2017年12月4日月曜日

第18回東京フィルメックス〜映画『ファンさん』text高橋 雄太

「死の扱い」


中国の小さな村において、ひとりの老婆ファンさんが息をひきとる。これは亡くなるまでの数日間、彼女と看取る家族たちを記録した作品である。

寝たきり、認知症のファンさんは一言も話さない。一方、息子、娘、孫ら家族はファンさんの周囲に集まり、賑やかに話し続ける。家族の者は、ファンさんが彼らの存在や呼びかけを理解していると語るが、実際のところ彼女が会話を理解しているかは不明である。だが、ファンさんは何かを求めるように細い腕を伸ばして娘に触れる。また、涙を流すファンさんをアップで捉えた長回しは、この映画の中でもひときわ美しいショットである。家族に囲まれて静かな最期を迎えたファンさん。死後、家族が日常に戻るところで映画は終わる。

ファンさんの様子と並行して、村の男たちが超音波を使って魚を獲る様子が描かれている。彼らは、捕まえた魚を無造作に容器に放り込み、包丁でさばき、食べる。その一方で、数日かけてファンさんの死を看取り、死後の法要も予定している。動物と人間とを同列に扱わない。そんな当たり前のことを、日常とファンさんの死との対比から確認することができる。


映画の視点も同様である。王兵(ワン・ビン)監督の作品では通常のことであるが、この映画でもナレーションはなく、ファンさんの略歴もラストに数行の字幕で説明されるだけだ。しかし一見冷徹な本作は、ワン・ビンと被写体との親密さに支えられてもいるようだ。監督は、健康だった頃のファンさんとその家族に知り合い、彼女が体調を崩してから本格的に撮影を始めたとのこと。狭い部屋の定点観測、ファンさんへのクローズアップなど、物理的にも心理的にも距離の近い映画である。見る者もワン・ビンの視点と家族の姿勢に同化していく。彼女のことを知らない私までもが、ファンさんの表情と死には厳粛さ、美しさを感じるようになるのだ。

いくつもの生命と死のうち、ファンさんだけを特別視する人々と映画、そして私。本作を見ることで、彼女の死に感情を揺さぶられる自分の姿勢も「特別扱い」なのだと知ることになる。筋肉の伸縮を「何かを求めるように細い腕を伸ばし」、眼窩からの液体の流出を「涙を流す」とみなして、何らかの意味を見出そうとすること。それが無自覚的な選択の結果であったことを自覚する。無論のこと、全てを同列に扱う必要もないし、人間の死に特別な感情を抱くのも当然である。そうした感情が実は根拠薄弱であること、だからこそ我々に理屈抜きで生じるもの、自然なものだとも言えるであろう。

(text:高橋雄太)


『ファンさん』
香港、フランス、ドイツ/2017年/87分

監督:ワン・ビン

第18回東京フィルメックス特別招待作品

作品解説
本年のロカルノ映画祭で金豹賞を受賞したワン・ビンの最新作。アルツハイマー病で寝たきりになり、ほとんど表情にも変化が見られない老女と周囲の人々をとらえ続ける。一つの死の記録にとどまらず、見る者に様々な問題を投げかけてくる挑戦的な傑作である。

作品紹介ページ(第18回東京フィルメックス 公式ホームページより)
http://filmex.net/2017/program/specialscreenings/ss06


〈第18回東京フィルメックス〉
■期間
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)(全9日間)※会期終了

■会場
A)
11月18日(土)~11月26日(日)
有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇にて

B)
11月18日(土)~11月26日(日)
 有楽町朝日ホール他にて

■一般お問合せ先
ハローダイヤル 03-5777-8600 (8:00-22:00)
※10月6日(金)以降、利用可

■共催企画
・Talents Tokyo 2017(会場:有楽町朝日スクエア)
・映画の時間プラス(期間:11/23、11/26/会場:東京国立近代美術館フィルムセンター)

■公式サイト
http://www.filmex.net/

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。第18回東京フィルメックスでは『ファンさん』の他に『暗きは夜』もよかったです。

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2017年11月23日木曜日

第18回東京フィルメックス〜映画『シャーマンの村』Q&A text岡村 亜紀子

 11月21日の上映がワールド・プレミアとなった『シャーマンの村』のQ&Aの模様をお届けします。司会は「ユー・グァンイー監督の作品が本当に大好き」だという林加奈子ディレクターです。

 始めに監督からのご挨拶があり、
「皆さん、こんにちは(日本語で)。
今日はこの映画を観て下さって本当に有難うございます。
この映画は2007年に、私自身の故郷である黒龍江省の五常県というところで撮影を開始して、撮影を続けて編集して完成し、今日こうして観て頂くまで10年の歳月がかかりました。
今回の東京フィルメックスにこうしてお招き頂いたことに心から感謝しています。フィルメックスに来るということは外国に出るような感じではなく、親戚のお宅にお邪魔したような感じがして、とても親しみを感じます。」
とお話されました。

 ユー・グァンイー監督作品の東京フィルメックスでの上映は、第8回の上映作品『最後の木こりたち』(2007)、第9回の『サバイバル・ソング』(2008)、第12回の『独り者の山』(2011)に続き、本作で4回目となります。

『シャーマンの村』

林ディレクター
今、私たちを親戚といって下さいましたけれども、画の中のシャーマンの村の方達が、カメラに対して凄くfamiliarというか親しい感じがします。
10年密着して撮ったというのはこういうことなのだなと感じたのですが、シャーマンの村の人々との出会いのきっかけについて、監督からご説明頂けますでしょうか?

ユー・グァンイー監督
この場所は中国の北方にあるハルピンから230キロ離れたところにあります。
26歳以前はこの辺りでずっと過ごしていました。
私の故郷の村は映画の中の村から8キロほど離れたところにあります。
この人達と知り合ったのは『最後の木こりたち』を撮っていた2004年の頃です。
それから彼らとお付合いするようになり、2007年の秋にこの作品を撮影することになりました。

(ここからは、会場からの質問となります。一部抜粋してお伝えします。)

Q.1
おそらく出演していた子供たちが貼ったのだと思いますが、シュー(出演したシャーマン)の家の中に台湾のポスターが貼ってあったのが、子供が去った後として映り、私にはとても印象に残りました。
監督の(故郷の)お近くの村にシャーマンの方が居たそうですけれども、中国には今もこうしたシャーマニズム的なことが沢山あるのでしょうか?

ユー・グァンイー監督
アリガト(日本語で)。
中国には他の地域にもこうした村が割とあります。
なかなか医療を受ける環境が十分に整っておらず、医療費も高い為、医者にかかれない時には彼らのようなシャーマンに頼んで病気を治してもらうという風習がまだ数多く残っております。
そういったわけで、シャーマンは村の人々にとって精神的な拠りどころとなっています。
私はこの映画の中で、神の導きに従って、人間がどう生きるかを表現したいと思いました。

Q.2
大学で映画を学んでいて、この夏ドキュメンタリーを撮りました。
カメラを動かすことがドキュメンタリーだと自由なので、対象が左右に動くと(カメラを)動かしてしまうことがあります。
また、光量などを考えて動かせなかったり、外へ出て行くことを回避したりもするのですが、監督の映画を観ていると光量などを超えて映す対象を追っているように感じました。
カメラを動かす決断はどういったところでしていますか?

ユー・グァンイー監督
映画が誕生して100年以上経ちますが、みんな映画を学ぶ為に古典的な名作を観て、映画に関する基礎的な本を読んできたわけでしょうけれども、私としては、テクニックはあまり重視をしていません。
映画を撮る上でより重要だと思うことは、撮る人の誠意であって、何を撮りたいかをいかに強烈に心の中に持っているかだと思います。

林ディレクター
有難うございます。
映画、お待ちしています。

Q.3
この辺りに住んでいるシャーマンの伝統を持つ人々は、何の民族なのでしょうか?
漢民族なのか、それとも他の民族でしょうか?
また精霊でキツネが出てきましたけれども、他の動物の精霊もよく出てくるのでしょうか?
基本的にはキツネだけなのでしょうか?

ユー・グァンイー監督
この村に住んでいる方達はみんな漢民族で、私自身も漢民族です。
シャーマンは漢民族よりも少数民族において歴史・風習があり、漢民族に伝わったのは後年になります。
もともとシャーマンは山東省や河北省で非常に多かったのですが、黒龍江省に入ってきたのはここ100年くらいのことになるかと思います。
シャーマンというのは動物の精霊と非常に関わりがあります。
映画の中に出てきたキツネや、そしてオオカミですね。
そのような精霊と交信することがあります。

Q.4
文化大革命の時に宗教はかなり弾圧されたかと思いますが、人間にはこういうものが非常に必要だと理解しています。
文革の時に、シャーマンはどのような扱いを受けたのでしょうか?
必要だから今のように(シャーマンの風習が)復活してきたのでしょうか?
それともずっと残っていたのでしょうか?
その辺りを文革という歴史と絡めてお聞きしたいです。

ユー・グァンイー監督
有難うございます。
中国に大変詳しいご質問ですね。
文革の時は、このようなものは一切禁止されていて絶対にあってはならないものでした。
当時のことは、あまりにも暗い時代だったのでもうあまり語りたくないですね……。
現在のところ、政府としてはシャーマンの存在や行いについては見て見ぬ振りで、そんなに反対も禁止もしないけれども奨励もしないという態度をとっています。
実際問題として若い人がどんどん都会に出て行き、村に残っている比較的お年をめしたシャーマンの方達もいまや少数になってきています。
それが現状です。
この映画を撮る時に、本当に色んな村の様子を目にしたわけですけれども、老人が段々と少なくなっていて、そして子供たちも(映画の中で)ああやってシャーマンの風習を見ています。
そういう風に子供たちによく見せて、大切にしていく風習であることも考えました。
様々なことが変わっていく中で、かろうじてシャーマンの風習があのように残っている、それをこの映画の中で描いたわけです。

Q.5
この村の人達はこの映画を観たのでしょうか?
観たとしたらどういった感想を持たれたのでしょうか?

