深い他者との通じ合いを渇望する点で双子のような作品にも見える。そして『ショートバス』との間に位置する3作目『ラビット・ホール』(『パーティで~』は監督4作目)では、ニコール・キッドマンとアーロン・エッカート演じる、子どもを交通事故で亡くした夫婦の「その後」を描く。一生拭えない悲しみを背負ってしまっても、それでも生きていくための「再生」の物語。 
話は少しずれてしまうけれど僕は「その後」を描いた映画が好きだ。「~の続編」とか「2」「リミックス」「エピソード……」とかいう話ではない。多くの映画では、今まさに盛り上がりつつある「現在」が描かれる。その一方、こんな体験をしてしまった登場人物たちはこれからどうやって生きていくのだろう。そこが見たいのに……と思うことも少なくない。例えばニコール・キッドマンも出演した『ライオン 25年目のただいま』は、インドで迷子になった5歳の少年が故郷を探し出す話だが、故郷の母親と感動の再会を遂げたところで物語は閉じてしまう。自分を「わが子」として育ててくれた里親との関係はどうなるのか、とか(しかもこの里親を演じたのがニコールだった! そして彼女は実生活でも養子を迎えた経験を持つという)「その後」のことにいろいろ思いを巡らせてしまう。もっとも『ライオン』は実話ベースだからある程度は仕方ないのかもしれないが……。
『ラビット・ホール』では、子どもを撥ねた車を運転していた青年との対話と、彼が描いたコミック「ラビット・ホール」に登場する「並行宇宙」へと思いを馳せることで、主人公が傷を負ったまま、それでも少しずつこの現実の中で再生し始める。ミッチェル監督にとって『パーティで女の子に話しかけるには』は、「その後」を描いた『ラビット・ホール』の次の作品であり、そこで描かれたのが今回の「奇跡の子」だった。
こうして振り返るとミッチェルが本作で辿り着いた場所は必然だったようにも感じられる。『ラビット・ホール』の主人公は「二人目の子供を作ろう」と持ち掛ける夫に嫌悪感を示していた。そしてその妻であり死んだ子どもの母親を演じたニコールは本作でパンクな若者たちの「マザー」的存在・ボディシーアを演じている。ボディシーアは「12回中絶して何の見返りもなかった」末、子どもを産むことを諦めた女でもある。ザンが子どもを宿したことで物語はまた転がり始める。食べられるだけの子どもではなく「親」の立場としてコロニー内で権利を持ったのだ。しかもザンの子どもはセックスの結果生まれる命ではない(もちろん、エンはしたかったのだろうが)。だからその奇跡は、絶滅に向かっていた彼ら一族を救う手立てになるかもしれない。そしてその奇跡は観客にとって、絶対に崩れないと思われた現実の壁が壊れる瞬間だ。何かが変わり、希望が灯る瞬間。彼女が吐いたゲロのように、まだ名前のついていない感情のような、誰も知らない希望がこの世界にあるかもしれないと思わせてくれる(この「奇跡の子」と通ずるような物語は2017年に公開されたある大作映画でも描かれていて、ネタバレになってしまうので作品名は伏せるけれど、それはとても重要なことだと思う)。
現実が全然ハッピーじゃない中で、「映画で何を描くか」はとても複雑で深刻な局面に来ていると感じる。現実が辛すぎるのにバッドエンドなんて見たくないし、かといってハッピーエンドは嘘っぽい。映像的に派手なことをやってももはや技術の進歩に慣れ過ぎて何を観ても驚かないし「誰かを傷つける可能性がある」と烙印を押された要素や表現は全部排除される。そして横行しているのが「エモい」と言われる扇情的で快楽主義的で、時としてあまり中身のない表現。別にそれが悪いと思っているわけではなくて、そういう類で面白い映画もたくさん生まれている。とても豊かな状態ではある。だけど最近思うのだ、もし自分が現代の高校生とかだったら、今のように映画に惹かれるようになっていただろうか、と。

本作もまた、とてもエモーショナルな作品ではある。「食べることの倫理」を語って聞かせるPT(保護者)たちにエンは「BOLLOCKS(ふざけんな)!」と叫ぶ。
「メチャクチャしても俺たちは生きてる。食べて、クソして、踊って、恋をする。親がブチ壊したものも直す」
ジャズミュージシャンで「左翼」で「無責任」だった「クール」な父親にエンは捨てられた。だけどその親でさえ自分を喰ったりはしなかった。生きることを押さえつけることなんてできないんだ、という叫びだ。そして一族とともに星へ帰り子どもを産むのか、地球でエンと暮らすのかを迫られたザンは、引き止めようとするエンに「アイ・ラブ・ユー」と告げる。その時ザンが流すのはゲロじゃなく涙だ。この二つのシーンでの二人の主人公の言葉には胸を締め付けられるような感覚がある。それはこのSFだかカルトだか分からない異常な世界の物語が、僕たちが今生きている2017年の世界と地続きであることに気付かされるからだ。多義的で含みのある会話が続いてきた中で、その言葉だけは真っ直ぐ、逃げずに相手に刺さっていく。そしてそれは巨大な怪獣でも宇宙人でもテロリストでも大統領でも何でもいいから敵に仕立てて感情を煽るような「エモさ」とは異なる、今を変えるため、自分を変えてくれた誰かのために発する「本当の気持ち」だ。ザンは結局、エンを振り切って星へ帰ってしまう。その別れは切ないが、もしこの映画が「エモさ原理主義」的に作られていたとしたらこういう結末になっていただろうか。ザンがエンを選んで地球に残って……という展開だったら、どちらが残酷なのだろうか。

エモーショナルでありつつ、安易な共感を誘わないのも本作の特徴だ。それは多分この時代設定に由来する。冒頭、エンたちがパンクバンドの演奏に狂ったように踊り狂う場面がある。それは異常なほど暴力的で狂騒的。でもこれは現代の物語ではなく今から40年前。描かれる若者たちは今50~60代ということになる。現代の若者にとっての親世代であり「敵世代」に当たるのかもしれない。そんな人たちが「大人」に抑圧され、中指を立てる時代。終盤、ザンを救うためにパンクな若者たちが宇宙人の家に攻め込む場面がある。対立は戦意を高揚させるが、この映画では一体何と何が対立しているかよく分からないので、観客はパンク側に寄り添いつつもどこか白けた目でその戦いを見守るだろう。この映画には「境界がない」と先に書いたけれど、そこで超える最も大きな壁は「世代」だと思う。俺たちの、私たちの「世代の」……という物言いは世の常だが、本当はそんなものさえ時代やカルトや社会や自分自身が作っているだけなのかもしれない。対立軸に入り込み切れないこのかんじは映画全体を覆っていて、だからこそたくさんのノイズの中から浮かび上がってくる普遍的な感覚は、ザンとエンの互いを想い合う気持ちだけなのだ。
エンが宇宙人たちの家に吸い寄せられるように近づいていく冒頭のシーンで、彼はそこから鳴る音楽に耳を澄ませている。それを聴いたことがあるような、未知の何かに触れているような感覚を抱いている。ノスタルジーと新しさの間にも壁はないのかもしれない。そうして出会った二人は40年前の若者たちがひしめくライブハウスでともにステージに立ち、歌い、音楽を奏で創造する。希望の種はきっと、その時に植わったのである。

(text: 彩灯甫  )


 『パーティで女の子に話しかけるには』
2017年/103分/イギリス、アメリカ

監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル

公式ホームページ:http://gaga.ne.jp/girlsatparties/

劇場情報
12月1日より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

彩灯 甫:Saito Hajime

2017年8月に「沖田灯」という筆名を改めました。
小説、映像脚本、映画・音楽批評など書いています。
1989年生まれ。

Twitter:@Akari_Okita
Blog:http://hamintia.blog.fc2.com/

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第30回東京国際映画祭〜映画『勝手にふるえてろ』上映後Q&A

右から 大九明子監督、野正樹氏 (c)2017 TIFF

 去る11月1日。第30回東京国際映画祭における『勝手にふるえてろ』2回目の上映後に、大九明子監督と音楽を担当した髙野正樹氏を迎えて行われたQ&Aの模様をお届けします。
 
 24歳のOLヨシカ(松岡茉優)は、中学の同級生“イチ”(北村匠海)に10年間も思いを募らせている片思いこじらせ女子である。そんなヨシカは、過去の“イチ”との(ほとんどが一方的な)思い出を召還したり、絶滅した動物を夜通しネットサーフィンして調べたり、アンモナイトを購入して驚喜乱舞したりと、一人でもなんとなく充実した毎日を過ごしていた。そんな折、同僚の“ニ”(渡辺大知)から告白され、「脳内彼氏」“イチ”と「リアル恋愛」の“ニ”の間で、揺れるヨシカ。恋愛に臆病な彼女に幸せなハッピーエンドは訪れるのか……。
 主演・松岡茉優が最高に魅力的な本作は、東京国際映画祭で観客賞を受賞し、12月23日より劇場公開となった。映画祭の数ある作品の中から観客の心を掴み、多くの映画ファンが待ち望んでいた映画である。
 
 司会はコンペティションの作品選定を行った矢田部吉彦氏が務め、今作への愛情に溢れたムードで行われたQ&Aとなった。

(一部、作品の核心に触れている部分があります)

矢田部氏(以下、矢田部):
大傑作とわたしは思っているんですけれども、東京国際映画祭のコンペティション部門に出品して下さって本当に有難うございました。

大九監督(以下、大九):
有難うございます。

 大九監督は、「本日は数ある作品の中、『勝手にふるえてろ』をお選び頂きましてどうも有難うございます」という観客への挨拶に続き、客席で鑑賞した感想を語った。

大九:
わたくしもスタッフと一緒にチェックを兼ねてみる初号試写で鑑賞した時以来、久々に全編通して、しかも皆様と一緒にスペシャルな席で、汗びっしょりで観ておりまして、すごいスペシャルな体験ができたと大変感謝いたしております。有難うございました。


大九明子監督 (c)2017 TIFF

 高野正樹氏からは、

髙野氏(以下、髙野):
音楽を担当しました髙野です。今日は皆様お越し頂きまして有難うございました。皆様のリアクションが非常に気になりまして、皆様が笑っていたりだとか、そういうリアクションで「あっ、ここで笑いがおこるんだ」だとか、自分も一緒になって笑ったりだとか……。割と音を仕上げる時は音のことばかりを気にしていたので、「今日は自由に観れるかな」と思ったのですが、逆にリアクションが凄く気になってしまって、中々冷静に観られないなと思っております。今日はどうも有難うございます。

 と挨拶があり、作品への愛情深い思いが感じられた。

矢田部:
今日はこうしてせっかく髙野さんにお越し頂いていますので、監督に作品での髙野さんとのコラボレーションについてお聞きしたいと思います。やはりミュージックという単語を聞きますと感動のミュージカルシーンにも関わられたのかなと想像してしまうんですけれども、そこも含めてお聞き出来ますでしょうか?