ユー・グァンイー監督
この映画自体はまだ村の人達は観ていません。
以前の私の映画を観た村の人達は、非常に村の生活がリアルに撮られていることで、こうした生活を映像で記録することで、これからの子孫も観ることが出来て、代々受け継いでいくことが出来るととても喜んでいます。
彼らにとっては、映画というのは国の指導者のような偉い方達が観るものであり、都会に住む素敵な人達が観るものだと思っているようです。

林ディレクター
英語のタイトルが『Immortals in the Village』といいまして、最初DVDを送ってもらった時に「不死の村」と書いてあるけれど、(映画の中では)人がどんどん亡くなっていって……なんてアイニカルというか絶妙なタイトルだなと思ってシビレました。
後から、第17回東京フィルメックスの審査委員長を務めたトニー・レインズさんが(英語のタイトルを)つけたとお聞きして、「ああ、やっぱり」と思いました。
もう一つ舞台裏で聞いたお話で、「次回作について何か構想がおありになるんでしょうか?」とお聞きしたところ、驚きのニュースがあります。
ユー・グァンイー監督からお差し支えのない範囲で次回作について少しお話しして頂けたらと思います。

ユー・グァンイー監督
今(会場に)いらっしゃるトニー・レインズさんは私の本当にいい友人ですけれども、この映画の為に素敵な英語のタイトルをつけて下さって心から感謝します。
有難うございます。
トニーさん立ち上がって頂けますか?

(場内から暖かい拍手がおこりましたが、トニー・レインズ氏は笑顔で手を振るに留めていました。会場がとても和やかな空気で溢れました。)

林ディレクター
意外とシャイですね…!

ユー・グァンイー監督
私は故郷の村の周辺で、既に13年かけて4本の映画を製作してきましたが、村の人達を記録するという映画製作は、ここで一段落つけようと思っています。
今ご紹介に預かりましたけれども、次回作は劇映画で少し商業的な作品になるかと思います。
寒冷地で過ごす人達の苦しみや喜び……というみんなが持っている心の世界を描こうと考えています。
ある村で殺人事件が起こり、一人の人が殺されて、その殺人の真相が明るみに出るにつれ、最終的には……様々な非常にごちゃごちゃした事件がそこで一挙にバーっと爆発して起きる、というような映画です。

林ディレクター
新作が10年後ではなくて数年後に拝見出来るように楽しみにお待ちしたいと思います。
ユー・グァンイー監督、本当にどうも有難うございました。

 以上、和やかなムードで進んだQ&Aの模様をお伝えしました。
『シャーマンの村』は中国の寒村に住むシャーマン達とその周辺の人々の生活を、4年以上に渡って追ったドキュメンタリーです。映画の中で、シャーマンたちは歌と踊りを用いて精霊を呼び出し、ある時は病気になった村人の為に精霊の伝令役となって治療法を伝え、またある時は幼子の厄払いを行うなどする姿が映画に映っています。
 映画の中でたびたび映るシャーマンの風習は、多くの観客にとって馴染みの無いものであるでしょう。霊的なものを信じるかどうかや、本作への感じ方も人によって様々だと思います。
 一見別世界の出来事に思えますが、本作はシャーマニズムを通して、あくまで村の人々の生活というものを記録しているのだと思います。そこに、自分の環境とは違うかもしれないけれど、壁に貼られたポスターのようにどこか感覚的に繋がるところがあると感じました。また、現代に残っているシャーマンの風習を同時代に観ることにやはり意味があり、鑑賞を通して、自分の価値観や考え方の一端を感じることが出来るのではないでしょうか?
 

会場ロビーに飾ってあったポスター
 
(取材/文:岡村亜紀子)

『シャーマンの村』
Immortals in the Village / 跳大神 
中国 / 2017 / 109分 

監督:ユー・グァンイー(YU Guangyi) 

作品解説
中国東北地区の山間部の人々を一貫して記録し続けてきたユー・グァンイーが、寒村のシャーマンたちの生活を4年以上にわたって追った画期的ドキュメンタリー。それは人々が精霊たちと密接に暮らしていた時代の、近いうちに消滅してしまう文化の記録でもある。

作品紹介ページ(第18回東京フィルメックス 公式ホームページより)
http://filmex.net/2017/program/competition/fc07



〈第18回東京フィルメックス〉
■期間
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)(全9日間)

■会場
A)
11月18日(土)~11月26日(日)
有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇にて

B)
11月18日(土)~11月26日(日)
 有楽町朝日ホール他にて

■一般お問合せ先
ハローダイヤル 03-5777-8600 (8:00-22:00)
※10月6日(金)以降、利用可

■共催企画
・Talents Tokyo 2017(会場:有楽町朝日スクエア)
・映画の時間プラス(期間:11/23、11/26/会場:東京国立近代美術館フィルムセンター)

■公式サイト
http://www.filmex.net/

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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子:Akiko Okamura

某レンタル店の深夜帯スタッフ。

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2017年11月15日水曜日

映画『エクス・リブリス−ニューヨーク公共図書館』評text井河澤 智子

「余談だらけの図書館概論」


アメリカ、そして世界を代表する図書館、ニューヨーク公共図書館。
3館の中央図書館、市内各所に80を超える分館、2館の提携図書館を擁し、年間1800万人以上の来館者を数える世界屈指の規模を誇る機関であります。
※2012年。http://current.ndl.go.jp/node/23104
さて、皆さんは、図書館やそこで働く人々に対し、どんなイメージを持ってらっしゃいますか?映画好きにとっては『スパイダーマン』(2002)や『ゴーストバスターズ』(1984)、『ティファニーで朝食を』(1961)などにも登場する場所でもあります。豪奢な建築がたいそう目を引く、本好き建築好き映画好きにとっては是非訪れてみたい場所でしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=WJdEXb8bRQ0&feature=youtu.be


https://www.amazon.com/Nancy-Pearl-Librarian-Action-Figure/dp/B0006FU9EG

いるいるこんなおばちゃん!

なんだか春風亭昇太師匠に似たこのフィギュアですが、”libraryanlike”というと「ひっつめ髪で眼鏡をかけた女性」という意味になるそうです。
また、『スノーデン・ファイル 地球上で最も追われている男の真実』(日経BP社,2014)の原著301ページには「四角い、黒縁の眼鏡をかけ、もじゃもじゃの黒い髪の毛を耳のところまで伸ばしている。ライブラリアンで通るかもしれない風貌。」と表現された文章があるそうです。
※山本順一「公共図書館の課題と展望−日米比較図書館情報学的視点から−」(『桃山学院大学経済経営論集』第56巻4号,2015年)p.20.
見た目もそうですが、ドラマや映画の中にあらわれる図書館職員は、おとなしかったり、融通が利かなかったり、人より本が好きだったり、影があったり、どこからステレオタイプが出来上がったのかはわかりませんがそんな描かれ方がされがちです。図書館という施設そのものに対するイメージは……昨今の図書館をめぐる流れを観察する限り、言わぬが花でしょう。
※佐藤毅彦「2015年:図書館をめぐるメディアでの扱いとテレビドラマ『偽装の夫婦』」(『甲南国文』第63号,2016年)p.152-139
 山口真也「漫画作品にみる大学図書館員のイメージ 〜「図書館の自由」を中心に〜」(沖縄県大学図書館協議会配布資料,2002年)

さて。
「New York Public Library」。しばしば「ニューヨーク市立図書館」と称されますが、市立ではなく、私立です。法人であり、主な財源は民間からの寄付です。「Public」とは「一般に開かれた」という方のパブリック。私立なのにパブリックスクール、というような使い方ですね。

しんとした静けさ。黴くさい本の匂い。ページをめくる音。
そのような光景を脳裏に描きつつ、フレデリック・ワイズマン『エクス・リブリス− ニューヨーク公共図書館』を観ると驚くと思います。
ワイズマンの作品には、「ナレーション」「テロップ」「インタビュー」「音楽」はありません。『エクス・リブリス− ニューヨーク公共図書館』も例外ではなく、我々観客は、なんの説明もないまま図書館の日常に放り込まれ、ただ観察し、体験することを強いられます。そして次第に観客の目には「図書館という場」に集う人々、そして彼らの現状が浮かび上がってくるのです。

利用者からの電話質問に答える職員。質問の内容は相当難しく、これを口頭で的確に回答するには高度な知識が要求されるでしょう。
子どもの学習支援クラスがあります。
仕事の探し方をレクチャーする就職支援。仕事を求める人々と、人材を求める人々とのマッチングも行われています。
英語が得意ではない利用者にパソコンの使い方を教える職員がいます。
作家を招いての講演会があります(大盛況!)
素晴らしい演奏会も行われます。(行きたい!)
お年寄りへのダンスレッスンクラスがあります。
美術学生に、写真資料の探し方を教える講座も。写真なんてどうやって分類するんだと思いましたが、確実にルールに則って分類され、検索しやすくなっています。
そして、「いかにして予算を獲得するか」について熱く討論する職員たちがいます。運営予算というものは「存在価値をアピールして、全力でもぎ取ってくる」ものなのです。死活問題です。プレゼン能力が問われます。まさにTEDです。図書館はおとなしくては生き抜いていけません。

図書館は、人々が生活するための情報を手に入れるインフラを提供しています。具体的に言えばパソコンやインターネット、外でも利用できるWi-Fi。ハードとソフト両方を提供しているのです。それは学習のため、仕事を探すため、目的はさまざまです。
図書館は子どもたちの保育を担い、読み書きを教えます。子どもたちへのサービスと同じように、お年寄りへのサービスも欠かせません。
もちろん、読書の機会も提供します。なんだかんだ言っても書籍の形はなかなか変わりません。古い新聞や雑誌など、劣化して失われやすい資料は、マイクロフィルム……いや、もはやマイクロフィルムすら古いメディアと言えるでしょう……デジタル化され、オンラインで利用できるようになりつつあります。その作業に従事する職員の姿も映し出されます。

現在、アメリカの公共図書館には、従来の図書館の役割を超え、地域に必要なサービスを総合的に提供することが求められています。
学習塾、職業安定所、保育所、公民館、文化施設、文書館。地域に暮らす人々に必要な機能がすべてここに集約されているかのようです。
たまたまニューヨーク公共図書館は、「担う地域」が大きいので求められる機能も多岐にわたりますが、これはどうやらアメリカの公共図書館界に共通する流れであるようです。このような図書館の機能の変化を、関係者は合言葉のように「図書館は成長する有機体である」(インド図書館学の父ランガナタン「図書館学五原則」の5)と呼びます。
元々、図書館の機能は資料の保存・収集が主なものでした。資料がどんどん増え、整理され、体系化されることをこのように表していたのですが、施設に求められる機能が変わりつつあることを受け、再定義を模索されている言葉です。
※佐藤和代「図書館再考」(『情報管理』第58巻11号,2016年)p.849−852.
 
ここで、「図書館で働く人々」について少しだけ説明をしたいと思います。なぜなら、ここに映し出される図書館の職員は、日本で「司書さん」と呼ばれる人々とは少し背景が異なるためです。
まず、日本で「司書」とひとくくりにされている資格ですが、アメリカではいくつかの階層に分かれています(厳密には、日本にも司書の補助として「司書補」という資格も存在するのですが、司書補の資格で図書館で働く人々は現状それほど多くはないと思います)。
アメリカの場合、(専門職)ライブラリアンに要求されるのは、修士の学位、さらにアメリカ図書館協会認定のライブラリースクールを修了していることが求められます。また、ライブラリアンを支援する一般的図書館職員(ライブラリーテクニシャンまたはアシスタント)にも修士の学位が求められます。
日本の司書資格は、大学で司書課程の単位を履修し卒業するか、司書講習を受講することで取得できます。司書講習の場合は短期間でかなりの勉強量を要求されますが、ほとんどは大学で資格が取れるため、大学ごとにかなりばらつきはありますが、概ね「取りやすい」資格だと思われます。
このように、「ライブラリアン」と「司書」はイコールではありません。
アメリカのライブラリアンまたはアシスタントには、それぞれ研究分野があるのです。そのため、例えば「19世紀、ある人物がどの船でアメリカに渡ってきたのか」というような難題にも適切なヒントを与えられますし、古く脆い資料の修復・デジタル化にも当たることができるのです(実際のところは州によってはその辺りは柔軟に対応されているのかもしれません。なぜならアメリカの場合、かなりの地域差があり、条件に合致する人材がそもそもいない、ということもあるからです)。
さらに、「図書館友の会」に会費を納め、無償あるいは低報酬のボランティアとして運営に参加する人々も多いようです。
※山本順一『日米比較にうかがえる社会的制度としての公共図書館の現在と近未来の盛衰』(『情報の科学と技術』第66巻2号,2016年)
http://current.ndl.go.jp/series/no40

従来の図書館の範囲を超えた様々なサービスは、もちろん保育士や、教員、介護士など、従来の「ライブラリアン」とは違った職能が求められることでしょう。文献の調査が間に合いませんでしたが、従来、図書館には「より専門的な機関を利用者に紹介する」といった機能もありましたので、ひょっとしたらそれらが発展した協力体制をとっているのかもしれません。この映画からはそれらのことはうかがえません。
また、図書館が提供するサービスのうち、未だ最も大きな役割を占めるのは「資料の貸し出し」です。返却されてきた大量の資料は、機械によって振り分けられ、最終的には人間の手で元の位置に戻されます。資料の返却処理とは、様々な図書館サービスの下支え、最も基本的な部分。そこを担うのは、画面で見る限り移民と思しき男性です。
先ほど、図書館で働く人々の高度な専門性について述べました。しかし、この「貸し出し返却」などの地味な作業は誰が行っているのか。簡単に探した程度ですが、それについての研究は見つかりませんでした。

そして利用者たちはどうでしょうか。
例えばパソコンのレクチャーを受けたり、Wi-Fiを借りに来たり、仕事を探したりなど、それらのサービスを受ける人々は、画面を見る限りアジア系、アフリカ系などが多いのではないか、と感じました。もちろん、英語が不得意な利用者に対しては、彼らの言語がわかる職員が対応し、スペイン語での質問には、スペイン語が出来る職員がいました。そして、子どもたちへの学習支援は、子どもたちはおそらくヒスパニックやアフリカ系。指導する職員もそうでした。学ぶためのインフラを自力で用意することが困難な人々の受け口として、図書館は求められ、機能しているとも考えられます。
これが、現状かもしれません。図書館は社会からこぼれ落ちそうな人々のために様々なプログラムを用意します。そして、その図書館の精力的な仕事の裏で最も地味な仕事を担うのは、現在のところ彼ら移民たちなのかもしれません。
ここに、ワイズマンの目を通した、ニューヨーク公共図書館の現在があります。

「ファセット」という言葉が思い浮かびました。
多義的な言葉ですが、「物事の、ある面」または「宝石のカット面」などの意味があります。図書館という巨大な塊をさまざまな面から執拗に観察したその視線。まさに、ひとつの「成長する有機体」としての質量感がまざまざと感じられた、この作品。

実は「ファセット」は図書館用語としての意味もあるのでした。偶然にも。

(text:井河澤智子)

参考文献

・山本順一『アメリカの公共図書館のひとつのイメージ − コミュニティに寄り添う図書館』(桃山学院大学経済経営論集』第56巻3号,2015)

・山本順一「公共図書館の課題と展望−日米比較図書館情報学的視点から−」
(『桃山学院大学経済経営論集』第56巻4号,2015)p.17-41.

・山本順一『日米比較にうかがえる社会的制度としての公共図書館の現在と近未来の盛衰』(情報の科学と技術』第66巻2号,2016)p.13-35.

・カレントアウェアネス・ポータル『米国の図書館事情2007−2006年度 国立国会図書館調査研究報告書』(図書館研究シリーズNo.40) 
http://current.ndl.go.jp/series/no40

・佐藤毅彦「2015年:図書館をめぐるメディアでの扱いとテレビドラマ『偽装の夫婦』」
(『甲南国文』第63号,2016年)p.152-139.

・山口真也「漫画作品にみる大学図書館員のイメージ 〜「図書館の自由」を中心に〜」」
(沖縄県大学図書館協議会配布資料,2002年)

・佐藤和代「図書館再考」(『情報管理』第58巻11号,2016年)p.849−852.




『エクス・リブリス − ニューヨーク公共図書館』
原題:Ex Libris - The New York Public Library
2016年/205分/アメリカ/英語

監督:フレデリック・ワイズマン

作品紹介ページ(山形国際ドキュメンタリー映画祭ホームページより)
https://www.yidff.jp/2017/ic/17ic05.html

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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子:Ikazawa Tomoko

この作品を観るために山形へ行ってきました。
図書館員のタマゴと思しき、ちょっと「映画マニア」とは雰囲気の違う若者がたくさんいた気がするのですが、
あの熱さをもって図書館員になってしまったら早々に燃え尽きてしまうのではなかろうか。
なにごともほどほどが肝心。
まぁ司書資格の講義にはこの映画観せて2単位でいいと思います。
「本好きだね」と言われることが多い仕事ですが、本好きには絶対お勧めしない仕事です。
われながら身も蓋もないことを言うね!

ちなみにアメリカ最大の図書館は、アメリカ議会図書館(Library of Congress)です。
もっとどうでもいいことを言いますと、大英図書館(British Library)の略称は BL です。
慣れないうちはちょっとそわそわする略称です。

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2017年11月9日木曜日

映画『女神の見えざる手』評text長谷部 友子

「自らを救った女」


エリザベス・スローン。天才ロビイスト。真っ赤な口紅、一流ブランドの服とハイヒールがよく似合う完璧な美貌。彼女は眠りたくない。毎日深夜まで営業する質素な中華料理屋で食事をし(本当は錠剤で済ませたい)、プライベートの時間をもたず、恋愛はエスコートサービス。 すべての時間とエネルギーを仕事に注ぎこむ。つまり勝つことに。

大手ロビー会社に身を置くエリザベス・スローンは、銃擁護派団体から女性の銃保持を認めるロビー活動で、新たな銃規制法案を廃案に持ち込む仕事を依頼されるが、自らの信念に反すると断る。上司は大口顧客の要求に応じないのであればクビだと告げるが、エリザベスは銃規制に賛成の立場をとる小さなロビー会社に移籍し、かつての同僚と銃規制法案をめぐって熾烈な駆け引きを繰り広げる。

ロビイストとは世論を動かし、マスコミを操作し、国を動かす政治的決断に関与する戦略のプロだ。彼らの至上命題は勝つことで、モラルや常識を求めることは無意味だ。中でもエリザベスは徹底している。勝つために裏の裏を読み、敵のみならず味方をも騙し、仲間の命を危険に晒す冷徹な仕事ぶりだ。