大九:
仕上がった段階でミュージカルシーンとか、ちょうどその時期に大ヒット映画『ラ・ラ・ランド』(‘16)がございましたので、“『ラ・ラ・ランド』シーン”という風によく言われるのですが、前半が実はヨシカのイタいシーンだったということをご説明するのに、アスペクト比を変えたりモノクロに変えたりすることで世界観をガラっと変えることも考えたんですけれども、映画監督的なスタイルをみせるというよりは、ヨシカという人物をきちんとお届けすることに集中しようと。
そこで一番いいのは、お客様の思考を「あれ? これどうなっているんだ?」と思わせるのではなく、全部言葉で説明しようという結論に至りました。言葉で説明するにしても、なにかそこにメロディがあって、より観ている方の心に届く形にしようということで髙野さんにお願いしました。挿入歌・作詞作曲、のように言われているのですが、シナリオにあったセリフにそのまま(音楽を)つけて頂いた、という感じです。

髙野:
最初にこの話を頂いた際に、監督からこのようなシーンがありますと教えて頂きました。通常わたしがやっているのは作曲だけなので、詩にメロディをのせるということはあまりやっていない仕事でしたが、メロディが出来上がるのが凄く早くて、監督と最初の打ち合わせをした際には、もう出来上がっていました。
それから話をして、違うアレンジにしたりということもあったんですけれども、最終的に5パターンくらいになりそこから選んで頂きました。監督と共通した認識としてあったのが喋るように歌わせたいということ。あまりきれいにピッタリおさまるような形ではなく、どちらかというと喋っているところにメロディがのっかっているということで、ヨシカの心の中の劇場というか、そういうものを表せればいいなと思って作りました。


高野正樹氏 (c)2017 TIFF

 髙野氏と大九監督は今作以外(「あぁラブホテル」‘14/WOWOW、「想ひそめし〜恋歌百人一首〜」‘15/テレビ朝日)でもタッグを組んでおり、息がピッタリ合う今作の制作風景が想像された。
 矢田部氏が観客に質問のバトンを渡すと、場内からはすぐさまたくさんの手が上がった。

Q.1(男性):
とても楽しい作品を有難うございます。綿矢さんの原作(綿矢りさの同名小説『勝手にふるえてろ』)もあると思うのですが、(映画の)ヨシカってかなりやっかいなコですよね? やっかいさ加減というのを監督がどのように受け取って、主演女優にどのようなサジェスチョンがあったのか、ということをお聞きしたいと思います。

大九:
有難うございます。綿矢さんの文学の魅力というのは言葉のチョイスだったり、キレ味のよい文体とか、そういったところに尽きると思います。そこを最大に活かすということで読み込んでいくと、どんどんヨシカが愛しくなって、気がつけば「私、ヨシカじゃん」みたいな心境になっていきました。
やっかいというよりは、どうにかこのヨシカというなにかやっかいなものを、実際に現実社会にいるやっかいな皆さんにちゃんと届けたいな、という想いが凄くあって。「万人受けするようなことはおそらく無理だろうね」と最初に企画を持ってきてくださった白石プロデューサーと話していて、それよりはヨシカ的な人にきちんと届ける映画にしようという思いがありました。
原作を読み込むうちにどんどんファンになっていって、もうヨシカにイコールになってしまったので、ほぼ違和感はありませんでした。イン(撮影開始)の前に、松岡茉優ご本人と会ってゆっくり話す時間を持ったのですが、ヨシカに対する無理解みたいなものはお互いにそれほど無く、松岡さんは「あとは振り幅どの位にしましょうか?」という風に大分もう心の準備が出来ていました。
「こういう人っていますよね」とか「恋愛観はわたしはちょっと違う」とか、そういう話などもしました。やっかいであるということを、わたしたち二人はむしろ愛しちゃった感じがあると思います。

 企画・プロデュースの白石裕菜氏は、タイトルに惹かれ手に取った原作に惚れ込み、同時に映画化について動き始めた。そこには、
「綿矢りささんが描く、ヨシカのモノローグから垣間見える文学的な世界観と、一人の女の子が「イチ」と「ニ」という二人の男性の間で揺れ動くというエンタメ的な構造が映画向きだと感じたからです。キラキラした恋愛映画にはならないけれど、格好悪くてリアルな、だからこそある人たちにとって強烈に魅力的な恋愛映画になる! そんな思いから映画化に向けて動き始めました(プレスシート「Production Notes」より抜粋)」
という熱い思いがあった。
 大九監督の言う「ヨシカ的な人」、白石氏のイメージする「ある人たち」に向けられているという本作だが、劇場では笑いが何度となく起こり、男女問わず、観客がこの作品=ヨシカを受け入れ、笑い、感動している様子が強く印象に残っている。

矢田部:
主演のヨシカには最初から松岡さんでいこうと考えていたのか、ある程度オーデョションをするなどして松岡さんでいこうと考えられたのでしょうか?

大九:
もう最初からです。それまでも二年くらいちょこちょこ松岡さんとお仕事(本作は『放課後ロスト』('14) エピソード3「倍音」、TUBEのMV春夏秋冬4部作から生まれた映画『渚の恋人たち』('16)に続く3度目のタッグとなる)をしていまして。
ヨシカという人に惚れたんですけど、白石プロデューサーに「松岡さんでいきたいんです」と言われて、「そうだね!」と。
最初は誰ということも想定せず、普通に小説を読みました。

右から 矢田部吉彦氏、大九明子監督、高野正樹氏 (c)2017 TIFF 

Q.2(女性):
一昨日も観させて頂いて今日二回目なのですけれども、ヨシカ役の松岡茉優さんが観れば観る度に魅力的に思えてきたのと、ニ役の渡辺大知さんが、最初はとってもうざいなと思ったんですけれども、段々愛おしく思えてきて、とても楽しく観させていただきました。一昨日のQ&Aの時に、最後の主題歌(黒猫チェルシー「ベイビーユー」)についての質問があり、監督が「この映画は歌でいきたかったので出演している渡辺さんにお願いした」と言われていたんですけれども、最後の歌も含めて(渡辺大知が)とてもこの映画に合っているなということを、二回の鑑賞を通して感じました。最後の歌について監督から渡辺さんに「こういう風に作って」というような発注がなにかあったら、お聞きしたいなと思います。

大九:
大知くんは割とニに近いタイプでいらっしゃって、ものすごく頭でわーっと考えるんですね。「出来ました!」みたいなタイプの人ではなく、もの凄く時間をかけて悩んでいたので、「わたしが黒猫チェルシー(渡辺大知がヴォーカルを務めるロックバンド)にお願いしたのは、ヴォーカルをしているのがニを演じている渡辺大知だというのが最大の理由なんですよ。だから、ニとしての気持ちで素直に作って頂いたら、それが素敵な曲になるんじゃないですか?」と、ディスカッションしました。

Q.3(外国の女性):
非常に感動しました、有難うございます。映画の中盤にミュージカルシーンを入れることによって、(ヨシカが)非常に悲しいというか、そういうキャラクターに見受けられたんですけれども、怒っているところをよりフィーチャーしているように感じました。悲しみよりも怒りを重点的に描いている理由はなにかありますでしょうか?

大九:
自覚は無かったのですが、マグマのように溜め込んでいたあらゆる罵詈雑言を、叩き付けるようにシナリオを書いたので、それを受けとめた松岡茉優さんのヨシカは必然的に怒りのベクトルが強い感じになったのかもしれません。悲しむところのあの泣き具合も、「しくしく……というよりは爆発するように泣いてくれ、ということで、慟哭だよ」という話を松岡さんと凄くしたので、怒りという方向のニュアンスが強かったのかもしれないです。

Q.4(男性):
大変楽しく観させて頂きました。ヨシカは名前を覚えるのが苦手で、友達以外の人は名前を覚えられないというキャラクターですけれど、イチに名前を覚えてもらっていないというシーンで、すごいショックを受けていました。彼女にとって名前はどういう意味を持つのでしょうか?

大九:
彼女にとってというよりは、どの人にとっても、本当は名前というのは凄く大事なもので、個人的なもので尊重すべきものです。けれど世の中との距離を計りかねているヨシカにとっては、名前を覚えられないというよりもあえて名前を覚えようとせず馬鹿にしているというか。勝手にすぐあだ名をつけてしまって「わたしにとって必要のない情報ですから、わたしが呼び易いように呼びますよ」っていう、そういう人だと思うんですね。多分結構そういう方はいらっしゃると思うんですね、勝手に心の中であだ名をつけていたりだとか……。その罰が当たったというか、「お前も覚えられてないよね」というシーンなんです。そしてそれを改めて思い知らされて、打ちのめされるというシーンに、あそこはしました。

矢田部:
非常に腑に落ちます。有難うございます。


(c)2017映画「勝手にふるえてろ」製作委員会

Q.5(男性):
一昨日と今日と二度観させて頂きました。とても楽しい映画でした。松岡茉優という女優の魅力というか、ここが凄いなと思っているところはどういう点か教えてください。

大九:
そうですね……、集中力と努力。少しダサイ表現ですが、努力をあまり人に見せないところ。そういう昭和の気骨を持っているところが凄いと感じます。

 松岡茉優は『ちはやふる 下の句』(‘16)でクイーン(競技かるたにおける女性の日本一)である若宮詩暢役を演じ、その存在感のみならず原作コミックスファンも文句のつけようがないカルタをして、観客を魅了した。これまでの作品で彼女が演じてきた役柄自体にも、どこか努力を惜しまない人柄が滲んでいるようにも思われる。今作の、会社で経理として働くOLヨシカ役でも、華麗な電卓さばきを披露している。

Q.6(女性):
面白い映画で大変楽しませて頂きました。有難うございます。イチ役の北村匠海さんが、普段は歌って踊って女の子にキャーキャー言われているようなグループ活動(DISH//)をしていて、今回は残酷と言うか夢の無いような役柄を演じているのが衝撃的だったんですけれども、なぜ北村匠海さんにイチ役にお願いしたのかと、役作りに関するエピソードがあれば教えて頂きたいです。

大九:
わたしはDISH//を存じ上げないままお仕事をご一緒することになったのですけれども、プロデューサーから「こんな素敵な俳優さんがいて、イチにピッタリだと思います」というレコメンドを受けてどんな方かと思ったら、わたしが普段観ている映画に色々出演していて「ああ、あの役の方か。ああ、あの役も。」と思い当たり、若いのにカメレオンのように多彩な演技をするところに惚れ込んでお願いしました。今はDISH//、大好きです。

矢田部:
彼がどのようにして役にアプローチしたのか、もしご存知でしたら……。

大九:
どのようにして……、どうしているんでしょうね? 勿論事前にお話して作っていきましたが、割とわたしと読み解き方が同じだったんですね。「割と残酷な人間だよね、イチっていうのは」と話すと、「僕もそう思います」と。後は彼が作り上げてくれた、という感じです。

Q.7(男性):
原作者(綿矢りさ)と話し合われたり、何かエピソードがあったら教えてください。

大九:
事前に会うことは全く無くて、撮り終わった後にお会いしたのですが、大変喜んでくださいました。というのは綿矢さん曰く、「通常原作というのは削られることになる」けれども、「わたしの作品は増えて戻ってきた」と。要素は削られておらず、要素を邪魔していないのに、私が書いたシナリオでセリフが凄く増えていたり、キャラクターが増えていたり、「増えることばっかりで」と喜んでくださいました。

矢田部:
わたしも映画を観てから原作を読んだんですけれども、もの凄くびっくりしました。原作のエピソードがここまできちんと映画に描かれている映画化作品というのは中々ないんじゃないかなと思いつつ、パワーアップしているという。皆様もし読んでいらっしゃらなかったら、是非是非、読まれることをおすすめします。
最後に、監督と髙野さんから一言ずつ、お言葉を頂きたいと思います。


大九:
二日も観てくださった方がいたり、公開の前に観たいと思って一生懸命チケットを取ってくださった方がいたりと、色々伺っております。本日はどうも有難うございました。

髙野:
何回も通して観ているのですが、観る度に色々発見があったり、笑えるところや感動するところが違ったりしていて、今日僕は割と前半の方でウルっときてしまいました。何回も観ても面白い映画だと思っています。ですので、皆さんも何回か観て下さい。今日は有難うございました。


(c)2017 TIFF


 大きな拍手に包まれてQ&Aは終了した。
 観賞後に原作を読むと、原作者・綿矢りさの「増える」という言葉がよく理解出来る。細部のエピソードが違う場面で表現されていたり、ユニークな登場人物の面々が増え、本と映画両方に違うエピソードがあり……といった様子で、それぞれの世界観がお互いによってより広がったような感覚になる。
 おすすめは映画を観て、原作を読み、また映画を観る……というコースだ。そしてこの作品のタイトルについて、思いを巡らせてはいかがでしょうか?