大手ロビー会社を辞めてまで銃規制法案の成立に尽力する彼女に対し「親しい人に銃犯罪の被害者がいたのね」と訳知り顔に語りかける面々に、彼女は「そんなものはない」と言う。銃犯罪の生き残りであるとか、誰もが納得するお決まりの過去がなければ信念を持つことは許されないのか。「どんな異常者でも店やネットで銃が買える」。上司に依頼を断る際に言ったその言葉が、それ以上でもそれ以下でもなく、信念とはクリアなシンプルさにこそ宿るものなのに、どうして情緒的な過去のトラウマを必要とするのだろうか。

肉を切らせて骨を断つではないが、自分自身すら道具にした彼女の策略による鮮やかすぎる大どんでん返しは、ややもすれば映画的なご都合主義と言われてしまいそうだが、それでも爽快で見事だ。

それにしても一体彼女は何に勝ったのか?
自分をクビにしたかつての会社か、銃擁護派団体か、愚かな世論か、それとも。
重度の不眠症、30分に3回トイレに立って精神安定剤と思われる薬をフリスクのように飲む彼女は遅かれ早かれ破滅していた。だから本当に破滅するその前に、自らを強制終了させることにより、勝利依存症ともいうべきその生き方を終わらせ、彼女は生きながらえることを選んだのではないだろうか。 彼女は自らを救いたかった。いや救いたかったなんてものではない。誰も救ってくれない自分を自ら救うしかなかった。

狂乱の勝利依存症の季節は終わり、彼女は救われたのか。人間はそう簡単には変わらない。凄まじい刺激と快楽と、それでしか感じられない肉体と精神が容易に順応するはずもない。欲望は何度だって訪れるだろう。あらゆるものを賭して闘い、上り詰めて果てたいというその欲望を前に、けれど彼女はぎりぎりのところで、自らの破滅すらも織込み済みの博打によって生き長らえるのではないだろうか。生きられるのであれば、何回だって破滅すればいい。苛烈に自らを救うエリザベス・スローンの一手は、やはりあまりに鮮やかだ。

(text:長谷部友子)


『女神の見えざる手』
 2016年/132分/フランス、アメリカ

監督:ジョン・マッデン

公式ホームページhttp://miss-sloane.jp/

劇場情報
10月20日よりTOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。

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2017年11月3日金曜日

第30回東京国際映画祭〜映画『ライフ・アンド・ナッシング・モア』評text岡村 亜紀子

「人生の契機」 


 主人公アンドリューの顔は、そのほとんどにおいて表情に乏しい。しかし彼の顔は、シーンと共に雄弁に彼の心情を語り、またある時は感情を隠し、不穏な空気を感じさせる。

 あるアフリカ系アメリカ人の家庭の物語だ。家族はヒップの大きいシングルマザーの母、14歳の息子アンドリューと3歳の小さな妹で構成され、アンドリューの父は服役中である。
 法保護観察中でありながら軽犯罪を犯したアンドリューは、義務であるカウンセリングを受けていないと検察から追求を受ける。そうした彼の姿勢について「知っていましたか?」と問われた母親は、責任を逃れるように「わたしには行っていると言っていた」と答え、彼に対する諦めとも取れるような怒りを表す。
 アンドリューは母が仕事(レストランでのパートタイムジョブ)から帰るまでの間に、妹の食事や風呂の面倒をみて、洗濯をし、妹に絵本を読んでやる。しかし帰宅した母親は、台所を見て、「なんでこんなに洗い物をためたの? 友達でも呼んでパーティーでもやった?」と怒る。アンドリューは小さな声で、「していないと」答えるもイライラとタバコに火をつけた母親は、洗い物をするアンドリューに対してなおも食いつきそうな空気をまとって威圧するかのようだ。
 彼はいつも母に対して気弱であるのに対し、母親はいらだちと怒りを彼にぶつけすぎている。しかし彼女は彼をないがしろにするわけではない。彼がこのままではいつか死ぬような目にあわないか案じ、ストリートから離そうとしているんだと、大人は言う。母と子に欠けているのはコミュニケーションなのである。

 彼にはアドバイスをする黒人の大人が周りにいる。むかし悪さをしていたブラザーは、警察に取り締まりを受けたエピソードをジョークを交えて語った上で、「なんでもいいから好きな事を一生懸命やるんだ」とさとす。一方スクールカウンセラーは、「放っておけばお前は犯罪者になる」と言う。
 染まり易く、多感な10代の少年にとって、彼の置かれた環境は厳しい。ランチタイムに学校で同級生たちがにぎやかに食事をする場面で、林檎をもくもくとかじる彼の姿に、逃げ場のなさを思う。

『ライフ・アンド・ナッシング・モア』

 登場人物の多くが黒人の本作で、彼に向けられる言葉は厳しい家庭環境の黒人の少年がいかに道を踏み外しやすく、危ういかを示している。母のいらだちを受けているアンドリューが、妹がナイフを手にした時に、危ないからと咄嗟にぶってしまうのも、後に彼がナイフを手にし、それを身につけ、結果としてより一層厳しい立場に立つ事になってしまったことも彼だけの責任とは言えないだろう。

 母親の「わたしはそばにいる。けれど生きるのはあなたよ」という言葉も、アンドリューには厳しく突き放されたようにしか聞こえないのかもしれない。彼女は朝と夜、パートタイムで働きながら二人の子供を養っている。仕事が長続きしないらしく安定した暮らしではない。それがいかに不安で大変な事か、そして彼女が働く為には幼い娘の面倒をみる息子の存在が必須だった。母という柱が折れても、息子の存在がなくても立ち行かぬ暮らしの中に母の恋人が入って来て、あることをきっかけに恋人とアンドリューが対立する。母親は息子を恋人から守るが、その時それが彼の救いにはならない。

 彼にはもっと他に、救いの手が必要だったのだろうか? ところで、本作では祈りの場面があり、神の慈悲によって物語がふと好転しそうな、アンドリューと偶然居合わせた白人の男性から救いの手が差差し伸べられるか? と一瞬思わせる場面があるのだが、その人物がきっかけで彼は窮地に陥ることとなる。
 アンドリューが刃を人に向けた行いの結果に、温情が与えられる事はなかった。彼がまだ14歳の少年でもあるに関わらず、その心情は理解や容赦を受けずに、母親の懸命の努力のかいなく、彼の行いは結果として人に刃を向けた事実のみによって、家族にとって厳しい結論がくだされる。しかしその事実が、彼らが現実と向き合い、お互いと向き合うコミュニケーションのきっかけとなっていく。

 本作でキャメラが人物の顔をクローズアップする時、改めて彼ら個々の存在が観客に刻まれるような心地がし、彼らを形成するマインドが感じられた。生活感に満ちた映像と、アンドリューだけではなく彼の家族が置かれた厳しい現実をそのままに紡ぐリアリスティックな物語において印象的に映った。それは、映された顔を通して感じるヒューマンマインドが、状況を変化しうる唯一の可能性であるからであろう。

 ラストシーン、アンドリューが見詰める先にいる観客に背を向けた人物の姿。わたしはその人物の顔をみることが出来ない。しかし、アンドリューの表情の変化に一寸の光を感じる。

(text:岡村亜紀子)


「ライフ・アンド・ナッシング・モア」
原題:Life and Nothing More 113分/カラー/英語/ 2017年/スペイン・アメリカ

監督:アントニオ・メンデス・エスパルサ

作品紹介ページhttp://2017.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=121

第30回東京国際映画祭

期間:2017年10月25日(水)〜11月3日(金・祝)
会場:六本木ヒルズ、EX-THEATER六本木(港区)他都市内の各劇場及び施設・ホール
公式ホームページhttp://2017.tiff-jp.net/ja/

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【執筆者プロフィール】

 岡村亜紀子:Akiko Okamura

1980年生まれの、レンタル店店員。勤務時間は主に深夜。

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2017年10月28日土曜日

映画『ミスムーンライト』評text成宮 秋祥

『ミスムーンライト』と『ムーンライト』に共通する“新しい魂”について


今年に発表された第89回アカデミー賞は、これまでのアカデミー賞とは比較にならないほど大きな話題を呼んだ年だった。最多となる14部門ノミネートを果たしたミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』(2016)が、当初は作品賞の最有力とされていたが、アメリカ映画でもタブーとされている同性愛をテーマに、オール黒人キャストで製作された低予算のインディペンデント映画『ムーンライト』(2016)が作品賞を受賞したからだ。

『ムーンライト』は、一人の黒人男性の少年期と青年期、そして成人期を3つの章として分けて、それぞれの時代での黒人男性の心理の行方を繊細に描いている。あまりにもこじんまりした小さな世界の出来ことをカメラに収めた『ムーンライト』は、ハリウッドのメジャー映画会社が製作する映画のような華やかなイメージとは無縁な、明らかにインディペンデント映画らしい雰囲気の小品である。

『ムーンライト』は、 本来はアカデミー賞と縁の遠い映画でもあったように思われる。アメリカ映画でもタブーとされている同性愛をテーマにしているのもその理由の一つだ。しかし、ここ数年続く白人俳優ばかりがアカデミー賞にノミネートされる、いわゆる“白すぎるオスカー”を払拭するように、『フェンス』(2016)や『ドリーム』(2016)など黒人俳優が出演する映画が複数好評を博したということと、反トランプを象徴するメッセージ性が第89回アカデミー賞には込められたこともあり、結果として、アカデミー賞とは一番縁の遠そうな『ムーンライト』が作品賞を受賞した。

インディペンデント映画の強みは、自由な発想で映画が製作できるところにある。資金繰りや宣伝なども限られた条件の中でやっていくので製作者側の負担が多い面も確かにあるが、何にも縛られることなく自由に映画製作ができること自体は、多くの映画作家が求める環境のように思われる。『ムーンライト』のアカデミー作品賞を受賞した同じ年に、日本でも自由な発想のもとに意欲的なインディペンデント映画が上映されることとなった。松本卓也監督による『ミスムーンライト』である。

『ミスムーンライト』の製作のきっかけは至極単純である。松本監督の『グラキン★クイーン』(2010)や『花子の日記』(2011) のプロデューサーから、「若手の女優やグラビアアイドルを多数キャストに起用した映画を水着ありで撮れないか?」という話を受けたのがことの発端だという。この条件が守られれば、あとは自由に創作してよいという状況にいたった松本監督は、オリジナル脚本を自ら執筆し、映画製作にとりかかった。

物語は、地方の高校に通う女子高生たちが、地元のPR映像を製作していくところから始まる。高校の映像部に所属するマキは、PR映像の出来が平凡で面白くないことに不満があり、撮り直すことにする。そして、新しい企画案を閃いたマキは、映像部員たちや顧問の教師を説得し、春休みの合宿で再撮影を行うことになる……。

本作は、アイディアありきの映画である。つまり、水着を着た女優やグラビアアイドルを出演させることが先んじていて、物語や登場人物の設定は、後からつけ足されたものといえる。そのため、登場人物の行動はどこかぶっ飛んでいる。主人公のマキが、なぜ地元のPR映像に水着を着た人たちを撮ることに拘ったのだろうか。具体的な目的やビジョンが不透明で、何となくマキが狂った人にしか見えない。また、マキたち映像部の撮影に協力する元映像ディレクターの博和も、海辺で水着を着た女性の幻にうろたえたり、叫んだりと様子がおかしく描かれる。マキにしても博和にしても、そのような行動をとる理由があるにはある。しかし、ことの真相が分かってもドラマのボルテージは一向に上がっているようには思えず、むしろ緩いムードのままである。ほとんど確信犯的に一貫して緩いムードのまま、映画は大勢の水着の女優をスクリーンに映す方向に持っていく。ドラマなんてあるようでない。あくまで、水着の女優たちの視覚的なインパクトで魅せようとする映画となっている。

これでは、大勢の水着の女優を眺めるのを楽しむ映画に過ぎないように思えてくる。観客に娯楽を提供するという意味では、その試みは間違ってはいないといえる。では、映画としての見応えはないのかというと、必ずしもそうとは言えない。思わず感動を覚える映画には、ある共通点が存在する。それは、映画に信念が込められているかどうかだ。この映画には信念がないのだろうか。しかし、マキたちの行動に一貫した信念があることに気づく。彼女たちは、地元のPR映像のために水着の女優たちを撮るのではなく、自分たちが面白いという映像を描くために水着の女優たちを撮っているということだ。

マキたちの面白い映像を撮ろうとする信念は、自由な発想によってオリジナリティ溢れる映画を撮ろうとする松本監督の信念の投影といえる。過去のインタビューにおいて、松本監督は、予算のある商業映画に対抗できるのは、自由な発想で生み出されたオリジナリティのある映画だと語っている。こうして考えてみると、一般にいう地元のPR映像が予算のある商業映画で、水着の女優たちを集めた映像が自由な発想で生み出されたオリジナリティのある映画であると、対比して観ることもできる。マキたちのぶっ飛んだ行動は、ある意味で松本監督の生き様そのものなのかもしれない。

何者にも縛られずに自分たちの面白いと思った映像を最後まで撮り上げたマキたちの笑顔には、このまま上手くいくかもしれないという根拠のない希望が漲っている。役所から水着の女性を出すことを強く批判されたり、地元の人たちから水着で出ることを拒否されたりしながらも、自分たちの面白い映像を撮りたいという思いを貫いて、プロの女優を呼び出して、地元の人たちを再説得して、誰もやりそうにない周囲から驚かれる企画を最後まで諦めずにやり切ったのだから、良いも悪いも関係なく、マキたちの意志の強さに、只々凄いと、思わず唸ってしまう。冒頭でも述べたが、インディペンデント映画は予算もないし、製作者側の負担が大きいながら、色々な縛りが存在する形式の完成された商業映画の枠(本作でいうところの地元のPR映像)に縛られず、自分たちの撮りたいものを撮れる。それこそが商業映画のように感動の図式が完成された映画ではなく、作り手の自由な発想によって生み出された、思わず感動してしまう可能性を秘めたオリジナリティのある映画である。このような映画には、生命力に満ち溢れた新しい魂を感じる。この新しい魂を持った映画は、時に大きな奇跡を起こすことがある。アカデミー賞向きではなかった『ムーンライト』が作品賞を獲ってしまったように。『ミスムーンライト』もまた、この新しい魂を持った映画だ。今後どのような奇跡が起きてしまうのか、期待が高まる。

(text:成宮秋祥)



『ミスムーンライト』
 2017年/120分/日本

監督:松本卓也

公式ホームページhttp://miss-moonlight.weebly.com/

劇場情報
全国順次公開中

シネマート新宿にて、11月4日(土)~11月10日(金)レイトショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akihiro Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneo web、映画みちゃお!、THE RIVER寄稿)。

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2017年10月24日火曜日

東京国際映画祭ラインナップ発表会~東京グランプリの行方2017~text藤野 みさき

 © TIFF 2017

 1985年に幕をあけ、早32年。東京国際映画祭は本年で節目の第30回を迎え、現在はアジア最大の映画祭として一歩ずつその歴史を歩み、築きあげてきた。「六本木」ということばを聴くと、映画祭で出逢った大切な映画に想いをはせるひともきっと多くいらっしゃると思う。六本木の地を歩き風に吹かれるたび「今年もまたここに戻ってこられた」という嬉しさが、いつも私の胸を高揚させる。

『最低。』で主演を務めた森口彩乃さん © TIFF 2017

 毎年本映画祭の中で最も注目を集めるのが、最高賞の東京グランプリをきめる「コンペティション部門」である。昨年、プログラミング・ディレクターである矢田部吉彦氏が述べていた「本年度ほど社会問題を扱ったことはない」ということばが非常に印象的であったのだが、昨年の社会という大きな主題から、本年度は個人に焦点をあてる映画が多く並んだ。矢田部氏いわく「女の一生、男の一生」という副題がふさわしいという、本年度のコンペティション部門。どのような生きざまが描かれるのか、選出されたひとつひとつの作品をみてゆきたい。

『マリリンヌ』© Thierry Valletoux Ressources

 まず、フランスからは二本の映画がノミネート。ひとつめは、女優の道を歩もうと努力をする女性を描いた『マリリンヌ』が選出。監督は現在の仏映画界でひっぱりだこの、秀才ギヨーム・ガリエンヌ。俳優としても活動をするガリエンヌであるが、近年では『イヴ・サンローラン』のピエール・ベルジェ役、と言うとピンとくる方も多いのではないだろうか。監督の描く女性の生き方に注目があつまる。
 ふたつめは、『アメリ』ファンの皆さま、お待たせしました! 『アメリ』の風変わりな青年、ニノ役で女性たちのこころを魅了して約16年。仏映画ファンには堪らないマチュー・カソヴィッツ待望の主演最新作『スパーリング・パートナー』が上映される。盛りを過ぎた二流のボクサーが、自身のため、家族のためにふたたびリングにたつことを決意する。本年50歳を迎え、さらに渋みを増したカソヴィッツの演技は必見だ。


『ナポリ、輝きの陰で』© Tfilm 2017

 続いておとなりイタリアからは、『ナポリ、輝きの陰で』が選ばれる。低所得者の生きるナポリの世界のなかで、娘の天性の歌声に希望を託し、現状を打破しようと葛藤する父の姿を描く。昨年の東京国際映画祭で『ブルーム・オブ・イエスタディ』が見事東京グランプリに輝いたドイツからは、ニュー・ジャーマン・シネマより名実ともにキャリアを築きあげてきた、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の最近作『さようなら、ニック』が上映される。女性を描くことに非常に定評のあるトロッタ監督が、本作では華やかなモードの世界で火花をちらす女性たちを鮮やかに描きだす。
「ここは平穏の地(グッドランド)のはずだった……」そんなキャッチコピーが印象的なのは、ルクセンブルク映画の『グッドランド』。ある農村にやってきた男が、町の異変に気づき始めるとき、その先には驚きの展開が待っている……。謎が謎をよぶ、一風変わった奥深いスリラーである。

『シップ・イン・ア・ルーム』© Front Film

 北欧からは、フィンランド映画『ペット安楽死請負人』がノミネート。表向きは自動車修理工として仕事をしているが、裏の顔は、動物の安楽死を請け負う男。あるとき殺さなければならない犬を生かして自らのペットにしたがために、男の運命が、因果の歯車が狂いだす。クリント・イーストウッドや、チャールズ・ブロンソンを愛する監督が描くハードボイルド映画である。そして東欧ブルガリアからは『シップ・イン・ア・ルーム』が選出。「映像の力、そして映画の力を改めて認識させてくれる。映画ファンのこころに沁み入る作品ではないでしょうか」と矢田部氏も称賛の、非常にあたたかく、そして希望の込められているという本作に注目をしたい。

『グレイン』© KAPLAN FILM / HEIMATFILM / SOPHIE DULAC PRODUCTIONS / THE CHIMNEY POT / GALATA FILM / TRT / ZDF / ARTE FRANCE CINEMA 2017