(取材/文:岡村亜紀子)


(c)2017映画「勝手にふるえてろ」製作委員会


『勝手にふるえてろ』
117分/カラー/日本語 / 2017年/日本

監督:大九 明子

キャスト
江藤良香(ヨシカ):松岡 茉優
ニ        :渡辺 大知
月島来留美    :石橋 杏奈
イチ       :北村 匠海

配給:ファントム・フィルム

作品解説
“脳内片思い”の毎日に“リアル恋愛”が勃発⁉ ふたりの彼氏(?)の間で揺れながら、傷だらけの現実を突き抜ける、暴走ラブコメディ!

TIFF作品紹介ページ
http://2017.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=29

公式ホームページ
http://furuetero-movie.com/

劇場情報
12月23日(祝)より、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル池袋ほかにて、全国順次公開予定

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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子:Akiko Okamura

某レンタル店の深夜帯スタッフ。
この作品を観て、なんだか我がことのように
笑ったり、泣いたり、自分の普段開けない柔らかいところがイタかったり……。
鑑賞中、気持ちも表情筋も忙しかったです。
『勝手にふるえてろ』というタイトルが、どこか優しく、
一方で、どこか厳しさを持って響きました。
是非、沢山の方に観て頂きたいです。

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2017年12月19日火曜日

映画『早春 デジタル・リマスター版』評text井河澤 智子

「執着と恋をめぐる長い旅」


2018年1月の劇場公開に先立ち、ポーランド映画祭2017にて上映された、イエジー・スコリモフスキ監督作品『早春』(1970)。日本の劇場にかかるのは実に45年ぶりである。
監督の舞台登壇トークを交え、ご紹介したい。

この作品の完全版を観るのは初めてである。
その昔、この作品がどうしても観たかったのでロンドンに飛び、ソフト探しのつもりが迂闊にもただの観光に終始し、数年後イギリス版BDが出たと聞き購入したが、無念リージョン違い、円盤はただの鍋敷きと化した。ブルーレイにもリージョン違いがあることを知らない程度に無知である。
よって、因果は巡り、今回観ることが叶い、数十年来の心願が成就した気分である。それが一生の心願であってよかったのか、と自らに問いたい。

その疾走感と焦燥感、そして猪突猛進感、なんと言えば文学的に収まるのだろうか。あまり美しい表現ができない。欲しいものがあればそれに向かってまっしぐら、立ちはだかる壁をも破壊し、自らも血を流し他者も傷つけることを恐れない。自分、そして自分が手に入れたいものだけが存在する世界。それは不器用なのか、不器用以前の問題なのかはわからない。

この作品は、あるジャンルの映画、たとえば「青春映画」−−よく例えたもので、特に「童貞映画」と括られる作品たちがあるのだそうだ……誰の命名か知らないが全く素晴らしい例えである−− の「幻の傑作」としてかねてより高く評価されていた。実際に劇場で観た人がそれほど多いとは思えないのに「その名が高い」という不思議な作品だった(その理由は推測できるが、特に重要ではない)。
描かれているテーマそのものは珍しくはない。この作品にもし共感と郷愁、ある種の同調を覚えるとすれば、それは観る者がこのような心境を「知っている」「わかる」からであろう。ざっくり「青春映画」スパッと「童貞映画」と言って差し支えない普遍性を持つ作品である。
しかし、優れた作品は普遍性と同時に(それ以上の)特異性を持つ。そりゃそうだ。

ロンドンの公衆浴場とはどのような施設なのか、サービス係の仕事とはどのようなものか。物語は当たり前のように進み、ほとんど説明めいた描写はない。客とのやりとりの描写はあるが、それは背景の理解に特に役に立たない。「プール」があり、学生が体育の授業で泳ぎに来る。一方、女性客が少年を「襲ったり」、男性客と共に女性サービス係が扉の向こうに「消えたり」、それを快く思わない別の従業員がいたり、さらに少年の両親が息子の働きぶりを見に来て褒めたり、どうにもよくわからない場所である。曖昧な境界線は見える人には見え、見えない人にはわからない。そこに境界線を見出した者は「踏み越える」ということの危うさを体感、あるいは傍観してきた者だろう。

上映後のスコリモフスキ監督のトークによると、この作品は「雪の中でダイヤモンドをなくしてしまった」という知人の話から着想を得たという。たった一つのアイディアから話を(実に論理的に)組み立てていった結果、この作品が出来上がった、というが、その肉付けに、『早春』の前に製作された『出発』(1967)からの流れが感じとられる。

監督の母国ポーランドを離れベルギーで撮影された『出発』は、ジャン=ピエール・レオを主演に迎え、フランス語で物語が進んでいくため、トリュフォーやゴダールを観慣れていると特に違和感がない、というのも変な話だが、ジャン=ピエール・レオという俳優そのものが最早ひとつのイコンであるため、はっきり言ってしまえば彼の出演作はどれを観てもジャン=ピエール・レオの映画である、と言えるだろう。
彼が演じる役どころ。おおむね落ち着きがなく、衝動的で、早口にまくしたてるように喋り、何をしでかすか予想がつかず、なんというか「軽やかな狂気」というか、まぁ、悟ってください。
『出発』で彼が演じるのはポルシェでカーレース出場を目論む美容師マルク青年。おそらく年齢は20歳そこそこ(パンフレットなどには19歳とあるが、劇中で年齢がはっきり明かされる場面はない。車が借りられない年齢であるというくらいだろうか)。
自分の車もないのにカーレースに登録してしまった彼は、ありとあらゆる手段でポルシェを手に入れようと走り回る。バレないのがおかしい詐欺まがい、夜の自動車展示場に忍び込む、美容院の客をたらしこんでの金策、身の回りのもの一通り売ってみては女友達を相棒に車 泥棒を試み、勤務先の店長をだまくらかす......彼の頭の中は「ポルシェで爆走」しかない。
本人もじっとしていられない。開ければいい門扉は飛び越え、犬に噛まれて大騒ぎし、誰彼構わず喚き散らし、殴り殴られ、まことに落ち着きがない。実にいつものジャン=ピエール・レオである。

ふと気づく。トリュフォーやゴダールの映画でおなじみの彼には、いつも「恋愛」があった。主に彼の疾走は女性に向けられていた。しかし、そういえばここには「恋愛」の要素はあらわれない!
そばにいる可愛い女の子(カトリーヌ=イザベル・デュポール……このふたり、ゴダール『男性・女性』でも共演しているので、余計に既視感がある!)はどちらかというと「相棒」としての扱いに過ぎず、ふたり見つめ合う深夜のクルマの中でも「クルマが真っ二つに割れる」という不思議な演出でその距離感が示される……穿ちすぎだろうか。
マルク青年が突っ走る先にあるのは、あくまで清々しくイノセントに「ポルシェ」。彼は、まったくコドモなのだ。コドモがおもちゃに突撃していくように、マルク青年はポルシェに向かって突撃する。この時間は彼にとって「蛹」、羽化直前の逡巡の時。蛹の殻は可愛い相棒の渾身の一撃によって破られる(彼は一瞬目をそらす、そして改めてまじまじと彼女を見る)。女の子は常に男の子より少し大人だ。

話を『早春』に戻す。マイク少年もまったく落ち着きがない。自制心がない。周囲の人々がかなり個性的なのであまり目立たないが相当なものである。気づくと壁によじ登っている。壁の上をぴょんぴょんと飛び回り、飛び降りる。気に入らないことがあると物をぶちまけ、廊下を走り回り、非常ベルを全力でぶち破り流血する。
自転車で疾走する冒頭シーン。あの自転車はマイク少年の分身と言ってもいいのではないか。思いを寄せる同僚スーザンに車で踏み潰されるところも含め。

マルク青年の「ポルシェ」に相当するのが、マイク少年の場合「スーザン」であろう。つきまとい、男出入りにいちいち憤慨し邪魔をし、物損まで起こす。しかしよくよく考えると、彼はスーザンに一体何を求めているのかが今ひとつわからないのである……それを「恋」と考えるならば恋なのかもしれないが、恋っていったいどんなもの? もしかしたら彼自身それがわからないのでは? 
スーザンはいわゆるビッチであり、余計にマイク少年を苛立たせる。婚約者がいるのに浮気性だ、という義憤は裏から見ると自分にだけセックスさせてくれないという不満と、そして独占欲にも思える。性への欲求と恋愛感情はしばしばコンタミネーションを起こす。
彼は繁華街でスーザンによく似た看板を見かけ、かっさらう。この看板娘は彼にとっての「理想のスー」であろう。

はたしてマイク少年はスーザンとどうなりたかったのか。ここで少年の焦燥感(それはとても普遍的な)と監督のアイディア(それはとても特異な)が融合する。

マイク少年と揉み合っているうちになくしてしまったスーザンの指輪のダイヤモンド。それを見つけるシークエンスは非常に独創的である…… いや、これはここまでにしておこう。「雪の中でダイヤモンドをなくしたら、見つけるためには映画監督が必要だ」トークで監督はそんな感じの冗談を言っていたような。
そしてマイク少年は、ある行動に出る(これは『出発』のラストシーンに対応するのかもしれない−− 相手を試す、という点においても)。

欲求は本能でも、行動は学習によるものである。おそらくマイク少年はそのバランスが欠けていたのだろう……そして彼が無意識に呟く言葉は決定的だ。彼もまた蛹の時間、しかし殻の中はまだドロドロだ。まだ羽化には早い、気持ちだけがはやる。

スーザンにとって大事なものはただのダイヤモンドである。誰から渡されたか、どんな意味があるのかにまではあまり関心がなさそうだ。
マイク少年の体を張った駆け引きなど彼女の心を1ミリも動かさない。付き合う義理なんてありはしないのだ。
水のないプールの底。まったく年上の女は子どもの手に負えるものではない。
故意か過失か、行き場をなくした少年の衝動は、溢れ出した水に沈み、思いを遂げる。

マルク青年は次のステージに進み、
マイク少年の時間はそこで止まった。
この2人の人物像を引き継いだのは、『アンナと過ごした4日間』(2008)の中年男、レオンである。
映画作家の張った伏線、とんだ長い年月を経て回収されたものであることよ。