 続いて、オタール・イオセリアーニ監督や、テンギス・アブラゼ監督などの作品にて映画ファンにはおなじみの国、ジョージア。そんなジョージアから届いたのは、癒しの泉を守る一家を描いた『泉の少女ナーメ』という作品だ。癒しの泉を守る少女、ナーメがあるとき大きな選択に迫られる。ジョージアの山岳地帯を背景にした息をのむ映像美も必見である。
『カランダールの雪』『ビッグ・ビッグ・ワールド』とここ数年必ずコンペティション部門に選ばれている実力派国であるトルコ。本年度は、『雪の轍』のヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督とともにトルコが誇る巨匠、セミフ・カプランオール監督の『蜂蜜』以来、実に7年ぶりの最新作である『グレイン』が選ばれた。自然のなかでしっとりと少年の心情が描かれていた『蜂蜜』とは打って変わって、本作『グレイン』は近未来を舞台にした、SFのモノクローム作品である。人類を救うため、あるひとりの教授が命をつむぐ「麦の粒」を探しもとめる旅に出る。自然を描いてきたセミフ・カプランオール監督が、どのような近未来を描くのか。その作風に期待が高まる。

『ザ・ホーム父が死んだ』© Iranian Independents

 そして、記憶にあるひとも多いであろう、本年度のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した、アスガー・ファルハディ監督の『セールスマン』。イラン映画はその質の高さから、いま最も勢いのある映画大国のひとつとして世界中から熱いまなざしが注がれている。本年度は『ザ・ホーム—父が死んだ』がノミネート。父の訃報を受けた娘が、数年ぶりに実家へと帰省する。がなりあう家族との会話を通じて登場人物の心理や様々な問題を炙り出す、スリリングな映画となっている。
 カザフスタンからは、現在注目の女性監督のひとりである、ジャンナ・イサバエヴァ監督の『スヴェタ』が選ばれた。耳の聴こえないろうあの女性が、突然彼女の働く工場からリストラを受けてしまう。家族のためにも職を失うことはできない彼女は、ある行動に出る……。ほぼ全編が手話の本作。その表情、まなざしの奥に潜む感情は何をものがたり、訴えようとするのか。スヴェタは、悪女なのか、それとも、不況を乗り越えてゆこうとする、たくましい女性なのだろうか?

『アケラット—ロヒンギャの祈り』© Pocket Music, Greenlight Pictures

『タレンタイム~優しい歌』『細い目』など、数多くの名作を世に送り出した、ヤスミン・アフマド監督の映画などにより、日本でも馴染みのある国のひとつとなったマレーシア。マレーシアからは、エドモンド・ヨウ監督の『アケラット—ロヒンギャの祈り』が上映される。副題からも示されるように、本作はロヒンギャの難民を背景として描いている。主人公の女性がロヒンギャの移民に対して残虐行為をするビジネスに関わるという過酷なものがたりを主軸に、彼女のラブストーリーを絡めながら、現在の社会問題を提起する映画となっている。
 中国からは、ドン・ユエ監督長篇第一作目である『迫り来る嵐』が選ばれる。忘れられゆく工業地帯を舞台に、ある事件の捜査にのめり込んでゆく警備委員の男。ものがたりが進むにつれて正気と狂気の境界線が曖昧になってゆく……。非常に迫力のある、中国ノワールである。

『最低。』© 2017 KADOKAWA
 最後に日本からは、ふたつの映画がノミネート。
 一本目は、瀬々敬久監督の最新作『最低。』。「瀬々監督の作品をお迎えできることを本当に嬉しく思います」と矢田部氏も喜ばしく述べた本作は、アダルトビデオ業界を背景にした、三人の女性の姿を真正面から描いた作品である。本作のAV女優を演じるにあたり、主演を務めた森口彩乃さんは、「アダルト業界に足を踏みいれる主婦の役ということで、あえて何もポルノ映画などを観ることはありませんでした」と記者会見のとき、その役づくりについて述べた。三人の女優たちの演じる女性像に注目である。
 二本目は、「この恋、絶滅すべきでしょうか?」というキャッチフレーズに思わず惹かれてしまう『勝手にふるえてろ』。松岡茉優さんの魅力が画面いっぱいに溢れている本作は、ふたりの彼氏(?)の間を揺れうごく女性を描いたロマンチック・コメディだ。本年度のコンペティションの中でも、おそらく最も明るい元気な作品が最後に花を添えた。「タイプはまったく違うのですが、今年の日本映画を代表する二本をコンペティションにお迎えできたことを、とても嬉しく思っております」と、最後に日本映画への感謝のことばを添えて、矢田部氏は本年度のコンペティション部門の紹介を締めくくった。

 さあ、いよいよ明日東京国際映画祭が開幕する。
 これからおとずれる十日間は、どんな夢の日々が待っているのだろう。あたらしい映画との邂逅や、映画人から受ける薫陶。映画がみせてくれる人生への美しい時間とその日々に、感謝をして。

(text:藤野みさき)

【コンペティション部門作品解説】
※ 各作品をクリックすると公式サイトの作品紹介ページに移ります。

◉ ヨーロッパ

『マリリンヌ』
107分 カラー フランス語 | 2017年 フランス

『スパーリング・パートナー』
95分 カラー フランス語 | 2017年 フランス

『ナポリ、輝きの陰で』
93分 カラー イタリア語 | 2017年 イタリア

『さようなら、ニック』
110分 カラー 英語・ドイツ語 | 2017年 ドイツ

『グッドランド』
107分 カラー ルクセンブルク語・ドイツ語 | 2017年 ルクセンブルク/ドイツ/ベルギー

『ペット安楽死請負人』
84分 カラー フィンランド語 | 2017年 フィンランド

『シップ・イン・ア・ルーム』
107分 カラー ブルガリア語 | 2017年 ブルガリア

『泉の少女ナーメ』
91分 カラー ジョージア語 | 2017年 ジョージア/リトアニア

『グレイン』
127分 カラー 英語 | 2017年 トルコ/ドイツ/フランス/スウェーデン/カタール

◉ アジア

『ザ・ホーム—父が死んだ』
78分 カラー トルコ語 | 2017年 イラン

『スヴェタ』
95分 ロシア手話・ロシア語 | 2017年 カザフスタン

『アケラット—ロヒンギャの祈り』
106分 カラー 北京語・マレーシア語・広東語 | 2017年 マレーシア

『迫り来る嵐』
120分 カラー 北京語 | 2017年 中国

◉ 日本

『最低。』
121分 カラー 日本語 | 2017年 日本 | 配給:株式会社KADOKAWA

『勝手にふるえてろ』
117分 カラー 日本語 | 2017年 日本 | 配給:ファントム・フィルム

第30回東京国際映画祭
期間:2017年10月25日(水)〜11月3日(金・祝)
会場:六本木ヒルズ、EXシアター六本木(港区)ほか都内の各劇場および施設・ホール
公式ホームページ:http://2017.tiff-jp.net/ja/

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【執筆者プロフィール】

 藤野 みさき:Misaki Fujino

1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期、未来の映画館を作るワークショップ第一期受講生。映画のほかでは、自然・お掃除・断捨離・セルフネイル・洋服や靴を眺めることが趣味。東京国際映画祭で一番楽しみにしている映画は、アルノー・デプレシャン監督の『イスマエルの亡霊たち』です。

Twitter:@cherrytree813

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2017年9月29日金曜日

フランス映画祭2017『エタニティ 永遠の花たちへ』上映後トークショー text藤野 みさき

© Rumi Shirahata/UniFrance

愛とは学ぶことであり、与えられるものではない
――『エタニティ 永遠の花たちへ』劇中の台詞より

 ヴェネツィア国際映画祭へ出品された『ノルウェイの森』から早7年。トラン・アン・ユン監督待望の最新作は、19世紀から現代へと紡がれる女性たちの生命の足跡を綴った美しい人生賛歌である。ものがたりの始まりでもあり、映画の中心のヴァランティーヌ役をつとめるのは、『アメリ』でおなじみのオドレイ・トトゥ。その他にメラニー・ロラン、ベレニス・ベジョと仏映画界の実力派女優たちが、婚約者の恋人、その親友であり親に決められた結婚を乗り越えてゆく女性の姿を演じる。
 名撮影監督マーク・リー・ピンビンが映し出す、自然や花々の色彩豊かな映像美とともに、台詞をできるかぎり排除し、人物の顔や表情、映像や音楽でものがたりを描くことを試みたというトラン・アン・ユン監督。質疑応答では、その撮影秘話や、俳優たち自身の人間性・映像に託した思い、そして監督自身の大きなテーマでもある「美」についてを語った。

(2017年6月25日(日)有楽町朝日ホールにて 取材・構成・文:藤野 みさき)

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Ⅰ ものがたりの誕生に至るまで

矢田部吉彦(以下矢田部):トラン・アン・ユン監督、お迎えできて本当に光栄です。ものすごく美しい映画をつくってくださって感謝申し上げます。まず観客の皆さまに一言ご挨拶のお言葉を頂戴できますでしょうか。

トラン・アン・ユン(以下TAH):皆さま、本日はこの映画の上映にお越しくださって本当にありがとうございます。朝、というフレッシュな時間に皆さまにお見せできたことを嬉しく思っております。
そして、いま客席の中に『ノルウェイの森』時代の友人が来てくださっています。今回の映画『エタニティ 永遠の花たちへ』では「子どもが産まれる」ということがもちろんテーマになっていますので、この上映に来てくださり、子どもさんが産まれた友人に「おめでとう」と申し上げたいと思います。

会場:拍手

矢田部:ありがとうございます。いまおっしゃった『ノルウェイの森』が2010年ですから、7年ぶりの作品になるわけですけれども、『ノルウェイの森』とはまったく違う世界の物語で、どのようにしてこの映画の着想を得られたのか、映画の誕生のいきさつを教えていただけますか。