ホットドッグ大食い度:★★★★★

(text:井河澤智子)



 『早春 デジタル・リマスター版』 
原題:Deep end
西独=英 / 1970 / 92分

監督:イエジー・スコリモフスキ

出演:ジョン・モルダー=ブラウン
   ジェーン・アッシャー

作品解説
学校をやめてしまったマイクは、公衆浴場で働き始める。そこで出会った年上の同僚スーザンに恋心を抱くが、スーザンに翻弄され、深みにはまっていく。

劇場情報
2018年1月13日よりYEBISU GARDEN CINEMAほかにて公開予定

公式ホームページ
http://mermaidfilms.co.jp/deepend/

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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子 Ikazawa Tomoko

本文中では省きましたが、この『早春』で使用された音楽について少しだけ。
監督は、ポーランド映画祭2017で上映後のトークで「イギリスとドイツのスタッフを使わなくてはならなかったので、キャット・スティーヴンスとCANを使った」とおっしゃっていましたが、ほぼ同時期の映画では、ハル・アシュビー『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971 アメリカ)でキャット・スティーヴンスの楽曲が使われていて、また、サミュエル・フラー『ベートーベン通りの死んだ鳩』(1972 ドイツ)でCANが使われています。スコリモフスキ監督は多分音にもこだわる人でしょう。音によって時代の空気がはっきりわかるものですね。

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2017年12月4日月曜日

第18回東京フィルメックス〜映画『ファンさん』text高橋 雄太

「死の扱い」


中国の小さな村において、ひとりの老婆ファンさんが息をひきとる。これは亡くなるまでの数日間、彼女と看取る家族たちを記録した作品である。

寝たきり、認知症のファンさんは一言も話さない。一方、息子、娘、孫ら家族はファンさんの周囲に集まり、賑やかに話し続ける。家族の者は、ファンさんが彼らの存在や呼びかけを理解していると語るが、実際のところ彼女が会話を理解しているかは不明である。だが、ファンさんは何かを求めるように細い腕を伸ばして娘に触れる。また、涙を流すファンさんをアップで捉えた長回しは、この映画の中でもひときわ美しいショットである。家族に囲まれて静かな最期を迎えたファンさん。死後、家族が日常に戻るところで映画は終わる。

ファンさんの様子と並行して、村の男たちが超音波を使って魚を獲る様子が描かれている。彼らは、捕まえた魚を無造作に容器に放り込み、包丁でさばき、食べる。その一方で、数日かけてファンさんの死を看取り、死後の法要も予定している。動物と人間とを同列に扱わない。そんな当たり前のことを、日常とファンさんの死との対比から確認することができる。


映画の視点も同様である。王兵(ワン・ビン)監督の作品では通常のことであるが、この映画でもナレーションはなく、ファンさんの略歴もラストに数行の字幕で説明されるだけだ。しかし一見冷徹な本作は、ワン・ビンと被写体との親密さに支えられてもいるようだ。監督は、健康だった頃のファンさんとその家族に知り合い、彼女が体調を崩してから本格的に撮影を始めたとのこと。狭い部屋の定点観測、ファンさんへのクローズアップなど、物理的にも心理的にも距離の近い映画である。見る者もワン・ビンの視点と家族の姿勢に同化していく。彼女のことを知らない私までもが、ファンさんの表情と死には厳粛さ、美しさを感じるようになるのだ。

いくつもの生命と死のうち、ファンさんだけを特別視する人々と映画、そして私。本作を見ることで、彼女の死に感情を揺さぶられる自分の姿勢も「特別扱い」なのだと知ることになる。筋肉の伸縮を「何かを求めるように細い腕を伸ばし」、眼窩からの液体の流出を「涙を流す」とみなして、何らかの意味を見出そうとすること。それが無自覚的な選択の結果であったことを自覚する。無論のこと、全てを同列に扱う必要もないし、人間の死に特別な感情を抱くのも当然である。そうした感情が実は根拠薄弱であること、だからこそ我々に理屈抜きで生じるもの、自然なものだとも言えるであろう。

(text:高橋雄太)


『ファンさん』
香港、フランス、ドイツ/2017年/87分

監督:ワン・ビン

第18回東京フィルメックス特別招待作品

作品解説
本年のロカルノ映画祭で金豹賞を受賞したワン・ビンの最新作。アルツハイマー病で寝たきりになり、ほとんど表情にも変化が見られない老女と周囲の人々をとらえ続ける。一つの死の記録にとどまらず、見る者に様々な問題を投げかけてくる挑戦的な傑作である。

作品紹介ページ(第18回東京フィルメックス 公式ホームページより)
http://filmex.net/2017/program/specialscreenings/ss06


〈第18回東京フィルメックス〉
■期間
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)(全9日間)※会期終了

■会場
A)
11月18日(土)~11月26日(日)
有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇にて

B)
11月18日(土)~11月26日(日)
 有楽町朝日ホール他にて

■一般お問合せ先
ハローダイヤル 03-5777-8600 (8:00-22:00)
※10月6日(金)以降、利用可

■共催企画
・Talents Tokyo 2017(会場:有楽町朝日スクエア)
・映画の時間プラス(期間:11/23、11/26/会場:東京国立近代美術館フィルムセンター)

■公式サイト
http://www.filmex.net/

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。第18回東京フィルメックスでは『ファンさん』の他に『暗きは夜』もよかったです。

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2017年11月23日木曜日

第18回東京フィルメックス〜映画『シャーマンの村』Q&A text岡村 亜紀子

 11月21日の上映がワールド・プレミアとなった『シャーマンの村』のQ&Aの模様をお届けします。司会は「ユー・グァンイー監督の作品が本当に大好き」だという林加奈子ディレクターです。

 始めに監督からのご挨拶があり、
「皆さん、こんにちは(日本語で)。
今日はこの映画を観て下さって本当に有難うございます。
この映画は2007年に、私自身の故郷である黒龍江省の五常県というところで撮影を開始して、撮影を続けて編集して完成し、今日こうして観て頂くまで10年の歳月がかかりました。
今回の東京フィルメックスにこうしてお招き頂いたことに心から感謝しています。フィルメックスに来るということは外国に出るような感じではなく、親戚のお宅にお邪魔したような感じがして、とても親しみを感じます。」
とお話されました。

 ユー・グァンイー監督作品の東京フィルメックスでの上映は、第8回の上映作品『最後の木こりたち』(2007)、第9回の『サバイバル・ソング』(2008)、第12回の『独り者の山』(2011)に続き、本作で4回目となります。

『シャーマンの村』

林ディレクター
今、私たちを親戚といって下さいましたけれども、画の中のシャーマンの村の方達が、カメラに対して凄くfamiliarというか親しい感じがします。
10年密着して撮ったというのはこういうことなのだなと感じたのですが、シャーマンの村の人々との出会いのきっかけについて、監督からご説明頂けますでしょうか?

ユー・グァンイー監督
この場所は中国の北方にあるハルピンから230キロ離れたところにあります。
26歳以前はこの辺りでずっと過ごしていました。
私の故郷の村は映画の中の村から8キロほど離れたところにあります。
この人達と知り合ったのは『最後の木こりたち』を撮っていた2004年の頃です。
それから彼らとお付合いするようになり、2007年の秋にこの作品を撮影することになりました。

(ここからは、会場からの質問となります。一部抜粋してお伝えします。)

Q.1
おそらく出演していた子供たちが貼ったのだと思いますが、シュー(出演したシャーマン)の家の中に台湾のポスターが貼ってあったのが、子供が去った後として映り、私にはとても印象に残りました。
監督の(故郷の)お近くの村にシャーマンの方が居たそうですけれども、中国には今もこうしたシャーマニズム的なことが沢山あるのでしょうか?

ユー・グァンイー監督
アリガト(日本語で)。
中国には他の地域にもこうした村が割とあります。
なかなか医療を受ける環境が十分に整っておらず、医療費も高い為、医者にかかれない時には彼らのようなシャーマンに頼んで病気を治してもらうという風習がまだ数多く残っております。
そういったわけで、シャーマンは村の人々にとって精神的な拠りどころとなっています。
私はこの映画の中で、神の導きに従って、人間がどう生きるかを表現したいと思いました。

Q.2
大学で映画を学んでいて、この夏ドキュメンタリーを撮りました。
カメラを動かすことがドキュメンタリーだと自由なので、対象が左右に動くと(カメラを)動かしてしまうことがあります。
また、光量などを考えて動かせなかったり、外へ出て行くことを回避したりもするのですが、監督の映画を観ていると光量などを超えて映す対象を追っているように感じました。
カメラを動かす決断はどういったところでしていますか?

ユー・グァンイー監督
映画が誕生して100年以上経ちますが、みんな映画を学ぶ為に古典的な名作を観て、映画に関する基礎的な本を読んできたわけでしょうけれども、私としては、テクニックはあまり重視をしていません。
映画を撮る上でより重要だと思うことは、撮る人の誠意であって、何を撮りたいかをいかに強烈に心の中に持っているかだと思います。

林ディレクター
有難うございます。
映画、お待ちしています。

Q.3
この辺りに住んでいるシャーマンの伝統を持つ人々は、何の民族なのでしょうか?
漢民族なのか、それとも他の民族でしょうか?
また精霊でキツネが出てきましたけれども、他の動物の精霊もよく出てくるのでしょうか?
基本的にはキツネだけなのでしょうか?

ユー・グァンイー監督
この村に住んでいる方達はみんな漢民族で、私自身も漢民族です。
シャーマンは漢民族よりも少数民族において歴史・風習があり、漢民族に伝わったのは後年になります。
もともとシャーマンは山東省や河北省で非常に多かったのですが、黒龍江省に入ってきたのはここ100年くらいのことになるかと思います。
シャーマンというのは動物の精霊と非常に関わりがあります。
映画の中に出てきたキツネや、そしてオオカミですね。
そのような精霊と交信することがあります。

Q.4
文化大革命の時に宗教はかなり弾圧されたかと思いますが、人間にはこういうものが非常に必要だと理解しています。
文革の時に、シャーマンはどのような扱いを受けたのでしょうか?
必要だから今のように(シャーマンの風習が)復活してきたのでしょうか?
それともずっと残っていたのでしょうか?
その辺りを文革という歴史と絡めてお聞きしたいです。

ユー・グァンイー監督
有難うございます。
中国に大変詳しいご質問ですね。
文革の時は、このようなものは一切禁止されていて絶対にあってはならないものでした。
当時のことは、あまりにも暗い時代だったのでもうあまり語りたくないですね……。
現在のところ、政府としてはシャーマンの存在や行いについては見て見ぬ振りで、そんなに反対も禁止もしないけれども奨励もしないという態度をとっています。
実際問題として若い人がどんどん都会に出て行き、村に残っている比較的お年をめしたシャーマンの方達もいまや少数になってきています。
それが現状です。
この映画を撮る時に、本当に色んな村の様子を目にしたわけですけれども、老人が段々と少なくなっていて、そして子供たちも(映画の中で)ああやってシャーマンの風習を見ています。
そういう風に子供たちによく見せて、大切にしていく風習であることも考えました。
様々なことが変わっていく中で、かろうじてシャーマンの風習があのように残っている、それをこの映画の中で描いたわけです。

Q.5
この村の人達はこの映画を観たのでしょうか?
観たとしたらどういった感想を持たれたのでしょうか?

ユー・グァンイー監督
この映画自体はまだ村の人達は観ていません。
以前の私の映画を観た村の人達は、非常に村の生活がリアルに撮られていることで、こうした生活を映像で記録することで、これからの子孫も観ることが出来て、代々受け継いでいくことが出来るととても喜んでいます。
彼らにとっては、映画というのは国の指導者のような偉い方達が観るものであり、都会に住む素敵な人達が観るものだと思っているようです。

林ディレクター
英語のタイトルが『Immortals in the Village』といいまして、最初DVDを送ってもらった時に「不死の村」と書いてあるけれど、(映画の中では)人がどんどん亡くなっていって……なんてアイニカルというか絶妙なタイトルだなと思ってシビレました。
後から、第17回東京フィルメックスの審査委員長を務めたトニー・レインズさんが(英語のタイトルを)つけたとお聞きして、「ああ、やっぱり」と思いました。
もう一つ舞台裏で聞いたお話で、「次回作について何か構想がおありになるんでしょうか?」とお聞きしたところ、驚きのニュースがあります。
ユー・グァンイー監督からお差し支えのない範囲で次回作について少しお話しして頂けたらと思います。

ユー・グァンイー監督
今(会場に)いらっしゃるトニー・レインズさんは私の本当にいい友人ですけれども、この映画の為に素敵な英語のタイトルをつけて下さって心から感謝します。
有難うございます。
トニーさん立ち上がって頂けますか?

(場内から暖かい拍手がおこりましたが、トニー・レインズ氏は笑顔で手を振るに留めていました。会場がとても和やかな空気で溢れました。)

林ディレクター
意外とシャイですね…!

ユー・グァンイー監督
私は故郷の村の周辺で、既に13年かけて4本の映画を製作してきましたが、村の人達を記録するという映画製作は、ここで一段落つけようと思っています。
今ご紹介に預かりましたけれども、次回作は劇映画で少し商業的な作品になるかと思います。
寒冷地で過ごす人達の苦しみや喜び……というみんなが持っている心の世界を描こうと考えています。
ある村で殺人事件が起こり、一人の人が殺されて、その殺人の真相が明るみに出るにつれ、最終的には……様々な非常にごちゃごちゃした事件がそこで一挙にバーっと爆発して起きる、というような映画です。

林ディレクター
新作が10年後ではなくて数年後に拝見出来るように楽しみにお待ちしたいと思います。
ユー・グァンイー監督、本当にどうも有難うございました。

 以上、和やかなムードで進んだQ&Aの模様をお伝えしました。
『シャーマンの村』は中国の寒村に住むシャーマン達とその周辺の人々の生活を、4年以上に渡って追ったドキュメンタリーです。映画の中で、シャーマンたちは歌と踊りを用いて精霊を呼び出し、ある時は病気になった村人の為に精霊の伝令役となって治療法を伝え、またある時は幼子の厄払いを行うなどする姿が映画に映っています。
 映画の中でたびたび映るシャーマンの風習は、多くの観客にとって馴染みの無いものであるでしょう。霊的なものを信じるかどうかや、本作への感じ方も人によって様々だと思います。
 一見別世界の出来事に思えますが、本作はシャーマニズムを通して、あくまで村の人々の生活というものを記録しているのだと思います。そこに、自分の環境とは違うかもしれないけれど、壁に貼られたポスターのようにどこか感覚的に繋がるところがあると感じました。また、現代に残っているシャーマンの風習を同時代に観ることにやはり意味があり、鑑賞を通して、自分の価値観や考え方の一端を感じることが出来るのではないでしょうか?
 

会場ロビーに飾ってあったポスター
 
(取材/文:岡村亜紀子)

『シャーマンの村』
Immortals in the Village / 跳大神 
中国 / 2017 / 109分 

監督:ユー・グァンイー(YU Guangyi) 

作品解説
中国東北地区の山間部の人々を一貫して記録し続けてきたユー・グァンイーが、寒村のシャーマンたちの生活を4年以上にわたって追った画期的ドキュメンタリー。それは人々が精霊たちと密接に暮らしていた時代の、近いうちに消滅してしまう文化の記録でもある。

作品紹介ページ(第18回東京フィルメックス 公式ホームページより)
http://filmex.net/2017/program/competition/fc07



〈第18回東京フィルメックス〉
■期間
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)(全9日間)

■会場
A)
11月18日(土)~11月26日(日)
有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇にて

B)
11月18日(土)~11月26日(日)
 有楽町朝日ホール他にて

■一般お問合せ先
ハローダイヤル 03-5777-8600 (8:00-22:00)
※10月6日(金)以降、利用可

■共催企画
・Talents Tokyo 2017(会場:有楽町朝日スクエア)
・映画の時間プラス(期間:11/23、11/26/会場:東京国立近代美術館フィルムセンター)

■公式サイト
http://www.filmex.net/

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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子:Akiko Okamura

某レンタル店の深夜帯スタッフ。

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2017年11月15日水曜日

映画『エクス・リブリス−ニューヨーク公共図書館』評text井河澤 智子

「余談だらけの図書館概論」


アメリカ、そして世界を代表する図書館、ニューヨーク公共図書館。
3館の中央図書館、市内各所に80を超える分館、2館の提携図書館を擁し、年間1800万人以上の来館者を数える世界屈指の規模を誇る機関であります。
※2012年。http://current.ndl.go.jp/node/23104
さて、皆さんは、図書館やそこで働く人々に対し、どんなイメージを持ってらっしゃいますか?映画好きにとっては『スパイダーマン』(2002)や『ゴーストバスターズ』(1984)、『ティファニーで朝食を』(1961)などにも登場する場所でもあります。豪奢な建築がたいそう目を引く、本好き建築好き映画好きにとっては是非訪れてみたい場所でしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=WJdEXb8bRQ0&feature=youtu.be


https://www.amazon.com/Nancy-Pearl-Librarian-Action-Figure/dp/B0006FU9EG

いるいるこんなおばちゃん!

なんだか春風亭昇太師匠に似たこのフィギュアですが、”libraryanlike”というと「ひっつめ髪で眼鏡をかけた女性」という意味になるそうです。
また、『スノーデン・ファイル 地球上で最も追われている男の真実』(日経BP社,2014)の原著301ページには「四角い、黒縁の眼鏡をかけ、もじゃもじゃの黒い髪の毛を耳のところまで伸ばしている。ライブラリアンで通るかもしれない風貌。」と表現された文章があるそうです。
※山本順一「公共図書館の課題と展望−日米比較図書館情報学的視点から−」(『桃山学院大学経済経営論集』第56巻4号,2015年)p.20.
見た目もそうですが、ドラマや映画の中にあらわれる図書館職員は、おとなしかったり、融通が利かなかったり、人より本が好きだったり、影があったり、どこからステレオタイプが出来上がったのかはわかりませんがそんな描かれ方がされがちです。図書館という施設そのものに対するイメージは……昨今の図書館をめぐる流れを観察する限り、言わぬが花でしょう。
※佐藤毅彦「2015年:図書館をめぐるメディアでの扱いとテレビドラマ『偽装の夫婦』」(『甲南国文』第63号,2016年)p.152-139
 山口真也「漫画作品にみる大学図書館員のイメージ 〜「図書館の自由」を中心に〜」(沖縄県大学図書館協議会配布資料,2002年)

さて。
「New York Public Library」。しばしば「ニューヨーク市立図書館」と称されますが、市立ではなく、私立です。法人であり、主な財源は民間からの寄付です。「Public」とは「一般に開かれた」という方のパブリック。私立なのにパブリックスクール、というような使い方ですね。

しんとした静けさ。黴くさい本の匂い。ページをめくる音。
そのような光景を脳裏に描きつつ、フレデリック・ワイズマン『エクス・リブリス− ニューヨーク公共図書館』を観ると驚くと思います。
ワイズマンの作品には、「ナレーション」「テロップ」「インタビュー」「音楽」はありません。『エクス・リブリス− ニューヨーク公共図書館』も例外ではなく、我々観客は、なんの説明もないまま図書館の日常に放り込まれ、ただ観察し、体験することを強いられます。そして次第に観客の目には「図書館という場」に集う人々、そして彼らの現状が浮かび上がってくるのです。

利用者からの電話質問に答える職員。質問の内容は相当難しく、これを口頭で的確に回答するには高度な知識が要求されるでしょう。
子どもの学習支援クラスがあります。
仕事の探し方をレクチャーする就職支援。仕事を求める人々と、人材を求める人々とのマッチングも行われています。
英語が得意ではない利用者にパソコンの使い方を教える職員がいます。
作家を招いての講演会があります(大盛況!)
素晴らしい演奏会も行われます。(行きたい!)
お年寄りへのダンスレッスンクラスがあります。
美術学生に、写真資料の探し方を教える講座も。写真なんてどうやって分類するんだと思いましたが、確実にルールに則って分類され、検索しやすくなっています。
そして、「いかにして予算を獲得するか」について熱く討論する職員たちがいます。運営予算というものは「存在価値をアピールして、全力でもぎ取ってくる」ものなのです。死活問題です。プレゼン能力が問われます。まさにTEDです。図書館はおとなしくては生き抜いていけません。

図書館は、人々が生活するための情報を手に入れるインフラを提供しています。具体的に言えばパソコンやインターネット、外でも利用できるWi-Fi。ハードとソフト両方を提供しているのです。それは学習のため、仕事を探すため、目的はさまざまです。
図書館は子どもたちの保育を担い、読み書きを教えます。子どもたちへのサービスと同じように、お年寄りへのサービスも欠かせません。
もちろん、読書の機会も提供します。なんだかんだ言っても書籍の形はなかなか変わりません。古い新聞や雑誌など、劣化して失われやすい資料は、マイクロフィルム……いや、もはやマイクロフィルムすら古いメディアと言えるでしょう……デジタル化され、オンラインで利用できるようになりつつあります。その作業に従事する職員の姿も映し出されます。

現在、アメリカの公共図書館には、従来の図書館の役割を超え、地域に必要なサービスを総合的に提供することが求められています。
学習塾、職業安定所、保育所、公民館、文化施設、文書館。地域に暮らす人々に必要な機能がすべてここに集約されているかのようです。
たまたまニューヨーク公共図書館は、「担う地域」が大きいので求められる機能も多岐にわたりますが、これはどうやらアメリカの公共図書館界に共通する流れであるようです。このような図書館の機能の変化を、関係者は合言葉のように「図書館は成長する有機体である」(インド図書館学の父ランガナタン「図書館学五原則」の5)と呼びます。
元々、図書館の機能は資料の保存・収集が主なものでした。資料がどんどん増え、整理され、体系化されることをこのように表していたのですが、施設に求められる機能が変わりつつあることを受け、再定義を模索されている言葉です。
※佐藤和代「図書館再考」(『情報管理』第58巻11号,2016年)p.849−852.
 