TAH:実は『ノルウェイの森』を終了して1年後には、今回の『エタニティ 永遠の花たちへ』のシナリオができていたのですが、資金を集めるのに時間が掛かりました。

矢田部:お金……は、このキャストを見るとお金は集まるのではないか、と思ってしまうのですが、そういうものでもないのでしょうか。

TAH:そのことにつきましては、出演してくださった俳優さんたちがいつもよりも低いギャラでこのオファーを受けてくださったのです。おそらく、平均としていつもの彼等の10分の1ほどではないかと思われるギャラで承諾してくださいました。

矢田部:ありがとうございます。

 矢田部さんから会場へと質問のバトンが渡される前に、トラン・アン・ユン監督は観客の皆さんにこのような質問をされました。

TAH:皆さんは、この映画をご覧になられて、涙を流されましたか? 私は映画を撮りながら何度も泣きました。

 そして、その質問に答えるかのように、会場からはあたたかな拍手がトラン・アン・ユン監督へと送られました。

© Rumi Shirahata/UniFrance


Ⅱ 主演女優・俳優たち ベレニス・ベジョとの逸話

Q1. 素晴らしい映画を、本当にありがとうございました。この映画では登場人物の台詞というものが極端に少なく、表情や動き、映像と色彩の映画だなと感じました。そして質問は、おそらくこれは多くの方々が訊きたいのではと思うのですが、主演のオドレイ・トトゥさん、メラニー・ロランさん、ベレニス・ベジョさんの起用についてです。特に、ベレニス・ベジョさんですけれども、個人的にとても注目をしている女優さんの一人で、『アーティスト』(第84回アカデミー賞作品賞受賞作品)でも主演女優賞にノミネートされましたよね。それから『ある過去の行方』(2013年、アスガー・ファルハディ監督)にてカンヌ国際映画祭でも主演女優賞を受賞されました。すごく注目をしている女優の一人なので、ベレニス・ベジョさんの起用の過程についてをお伺いしたいと思います。

TAH:キャスティングは割とシンプルに進行いたしました。一番大切だったことは、もちろんその時スケジュールが空いている方を探す、ということだったのですが、その他で重要視をしたのは、その人たちの顔からヒューマニティ、人間性が感じられるということでした。今回の映画では顔を見せる映画にしたいと思っていたのです。つまり、その人の人生や人間性というものが、なにかその人の顔を見ただけで感じられるような作品にしたいと思いました。そして本作はストーリーらしいストーリーはなく、シーンらしいシーンはなく、心理描写を排除しているのですけれども、だからこそ、俳優が場面に現れた時にそこに人間性が現れている、という風にしたかったのです。
そして、私はこの作品の原作を読んですごく感動しました。その時に私が覚えた感動、エモーションというものを伝えたいと思いました。そのために特別な映画の表現方法、それはとても大胆なものだったのですけれども、さきほど申し上げましたように、ストーリーらしきストーリーがない、心理描写がない、シーンらしいシーンもないというものでしたが、この手法があの感情を伝える唯一の方法だと思ったのです。私が原作を読んだ時に感じたのは、「時の流れの偉大さ、雄大さ」というものだったからです。

矢田部:いま会場のお客さまが、ベレニス・ベジョさんにとても注目をされているということだったのですが、彼女と仕事をなされて、どのような女優さんであったのか。その印象をお聞かせいただけますか。

TAH:楽しかったです! 彼女は出演をする女優さんの中で唯一私に“イラついていた”女優さんでした。

会場:(笑)。

TAH:撮影中、最初から彼女は「率直に言って、私は何をやっているのか分からないわ!」と言いました。そして、撮影前に私は役者さんたちを集めましてミーティングを行ったのですが、そこで一つ約束をしました。私自身、確信はなかったのですけれども。実はその時点で、私がどのように映画を撮ろうか、どのような映画になるのか。ということが分かっていなかったのです。その時に私が皆さんに言ったことというのは、「恐らく撮影期間中あなたたちは途方にくれたり、不満を覚えたり、フラストレーションを感じたりするかもしれません。でもここで約束できるのですが、この映画は、終わったらば、完成したらば、そこに見られる豊かな表現というのは、いまあなたたちが想像している以上のものに必ずなります」と言いました。……でも、私自身、本当はその自信はなかったのですけれども。でも「撮影はしなければならないので、俳優さんたちを安心させなければならないのです」とも言いました。
(ベレニス・ベジョが劇中着ている、ウェディングドレスに列なる袖のボタンを外す動作をしながら)新婚初夜のシーンで、ここのボタンを一つ一つ外さなくてはならず、それが彼女にとってはなかなか難しかったのです。なので、私が例を何度かやって見せました。ですが、お手本を見せてもらうにも拘らずできないということに彼女が苛立ちまして、「私はあなたの操り人形じゃないのよ!」と怒ったのです。「そのようなことをされて、私が下のように感じるわ」と言って怒ったので、私のほうで謝りました。撮影を続けなくてはならなかったので。でも、そのようなことがあったからこそ、そのあとすごく仲良くなることができました。

矢田部:ありがとうございます。

Ⅲ 女性視点である印象・感性について

Q2. とても美しかったです。お花のある暮らしというものがこんなにもすてきで、幸せな感じが映画の中から伝わってきて、それが自らの家の中にあったらすごくすてきだろうなって思いました。いま(結婚初夜の)お袖のシーンの話しが出ましたが、あのシーンもすごく美しいなと思ったのです。全体的に女性の視点で描かれた、女性の感覚が盛り込まれたもので、男性の監督が撮られているということが不思議に思う部分もあるのですが、監督としましては、あえて女性視点で撮られていったのでしょうか? それとも監督自身の男性的な部分を折り込んだところもあったりするのでしょうか?

TAH:この原作のお話に私は感動をしたので、何か女性的なものを目指したというより、原作の世界を、如何に、どのようにして映画的言語に置き換えるのか。そして、洗練された映画表現に移し換えるのか、ということをまず目指しました。なので女性的な感覚、とおっしゃってくださいましたけれども、自分の感性・感覚というのがどこから来るものなのかというのは、自分では意識しておりません。ただ一つ面白いのは、私の1本目の映画であります『青いパパイヤの香り』がカンヌ国際映画祭で紹介された時に、私の、このアジア風の名前「トラン・アン・ユン」というのは欧米の人にとっては男性なのか女性なのかわからないということで、女性だと思われた方が多いらしく、私が登場したところ、男性であるということを見て驚いた人がたくさんいらっしゃったそうです。ですから、私はしばしば冗談を言うのですけれども、自分はカンヌで性転換をしたんだ。という冗談を言います(笑)。

Ⅳ ベトナム戦争 大家族への想い

矢田部:ありがとうございます。いま『青いパパイヤの香り』のお話しが出ましたけれども、『夏至』でも姉妹のしっとりとした関係が描かれていて、とてもこの作品にも繋がるなと思ったのですが。

TAH:そうですね。自分で分析をしたことはないのですけれども、常に私の映画では家族が出てきます。私の家族というのは、ベトナム戦争のこともあり、とても少人数なのです。私の家族というのは、両親と弟しかいないと。そして、私は家族が少人数であるということを、とても“脆い”と感じていたのです。何かあったら家族がいなくなってしまうのではないか。そのようなことを思っておりましたので、この原作本で描かれている大家族、家族がいっぱいいる、ということに非常に感銘を受けたのです。そしてこの映画でも、最後に二つの家族が合体をして、16人の子どもが一つのテーブルの周りに集まって食事をするシーンというのがあるのですけれども、あの場面などが私がとても感動してしまうところなのです。

矢田部:ありがとうございます。

Ⅴ 人間は自然の一部であるということ 永遠から見た視点

Q3. ありがとうございます。夢のような2時間でした。僕は監督の作品、この映画もそうなのですけれども、『青いパパイヤの香り』からずっと見てきて、一番の魅力というのは、人間と風景の調和された映像と言いましょうか、風景ととても一体感があるということです。それはただの映像の美しさというよりも、そのことを描くことによって、毎回人間は自然の一部であるという、当たり前のことにハッと気付かされます。特に今回の場合のような大家族の何年もの時の流れの中で、生と死が循環されてゆく。その中には理不尽な死も含まれていたりするわけですけれども、それでも、その生と死の循環というのは自然の摂理の中の一つの風景として世界の中で調和をしている、その美しさのようなものをとても強く感じました。これは僕の勝手な監督の作品の魅力なのですが、監督ご自身の世界観、その根底にあるものというのは、既に持たれているものがありましたら、教えていただきたく思います。

TAH:いまおっしゃっていただいたことをまさしく感じております。映画作家といたしましては、もちろん人生に対するビジョンというものを映画で見せてゆく、つまりはスクリーンを通して人生というものを表現してゆくことを目指しているのですが、その点において自然というものは私にとって一つの方法、一つの手段でありました。何の手段かと言いますと、人間が感じる感情を視覚的なものに表す、そのクォリティというものを表すというのに自然が私の映画において重要な役割を果たしております。
もう皆さまお気づきだと思うのですけれども、この映画は“永遠”から見た視点というもので語られています。そして、永遠から見た場合にどうなるのかと言いますと、人生のディテールというものはすべて消えてしまうと。本当でしたら描かれる戦争の詳細ですとか、家族の問題の詳細ですとかはすべて消えてしまって、そこで繰り返されるのは、婚約・結婚・出産・死といったものがどんどん流れてゆく。そしてこのような方法、このような見せ方というのが、時の流れを表す唯一の方法だと思ってこのような手法をとっています。つまり長い時の流れから見れば、残るものは思い出だけなのだ、ということです。