ここで、「図書館で働く人々」について少しだけ説明をしたいと思います。なぜなら、ここに映し出される図書館の職員は、日本で「司書さん」と呼ばれる人々とは少し背景が異なるためです。
まず、日本で「司書」とひとくくりにされている資格ですが、アメリカではいくつかの階層に分かれています(厳密には、日本にも司書の補助として「司書補」という資格も存在するのですが、司書補の資格で図書館で働く人々は現状それほど多くはないと思います)。
アメリカの場合、(専門職)ライブラリアンに要求されるのは、修士の学位、さらにアメリカ図書館協会認定のライブラリースクールを修了していることが求められます。また、ライブラリアンを支援する一般的図書館職員(ライブラリーテクニシャンまたはアシスタント)にも修士の学位が求められます。
日本の司書資格は、大学で司書課程の単位を履修し卒業するか、司書講習を受講することで取得できます。司書講習の場合は短期間でかなりの勉強量を要求されますが、ほとんどは大学で資格が取れるため、大学ごとにかなりばらつきはありますが、概ね「取りやすい」資格だと思われます。
このように、「ライブラリアン」と「司書」はイコールではありません。
アメリカのライブラリアンまたはアシスタントには、それぞれ研究分野があるのです。そのため、例えば「19世紀、ある人物がどの船でアメリカに渡ってきたのか」というような難題にも適切なヒントを与えられますし、古く脆い資料の修復・デジタル化にも当たることができるのです(実際のところは州によってはその辺りは柔軟に対応されているのかもしれません。なぜならアメリカの場合、かなりの地域差があり、条件に合致する人材がそもそもいない、ということもあるからです)。
さらに、「図書館友の会」に会費を納め、無償あるいは低報酬のボランティアとして運営に参加する人々も多いようです。
※山本順一『日米比較にうかがえる社会的制度としての公共図書館の現在と近未来の盛衰』(『情報の科学と技術』第66巻2号,2016年)
http://current.ndl.go.jp/series/no40

従来の図書館の範囲を超えた様々なサービスは、もちろん保育士や、教員、介護士など、従来の「ライブラリアン」とは違った職能が求められることでしょう。文献の調査が間に合いませんでしたが、従来、図書館には「より専門的な機関を利用者に紹介する」といった機能もありましたので、ひょっとしたらそれらが発展した協力体制をとっているのかもしれません。この映画からはそれらのことはうかがえません。
また、図書館が提供するサービスのうち、未だ最も大きな役割を占めるのは「資料の貸し出し」です。返却されてきた大量の資料は、機械によって振り分けられ、最終的には人間の手で元の位置に戻されます。資料の返却処理とは、様々な図書館サービスの下支え、最も基本的な部分。そこを担うのは、画面で見る限り移民と思しき男性です。
先ほど、図書館で働く人々の高度な専門性について述べました。しかし、この「貸し出し返却」などの地味な作業は誰が行っているのか。簡単に探した程度ですが、それについての研究は見つかりませんでした。

そして利用者たちはどうでしょうか。
例えばパソコンのレクチャーを受けたり、Wi-Fiを借りに来たり、仕事を探したりなど、それらのサービスを受ける人々は、画面を見る限りアジア系、アフリカ系などが多いのではないか、と感じました。もちろん、英語が不得意な利用者に対しては、彼らの言語がわかる職員が対応し、スペイン語での質問には、スペイン語が出来る職員がいました。そして、子どもたちへの学習支援は、子どもたちはおそらくヒスパニックやアフリカ系。指導する職員もそうでした。学ぶためのインフラを自力で用意することが困難な人々の受け口として、図書館は求められ、機能しているとも考えられます。
これが、現状かもしれません。図書館は社会からこぼれ落ちそうな人々のために様々なプログラムを用意します。そして、その図書館の精力的な仕事の裏で最も地味な仕事を担うのは、現在のところ彼ら移民たちなのかもしれません。
ここに、ワイズマンの目を通した、ニューヨーク公共図書館の現在があります。

「ファセット」という言葉が思い浮かびました。
多義的な言葉ですが、「物事の、ある面」または「宝石のカット面」などの意味があります。図書館という巨大な塊をさまざまな面から執拗に観察したその視線。まさに、ひとつの「成長する有機体」としての質量感がまざまざと感じられた、この作品。

実は「ファセット」は図書館用語としての意味もあるのでした。偶然にも。

(text:井河澤智子)

参考文献

・山本順一『アメリカの公共図書館のひとつのイメージ − コミュニティに寄り添う図書館』(桃山学院大学経済経営論集』第56巻3号,2015)

・山本順一「公共図書館の課題と展望−日米比較図書館情報学的視点から−」
(『桃山学院大学経済経営論集』第56巻4号,2015)p.17-41.

・山本順一『日米比較にうかがえる社会的制度としての公共図書館の現在と近未来の盛衰』(情報の科学と技術』第66巻2号,2016)p.13-35.

・カレントアウェアネス・ポータル『米国の図書館事情2007−2006年度 国立国会図書館調査研究報告書』(図書館研究シリーズNo.40) 
http://current.ndl.go.jp/series/no40

・佐藤毅彦「2015年:図書館をめぐるメディアでの扱いとテレビドラマ『偽装の夫婦』」
(『甲南国文』第63号,2016年)p.152-139.

・山口真也「漫画作品にみる大学図書館員のイメージ 〜「図書館の自由」を中心に〜」」
(沖縄県大学図書館協議会配布資料,2002年)

・佐藤和代「図書館再考」(『情報管理』第58巻11号,2016年)p.849−852.




『エクス・リブリス − ニューヨーク公共図書館』
原題:Ex Libris - The New York Public Library
2016年/205分/アメリカ/英語

監督:フレデリック・ワイズマン

作品紹介ページ(山形国際ドキュメンタリー映画祭ホームページより)
https://www.yidff.jp/2017/ic/17ic05.html

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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子:Ikazawa Tomoko

この作品を観るために山形へ行ってきました。
図書館員のタマゴと思しき、ちょっと「映画マニア」とは雰囲気の違う若者がたくさんいた気がするのですが、
あの熱さをもって図書館員になってしまったら早々に燃え尽きてしまうのではなかろうか。
なにごともほどほどが肝心。
まぁ司書資格の講義にはこの映画観せて2単位でいいと思います。
「本好きだね」と言われることが多い仕事ですが、本好きには絶対お勧めしない仕事です。
われながら身も蓋もないことを言うね!

ちなみにアメリカ最大の図書館は、アメリカ議会図書館(Library of Congress)です。
もっとどうでもいいことを言いますと、大英図書館(British Library)の略称は BL です。
慣れないうちはちょっとそわそわする略称です。

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2017年11月9日木曜日

映画『女神の見えざる手』評text長谷部 友子

「自らを救った女」


エリザベス・スローン。天才ロビイスト。真っ赤な口紅、一流ブランドの服とハイヒールがよく似合う完璧な美貌。彼女は眠りたくない。毎日深夜まで営業する質素な中華料理屋で食事をし(本当は錠剤で済ませたい)、プライベートの時間をもたず、恋愛はエスコートサービス。 すべての時間とエネルギーを仕事に注ぎこむ。つまり勝つことに。

大手ロビー会社に身を置くエリザベス・スローンは、銃擁護派団体から女性の銃保持を認めるロビー活動で、新たな銃規制法案を廃案に持ち込む仕事を依頼されるが、自らの信念に反すると断る。上司は大口顧客の要求に応じないのであればクビだと告げるが、エリザベスは銃規制に賛成の立場をとる小さなロビー会社に移籍し、かつての同僚と銃規制法案をめぐって熾烈な駆け引きを繰り広げる。

ロビイストとは世論を動かし、マスコミを操作し、国を動かす政治的決断に関与する戦略のプロだ。彼らの至上命題は勝つことで、モラルや常識を求めることは無意味だ。中でもエリザベスは徹底している。勝つために裏の裏を読み、敵のみならず味方をも騙し、仲間の命を危険に晒す冷徹な仕事ぶりだ。

大手ロビー会社を辞めてまで銃規制法案の成立に尽力する彼女に対し「親しい人に銃犯罪の被害者がいたのね」と訳知り顔に語りかける面々に、彼女は「そんなものはない」と言う。銃犯罪の生き残りであるとか、誰もが納得するお決まりの過去がなければ信念を持つことは許されないのか。「どんな異常者でも店やネットで銃が買える」。上司に依頼を断る際に言ったその言葉が、それ以上でもそれ以下でもなく、信念とはクリアなシンプルさにこそ宿るものなのに、どうして情緒的な過去のトラウマを必要とするのだろうか。

肉を切らせて骨を断つではないが、自分自身すら道具にした彼女の策略による鮮やかすぎる大どんでん返しは、ややもすれば映画的なご都合主義と言われてしまいそうだが、それでも爽快で見事だ。

それにしても一体彼女は何に勝ったのか?
自分をクビにしたかつての会社か、銃擁護派団体か、愚かな世論か、それとも。
重度の不眠症、30分に3回トイレに立って精神安定剤と思われる薬をフリスクのように飲む彼女は遅かれ早かれ破滅していた。だから本当に破滅するその前に、自らを強制終了させることにより、勝利依存症ともいうべきその生き方を終わらせ、彼女は生きながらえることを選んだのではないだろうか。 彼女は自らを救いたかった。いや救いたかったなんてものではない。誰も救ってくれない自分を自ら救うしかなかった。

狂乱の勝利依存症の季節は終わり、彼女は救われたのか。人間はそう簡単には変わらない。凄まじい刺激と快楽と、それでしか感じられない肉体と精神が容易に順応するはずもない。欲望は何度だって訪れるだろう。あらゆるものを賭して闘い、上り詰めて果てたいというその欲望を前に、けれど彼女はぎりぎりのところで、自らの破滅すらも織込み済みの博打によって生き長らえるのではないだろうか。生きられるのであれば、何回だって破滅すればいい。苛烈に自らを救うエリザベス・スローンの一手は、やはりあまりに鮮やかだ。

(text:長谷部友子)


『女神の見えざる手』
 2016年/132分/フランス、アメリカ

監督:ジョン・マッデン

公式ホームページhttp://miss-sloane.jp/

劇場情報
10月20日よりTOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。

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2017年11月3日金曜日

第30回東京国際映画祭〜映画『ライフ・アンド・ナッシング・モア』評text岡村 亜紀子

「人生の契機」 


 主人公アンドリューの顔は、そのほとんどにおいて表情に乏しい。しかし彼の顔は、シーンと共に雄弁に彼の心情を語り、またある時は感情を隠し、不穏な空気を感じさせる。

 あるアフリカ系アメリカ人の家庭の物語だ。家族はヒップの大きいシングルマザーの母、14歳の息子アンドリューと3歳の小さな妹で構成され、アンドリューの父は服役中である。
 法保護観察中でありながら軽犯罪を犯したアンドリューは、義務であるカウンセリングを受けていないと検察から追求を受ける。そうした彼の姿勢について「知っていましたか?」と問われた母親は、責任を逃れるように「わたしには行っていると言っていた」と答え、彼に対する諦めとも取れるような怒りを表す。
 アンドリューは母が仕事(レストランでのパートタイムジョブ)から帰るまでの間に、妹の食事や風呂の面倒をみて、洗濯をし、妹に絵本を読んでやる。しかし帰宅した母親は、台所を見て、「なんでこんなに洗い物をためたの? 友達でも呼んでパーティーでもやった?」と怒る。アンドリューは小さな声で、「していないと」答えるもイライラとタバコに火をつけた母親は、洗い物をするアンドリューに対してなおも食いつきそうな空気をまとって威圧するかのようだ。
 彼はいつも母に対して気弱であるのに対し、母親はいらだちと怒りを彼にぶつけすぎている。しかし彼女は彼をないがしろにするわけではない。彼がこのままではいつか死ぬような目にあわないか案じ、ストリートから離そうとしているんだと、大人は言う。母と子に欠けているのはコミュニケーションなのである。

 彼にはアドバイスをする黒人の大人が周りにいる。むかし悪さをしていたブラザーは、警察に取り締まりを受けたエピソードをジョークを交えて語った上で、「なんでもいいから好きな事を一生懸命やるんだ」とさとす。一方スクールカウンセラーは、「放っておけばお前は犯罪者になる」と言う。
 染まり易く、多感な10代の少年にとって、彼の置かれた環境は厳しい。ランチタイムに学校で同級生たちがにぎやかに食事をする場面で、林檎をもくもくとかじる彼の姿に、逃げ場のなさを思う。

『ライフ・アンド・ナッシング・モア』

 登場人物の多くが黒人の本作で、彼に向けられる言葉は厳しい家庭環境の黒人の少年がいかに道を踏み外しやすく、危ういかを示している。母のいらだちを受けているアンドリューが、妹がナイフを手にした時に、危ないからと咄嗟にぶってしまうのも、後に彼がナイフを手にし、それを身につけ、結果としてより一層厳しい立場に立つ事になってしまったことも彼だけの責任とは言えないだろう。

 母親の「わたしはそばにいる。けれど生きるのはあなたよ」という言葉も、アンドリューには厳しく突き放されたようにしか聞こえないのかもしれない。彼女は朝と夜、パートタイムで働きながら二人の子供を養っている。仕事が長続きしないらしく安定した暮らしではない。それがいかに不安で大変な事か、そして彼女が働く為には幼い娘の面倒をみる息子の存在が必須だった。母という柱が折れても、息子の存在がなくても立ち行かぬ暮らしの中に母の恋人が入って来て、あることをきっかけに恋人とアンドリューが対立する。母親は息子を恋人から守るが、その時それが彼の救いにはならない。

 彼にはもっと他に、救いの手が必要だったのだろうか? ところで、本作では祈りの場面があり、神の慈悲によって物語がふと好転しそうな、アンドリューと偶然居合わせた白人の男性から救いの手が差差し伸べられるか? と一瞬思わせる場面があるのだが、その人物がきっかけで彼は窮地に陥ることとなる。
 アンドリューが刃を人に向けた行いの結果に、温情が与えられる事はなかった。彼がまだ14歳の少年でもあるに関わらず、その心情は理解や容赦を受けずに、母親の懸命の努力のかいなく、彼の行いは結果として人に刃を向けた事実のみによって、家族にとって厳しい結論がくだされる。しかしその事実が、彼らが現実と向き合い、お互いと向き合うコミュニケーションのきっかけとなっていく。

 本作でキャメラが人物の顔をクローズアップする時、改めて彼ら個々の存在が観客に刻まれるような心地がし、彼らを形成するマインドが感じられた。生活感に満ちた映像と、アンドリューだけではなく彼の家族が置かれた厳しい現実をそのままに紡ぐリアリスティックな物語において印象的に映った。それは、映された顔を通して感じるヒューマンマインドが、状況を変化しうる唯一の可能性であるからであろう。

 ラストシーン、アンドリューが見詰める先にいる観客に背を向けた人物の姿。わたしはその人物の顔をみることが出来ない。しかし、アンドリューの表情の変化に一寸の光を感じる。

(text:岡村亜紀子)


「ライフ・アンド・ナッシング・モア」
原題:Life and Nothing More 113分/カラー/英語/ 2017年/スペイン・アメリカ

監督:アントニオ・メンデス・エスパルサ

作品紹介ページhttp://2017.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=121

第30回東京国際映画祭

期間:2017年10月25日(水)〜11月3日(金・祝)
会場:六本木ヒルズ、EX-THEATER六本木(港区)他都市内の各劇場及び施設・ホール
公式ホームページhttp://2017.tiff-jp.net/ja/

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【執筆者プロフィール】

 岡村亜紀子:Akiko Okamura

1980年生まれの、レンタル店店員。勤務時間は主に深夜。

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2017年10月28日土曜日

映画『ミスムーンライト』評text成宮 秋祥

『ミスムーンライト』と『ムーンライト』に共通する“新しい魂”について


今年に発表された第89回アカデミー賞は、これまでのアカデミー賞とは比較にならないほど大きな話題を呼んだ年だった。最多となる14部門ノミネートを果たしたミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』(2016)が、当初は作品賞の最有力とされていたが、アメリカ映画でもタブーとされている同性愛をテーマに、オール黒人キャストで製作された低予算のインディペンデント映画『ムーンライト』(2016)が作品賞を受賞したからだ。

『ムーンライト』は、一人の黒人男性の少年期と青年期、そして成人期を3つの章として分けて、それぞれの時代での黒人男性の心理の行方を繊細に描いている。あまりにもこじんまりした小さな世界の出来ことをカメラに収めた『ムーンライト』は、ハリウッドのメジャー映画会社が製作する映画のような華やかなイメージとは無縁な、明らかにインディペンデント映画らしい雰囲気の小品である。

『ムーンライト』は、 本来はアカデミー賞と縁の遠い映画でもあったように思われる。アメリカ映画でもタブーとされている同性愛をテーマにしているのもその理由の一つだ。しかし、ここ数年続く白人俳優ばかりがアカデミー賞にノミネートされる、いわゆる“白すぎるオスカー”を払拭するように、『フェンス』(2016)や『ドリーム』(2016)など黒人俳優が出演する映画が複数好評を博したということと、反トランプを象徴するメッセージ性が第89回アカデミー賞には込められたこともあり、結果として、アカデミー賞とは一番縁の遠そうな『ムーンライト』が作品賞を受賞した。

インディペンデント映画の強みは、自由な発想で映画が製作できるところにある。資金繰りや宣伝なども限られた条件の中でやっていくので製作者側の負担が多い面も確かにあるが、何にも縛られることなく自由に映画製作ができること自体は、多くの映画作家が求める環境のように思われる。『ムーンライト』のアカデミー作品賞を受賞した同じ年に、日本でも自由な発想のもとに意欲的なインディペンデント映画が上映されることとなった。松本卓也監督による『ミスムーンライト』である。

『ミスムーンライト』の製作のきっかけは至極単純である。松本監督の『グラキン★クイーン』(2010)や『花子の日記』(2011) のプロデューサーから、「若手の女優やグラビアアイドルを多数キャストに起用した映画を水着ありで撮れないか?」という話を受けたのがことの発端だという。この条件が守られれば、あとは自由に創作してよいという状況にいたった松本監督は、オリジナル脚本を自ら執筆し、映画製作にとりかかった。

物語は、地方の高校に通う女子高生たちが、地元のPR映像を製作していくところから始まる。高校の映像部に所属するマキは、PR映像の出来が平凡で面白くないことに不満があり、撮り直すことにする。そして、新しい企画案を閃いたマキは、映像部員たちや顧問の教師を説得し、春休みの合宿で再撮影を行うことになる……。

本作は、アイディアありきの映画である。つまり、水着を着た女優やグラビアアイドルを出演させることが先んじていて、物語や登場人物の設定は、後からつけ足されたものといえる。そのため、登場人物の行動はどこかぶっ飛んでいる。主人公のマキが、なぜ地元のPR映像に水着を着た人たちを撮ることに拘ったのだろうか。具体的な目的やビジョンが不透明で、何となくマキが狂った人にしか見えない。また、マキたち映像部の撮影に協力する元映像ディレクターの博和も、海辺で水着を着た女性の幻にうろたえたり、叫んだりと様子がおかしく描かれる。マキにしても博和にしても、そのような行動をとる理由があるにはある。しかし、ことの真相が分かってもドラマのボルテージは一向に上がっているようには思えず、むしろ緩いムードのままである。ほとんど確信犯的に一貫して緩いムードのまま、映画は大勢の水着の女優をスクリーンに映す方向に持っていく。ドラマなんてあるようでない。あくまで、水着の女優たちの視覚的なインパクトで魅せようとする映画となっている。

これでは、大勢の水着の女優を眺めるのを楽しむ映画に過ぎないように思えてくる。観客に娯楽を提供するという意味では、その試みは間違ってはいないといえる。では、映画としての見応えはないのかというと、必ずしもそうとは言えない。思わず感動を覚える映画には、ある共通点が存在する。それは、映画に信念が込められているかどうかだ。この映画には信念がないのだろうか。しかし、マキたちの行動に一貫した信念があることに気づく。彼女たちは、地元のPR映像のために水着の女優たちを撮るのではなく、自分たちが面白いという映像を描くために水着の女優たちを撮っているということだ。

マキたちの面白い映像を撮ろうとする信念は、自由な発想によってオリジナリティ溢れる映画を撮ろうとする松本監督の信念の投影といえる。過去のインタビューにおいて、松本監督は、予算のある商業映画に対抗できるのは、自由な発想で生み出されたオリジナリティのある映画だと語っている。こうして考えてみると、一般にいう地元のPR映像が予算のある商業映画で、水着の女優たちを集めた映像が自由な発想で生み出されたオリジナリティのある映画であると、対比して観ることもできる。マキたちのぶっ飛んだ行動は、ある意味で松本監督の生き様そのものなのかもしれない。

何者にも縛られずに自分たちの面白いと思った映像を最後まで撮り上げたマキたちの笑顔には、このまま上手くいくかもしれないという根拠のない希望が漲っている。役所から水着の女性を出すことを強く批判されたり、地元の人たちから水着で出ることを拒否されたりしながらも、自分たちの面白い映像を撮りたいという思いを貫いて、プロの女優を呼び出して、地元の人たちを再説得して、誰もやりそうにない周囲から驚かれる企画を最後まで諦めずにやり切ったのだから、良いも悪いも関係なく、マキたちの意志の強さに、只々凄いと、思わず唸ってしまう。冒頭でも述べたが、インディペンデント映画は予算もないし、製作者側の負担が大きいながら、色々な縛りが存在する形式の完成された商業映画の枠(本作でいうところの地元のPR映像)に縛られず、自分たちの撮りたいものを撮れる。それこそが商業映画のように感動の図式が完成された映画ではなく、作り手の自由な発想によって生み出された、思わず感動してしまう可能性を秘めたオリジナリティのある映画である。このような映画には、生命力に満ち溢れた新しい魂を感じる。この新しい魂を持った映画は、時に大きな奇跡を起こすことがある。アカデミー賞向きではなかった『ムーンライト』が作品賞を獲ってしまったように。『ミスムーンライト』もまた、この新しい魂を持った映画だ。今後どのような奇跡が起きてしまうのか、期待が高まる。

(text:成宮秋祥)



『ミスムーンライト』
 2017年/120分/日本

監督:松本卓也

公式ホームページhttp://miss-moonlight.weebly.com/

劇場情報
全国順次公開中

シネマート新宿にて、11月4日(土)~11月10日(金)レイトショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akihiro Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneo web、映画みちゃお!、THE RIVER寄稿)。

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2017年10月24日火曜日

東京国際映画祭ラインナップ発表会~東京グランプリの行方2017~text藤野 みさき

 © TIFF 2017

 1985年に幕をあけ、早32年。東京国際映画祭は本年で節目の第30回を迎え、現在はアジア最大の映画祭として一歩ずつその歴史を歩み、築きあげてきた。「六本木」ということばを聴くと、映画祭で出逢った大切な映画に想いをはせるひともきっと多くいらっしゃると思う。六本木の地を歩き風に吹かれるたび「今年もまたここに戻ってこられた」という嬉しさが、いつも私の胸を高揚させる。

『最低。』で主演を務めた森口彩乃さん © TIFF 2017

 毎年本映画祭の中で最も注目を集めるのが、最高賞の東京グランプリをきめる「コンペティション部門」である。昨年、プログラミング・ディレクターである矢田部吉彦氏が述べていた「本年度ほど社会問題を扱ったことはない」ということばが非常に印象的であったのだが、昨年の社会という大きな主題から、本年度は個人に焦点をあてる映画が多く並んだ。矢田部氏いわく「女の一生、男の一生」という副題がふさわしいという、本年度のコンペティション部門。どのような生きざまが描かれるのか、選出されたひとつひとつの作品をみてゆきたい。

『マリリンヌ』© Thierry Valletoux Ressources

 まず、フランスからは二本の映画がノミネート。ひとつめは、女優の道を歩もうと努力をする女性を描いた『マリリンヌ』が選出。監督は現在の仏映画界でひっぱりだこの、秀才ギヨーム・ガリエンヌ。俳優としても活動をするガリエンヌであるが、近年では『イヴ・サンローラン』のピエール・ベルジェ役、と言うとピンとくる方も多いのではないだろうか。監督の描く女性の生き方に注目があつまる。
 ふたつめは、『アメリ』ファンの皆さま、お待たせしました! 『アメリ』の風変わりな青年、ニノ役で女性たちのこころを魅了して約16年。仏映画ファンには堪らないマチュー・カソヴィッツ待望の主演最新作『スパーリング・パートナー』が上映される。盛りを過ぎた二流のボクサーが、自身のため、家族のためにふたたびリングにたつことを決意する。本年50歳を迎え、さらに渋みを増したカソヴィッツの演技は必見だ。


『ナポリ、輝きの陰で』© Tfilm 2017

 続いておとなりイタリアからは、『ナポリ、輝きの陰で』が選ばれる。低所得者の生きるナポリの世界のなかで、娘の天性の歌声に希望を託し、現状を打破しようと葛藤する父の姿を描く。昨年の東京国際映画祭で『ブルーム・オブ・イエスタディ』が見事東京グランプリに輝いたドイツからは、ニュー・ジャーマン・シネマより名実ともにキャリアを築きあげてきた、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の最近作『さようなら、ニック』が上映される。女性を描くことに非常に定評のあるトロッタ監督が、本作では華やかなモードの世界で火花をちらす女性たちを鮮やかに描きだす。
「ここは平穏の地(グッドランド)のはずだった……」そんなキャッチコピーが印象的なのは、ルクセンブルク映画の『グッドランド』。ある農村にやってきた男が、町の異変に気づき始めるとき、その先には驚きの展開が待っている……。謎が謎をよぶ、一風変わった奥深いスリラーである。

『シップ・イン・ア・ルーム』© Front Film

 北欧からは、フィンランド映画『ペット安楽死請負人』がノミネート。表向きは自動車修理工として仕事をしているが、裏の顔は、動物の安楽死を請け負う男。あるとき殺さなければならない犬を生かして自らのペットにしたがために、男の運命が、因果の歯車が狂いだす。クリント・イーストウッドや、チャールズ・ブロンソンを愛する監督が描くハードボイルド映画である。そして東欧ブルガリアからは『シップ・イン・ア・ルーム』が選出。「映像の力、そして映画の力を改めて認識させてくれる。映画ファンのこころに沁み入る作品ではないでしょうか」と矢田部氏も称賛の、非常にあたたかく、そして希望の込められているという本作に注目をしたい。

『グレイン』© KAPLAN FILM / HEIMATFILM / SOPHIE DULAC PRODUCTIONS / THE CHIMNEY POT / GALATA FILM / TRT / ZDF / ARTE FRANCE CINEMA 2017

 続いて、オタール・イオセリアーニ監督や、テンギス・アブラゼ監督などの作品にて映画ファンにはおなじみの国、ジョージア。そんなジョージアから届いたのは、癒しの泉を守る一家を描いた『泉の少女ナーメ』という作品だ。癒しの泉を守る少女、ナーメがあるとき大きな選択に迫られる。ジョージアの山岳地帯を背景にした息をのむ映像美も必見である。
『カランダールの雪』『ビッグ・ビッグ・ワールド』とここ数年必ずコンペティション部門に選ばれている実力派国であるトルコ。本年度は、『雪の轍』のヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督とともにトルコが誇る巨匠、セミフ・カプランオール監督の『蜂蜜』以来、実に7年ぶりの最新作である『グレイン』が選ばれた。自然のなかでしっとりと少年の心情が描かれていた『蜂蜜』とは打って変わって、本作『グレイン』は近未来を舞台にした、SFのモノクローム作品である。人類を救うため、あるひとりの教授が命をつむぐ「麦の粒」を探しもとめる旅に出る。自然を描いてきたセミフ・カプランオール監督が、どのような近未来を描くのか。その作風に期待が高まる。

『ザ・ホーム父が死んだ』© Iranian Independents

 そして、記憶にあるひとも多いであろう、本年度のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した、アスガー・ファルハディ監督の『セールスマン』。イラン映画はその質の高さから、いま最も勢いのある映画大国のひとつとして世界中から熱いまなざしが注がれている。本年度は『ザ・ホーム—父が死んだ』がノミネート。父の訃報を受けた娘が、数年ぶりに実家へと帰省する。がなりあう家族との会話を通じて登場人物の心理や様々な問題を炙り出す、スリリングな映画となっている。
 カザフスタンからは、現在注目の女性監督のひとりである、ジャンナ・イサバエヴァ監督の『スヴェタ』が選ばれた。耳の聴こえないろうあの女性が、突然彼女の働く工場からリストラを受けてしまう。家族のためにも職を失うことはできない彼女は、ある行動に出る……。ほぼ全編が手話の本作。その表情、まなざしの奥に潜む感情は何をものがたり、訴えようとするのか。スヴェタは、悪女なのか、それとも、不況を乗り越えてゆこうとする、たくましい女性なのだろうか?

『アケラット—ロヒンギャの祈り』© Pocket Music, Greenlight Pictures

『タレンタイム~優しい歌』『細い目』など、数多くの名作を世に送り出した、ヤスミン・アフマド監督の映画などにより、日本でも馴染みのある国のひとつとなったマレーシア。マレーシアからは、エドモンド・ヨウ監督の『アケラット—ロヒンギャの祈り』が上映される。副題からも示されるように、本作はロヒンギャの難民を背景として描いている。主人公の女性がロヒンギャの移民に対して残虐行為をするビジネスに関わるという過酷なものがたりを主軸に、彼女のラブストーリーを絡めながら、現在の社会問題を提起する映画となっている。
 中国からは、ドン・ユエ監督長篇第一作目である『迫り来る嵐』が選ばれる。忘れられゆく工業地帯を舞台に、ある事件の捜査にのめり込んでゆく警備委員の男。ものがたりが進むにつれて正気と狂気の境界線が曖昧になってゆく……。非常に迫力のある、中国ノワールである。

『最低。』© 2017 KADOKAWA
 最後に日本からは、ふたつの映画がノミネート。
 一本目は、瀬々敬久監督の最新作『最低。』。「瀬々監督の作品をお迎えできることを本当に嬉しく思います」と矢田部氏も喜ばしく述べた本作は、アダルトビデオ業界を背景にした、三人の女性の姿を真正面から描いた作品である。本作のAV女優を演じるにあたり、主演を務めた森口彩乃さんは、「アダルト業界に足を踏みいれる主婦の役ということで、あえて何もポルノ映画などを観ることはありませんでした」と記者会見のとき、その役づくりについて述べた。三人の女優たちの演じる女性像に注目である。
 二本目は、「この恋、絶滅すべきでしょうか?」というキャッチフレーズに思わず惹かれてしまう『勝手にふるえてろ』。松岡茉優さんの魅力が画面いっぱいに溢れている本作は、ふたりの彼氏(?)の間を揺れうごく女性を描いたロマンチック・コメディだ。本年度のコンペティションの中でも、おそらく最も明るい元気な作品が最後に花を添えた。「タイプはまったく違うのですが、今年の日本映画を代表する二本をコンペティションにお迎えできたことを、とても嬉しく思っております」と、最後に日本映画への感謝のことばを添えて、矢田部氏は本年度のコンペティション部門の紹介を締めくくった。

 さあ、いよいよ明日東京国際映画祭が開幕する。
 これからおとずれる十日間は、どんな夢の日々が待っているのだろう。あたらしい映画との邂逅や、映画人から受ける薫陶。映画がみせてくれる人生への美しい時間とその日々に、感謝をして。

(text:藤野みさき)

【コンペティション部門作品解説】
※ 各作品をクリックすると公式サイトの作品紹介ページに移ります。

◉ ヨーロッパ

『マリリンヌ』
107分 カラー フランス語 | 2017年 フランス

『スパーリング・パートナー』
95分 カラー フランス語 | 2017年 フランス

『ナポリ、輝きの陰で』
93分 カラー イタリア語 | 2017年 イタリア

『さようなら、ニック』
110分 カラー 英語・ドイツ語 | 2017年 ドイツ

『グッドランド』
107分 カラー ルクセンブルク語・ドイツ語 | 2017年 ルクセンブルク/ドイツ/ベルギー

『ペット安楽死請負人』
84分 カラー フィンランド語 | 2017年 フィンランド

『シップ・イン・ア・ルーム』
107分 カラー ブルガリア語 | 2017年 ブルガリア

『泉の少女ナーメ』
91分 カラー ジョージア語 | 2017年 ジョージア/リトアニア

『グレイン』
127分 カラー 英語 | 2017年 トルコ/ドイツ/フランス/スウェーデン/カタール

◉ アジア

『ザ・ホーム—父が死んだ』
78分 カラー トルコ語 | 2017年 イラン

『スヴェタ』
95分 ロシア手話・ロシア語 | 2017年 カザフスタン

『アケラット—ロヒンギャの祈り』
106分 カラー 北京語・マレーシア語・広東語 | 2017年 マレーシア

『迫り来る嵐』
120分 カラー 北京語 | 2017年 中国

◉ 日本

『最低。』
121分 カラー 日本語 | 2017年 日本 | 配給:株式会社KADOKAWA

『勝手にふるえてろ』
117分 カラー 日本語 | 2017年 日本 | 配給:ファントム・フィルム

第30回東京国際映画祭
期間:2017年10月25日(水)〜11月3日(金・祝)
会場:六本木ヒルズ、EXシアター六本木(港区)ほか都内の各劇場および施設・ホール
公式ホームページ:http://2017.tiff-jp.net/ja/

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【執筆者プロフィール】

 藤野 みさき:Misaki Fujino

1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期、未来の映画館を作るワークショップ第一期受講生。映画のほかでは、自然・お掃除・断捨離・セルフネイル・洋服や靴を眺めることが趣味。東京国際映画祭で一番楽しみにしている映画は、アルノー・デプレシャン監督の『イスマエルの亡霊たち』です。

Twitter:@cherrytree813

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