© Rumi Shirahata/UniFrance

Ⅵ 音楽の効果~観客自身が物語りを紡ぐということ~

Q4. 映像とそれから表情と、ということを先ほどの方もおっしゃられていたのですが、もう一つ、僕は非常に音楽が(登場人物たちの)表情の説明をしてくれているような気がしたのです。例えば、不安感を煽ったり、これから訪れるであろう死であったりということを、とてもピアノが表しているなと思ったのですが、監督の中でシーンを撮っていらっしゃる時にあの音はなっていたのか、それとも、映像を編集した時に「この音だ」という風に思われたのか。その辺の意図をお伺いできたらと思います。

TAH:コメントをありがとうございます。おっしゃられたように、こうした音楽の使い方というのは、これまでの私の映画の中では無かった手法で、このような音楽の手法は今回初めてやってみました。ご覧のように、この映画においては映像というのがナレーション的な繋ぎ方はしていないと。なのでむしろ、音楽によって物語りを語らせるということを試みてみたのです。そしてもっと正確に言いますと、音楽がお話しを語っているのではなく、観客の皆さんご自身でお話しを紡ぐその手助けを音楽がしているのだと思います。つまり、まるで観客の皆さんが作家になったような気持ちで映画を見ながらお話しを紡いでいる。そのような仕掛けになっています。それはまさに音楽が、観客がもっている美の意識を刺激することにより、そうした状態が生まれるのです。
そしてこの映画で流れている音楽というのは、私がよく知っている、いつも聞いている音楽を選んでいるのですけれども、これは編集段階で映像に音楽をテストをしていってつけたものです。驚いたことに4分間あるような長い曲、例えばフランツ・リストのピアノ曲というのは、画に合わせることがとても難しいのですけれども、今回の映画は驚くほど編集した画に音楽がぴったりと合ったのです。そこであまりにも音楽と画が一致するので、編集担当者が一つの仮説を立てて私に話してくれたのですが、その方の仮説いわく、私があまりにもその曲をよく知っているので、撮影をしながら音楽が私を導いていたのだろう、と。それがゆえに映像にあとから音楽をつけたら、こんなにも長い曲でもぴったりと合うのだろうと言いました。

矢田部:ということは、撮影中でも監督の無意識下で音楽が流れていたのかもしれない、ということですね。

TAH:はい、そうなのです。

矢田部:ありがとうございます。

Ⅶ 愛する人への思い出 美しさこそが残るもの

Q5. この映画はナレーションがとても魅力的だったと思うのですが、前半に比べて、後半になるにつれて要所要所に(ナレーションが)入ることの回数が減っていったように気がするのですが、何か理由がありましたら教えてください。あとは、映像ですね。人が亡くなったあと、(亡くなった人物の)回想シーンが流れている気がするのですが、神の視点と言いますか、時間の流れに抗うような、断ち切るように入ってくるのがすごくすてきだと思いました。

TAH:これは“思い出”についての映画です。死のあとに見えてくる映像というのは、生きている人の死者に対する思い出の映像なのです。でも、神の視点ではありません。そして、ナレーションの入れ方の密度と言いますのは、自分では意識したところはありません。私は(ナレーションの)入れ方というのはいつも勘で選んでおりますので、ここが必要、ここが良い、というところに随時入れております。
いま、皆さんのお話しの中でも「美」ということばがたくさん出てきましたけれども、私は美こそが残るものだと思っています。それは映画においてもそうですね。そして、映画における美、映画が美しいと感じる時は、その伝わり方が正しい時にしか美しさを感じないと思うのです。どんなに美しい映像を撮っても、それがそこに在る息というものがなければ、人々はインパクトを感じないのです。私は映画作りにおいて常に映画館を出る観客の方に、何かしらの美を残し、その人に残る美を与えて、映画館をあとにしてもらいたいなと思いながら、作品づくりをしています。そして、そのために観客の方々がそれぞれ持っている美の、美意識の潜在的な力を呼び覚ますような、そのような作品づくりを心掛けているのです。

* * *

 思い返すと、この映画では「愛してる(ジュテーム)」ということばがなかったことに気がつく。
 でも、妻が夫を、夫が妻をみつめるまなざしに、ことばはなくとも、ただその交される瞳だけで、ふたりは愛し合っていることが充分に伝わってくる。甘く、優しい口づけ。ふたりの恋が始まった花園。花園にある小道を走り、振り返ったときの彼女の笑顔と、その美しい髪を揺らした風。その瞬間こそが永遠に息づき、大切な想い出としてのこるものであるのだと。
 愛情はおたがいが想い合えることもあれば、一から育んでゆくこともある。親の決めた結婚では、夫が「君のことを、僕はまだ愛していると言えない。でも、これからふたりで学んでゆこう」とつげる。「愛とは学ぶことであり、与えられるものではない」という劇中の美しいことばがあるように、相手に求めること、愛されたいと受動的に願うことだけでは、愛情を育むことは難しい。恋愛の美しいところに想いをはせるのではなく、ふたりで「学んでゆこう」と。おたがいを想いあい、すこしずつ相手を知りながら、育まれてゆく愛があることを映画はあたたかく映し出す。

 本編上映前、トラン・アン・ユン監督はこれから映画を観る私たち観客の様子を、朝日ホールの扉の傍で、そっと見守っていた。そのときの監督の優しさに満ちた笑みと、身の振る舞いから滲みでる知性を忘れることができない。質疑応答でも述べていた「観客の皆さんに、(何かしらの)美を残し、与えたい」というトラン・アン・ユン監督の願いが、この映画を通して多くの方の心へと届くことを願っている。そして、劇場をあとにしたときに感じた映画の息遣いを、私も心のなかで大切に育んでゆきたい。

(text:藤野みさき)


 『エタニティ 永遠の花たちへ』
原題:Éternité/2016年/1時間55分/フランス=ベルギー合作

監督:トラン・アン・ユン

公式ホームページhttp://eternity-movie.jp

劇場情報
9月30日(土)、シネスイッチ銀座ほかロードショー


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『フランス映画祭2017』               
   
開催日程:2017年6月22日(木)~25日(日)※会期終了 
会場:有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇
オープニング作品:カトリーヌ・ドヌーヴ主演『The Midwife』(邦題:ルージュの手紙)
主催:ユニフランス
公式サイト:www.unifrance.jp/festival

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino
1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期、未来の映画館を作るワークショップ第一期受講生。映画のほかでは、自然・お掃除・断捨離・セルフネイル・洋服や靴を眺めることが趣味。この秋は、敬愛する作家、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の特集上映をとても楽しみにしています。

Twitter:@cherrytree813

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2017年9月27日水曜日

映画『散歩する侵略者』評text成宮秋祥

「奪うことしか知らない者がたどり着いた最も尊い概念とは?」


※こちらの文章では一部、映画の結末に触れている箇所があります。

宇宙人の侵略を描いた映画は、さほど珍しいとはいえない。21世紀に入ってからは、スティーヴン・スピルバーグの『宇宙戦争』(2005)や、昨年に日本でも上映された J・J・エイブラムス製作の『10 クローバーフィールド・レーン』(2016)など、大作から低予算映画にいたるまで宇宙人の侵略を描いた映画はこれまでも数多く製作されている。
本作の見どころは、ジョン・カーペンターやトビー・フーパーといったアメリカB級映画の巨匠の作品から強く影響をうけた黒沢清が、宇宙人の侵略を描いた映画を撮るとどのような映画になるか? に尽きると思われる。特に、この映画の物語がカーペンターの『スターマン/愛・宇宙はるかに』(1984)の物語に類似している点なども、その期待に拍車をかけているといえる。
しかし、実際に映画を観てみると、たしかに宇宙人の侵略を描いたSFスリラー映画のような雰囲気は冒頭から十分に感じられるのだが、次第に、映画はSFスリラー映画のような雰囲気から乖離していき、この世とは思えない地平に我々を導いていく。これは黒沢清の映画にはよく見られる展開ではある。だが、黒沢清の映画は、画面から発する異様な引力を持って我々をぐいぐい引っ張っていきながら、最後には突き放し、困惑や混乱をもたらすのに対し、本作は優しく両手で包み込むような愛情の深さが感じられた。それは、この映画のテーマが“愛”であり、そして愛をめぐる夫婦の物語だからだ。

本作を観て、似たような方向性で撮られた黒沢清の映画に『岸辺の旅』(2015)を想起する人がいると思われる。あちらは幽霊を物語に取り入れ、幽霊となった夫とそれを迎える妻の奇妙な日常生活を描いている。単純に考えると、本作で松田龍平が演じる加瀬真治という夫は、『岸辺の旅』の幽霊となった夫を、宇宙人に憑依された夫に置き換えたに過ぎない。それだけだとすると、ただの焼き直しになってしまうのだが、それでも新鮮な感覚でこの宇宙人に憑依された夫である真治を、我々が観ることができるのは、真治の心が空っぽだからだ。生まれたての赤ん坊のように何も知らない状態で、長澤まさみが演じる妻、鳴海と出会う。しかし、二人の夫婦仲はすでに冷めきっていて、真治はそのような状況を理解できないまま、鳴海と奇妙な日常生活をおくっていくことになる。
心が空っぽであるがために、好奇心を輝かせ、鳴海の迷惑を顧みずあらゆる事柄に興味を示す真治。彼の奇妙な言動に苛立ちながらも、まるで母親のような態度で過保護に面倒を見る鳴海。二人のやりとりは、とても宇宙人の侵略を描いた映画とは思えないほどほのぼのと描かれている。このほのぼのとした描かれ方は、この夫婦の仲が完全には冷めきってはいないことをほのめかしている。人間関係が完全に冷めきった場合、お互いに無関心になり、自然と関係性が消滅していく。しかし、彼らはお互い離れたりはせず一緒に暮らしている。宇宙人に憑依された真治は人間を知ろうとする好奇心のため鳴海のそばにいるのかもしれないが、鳴海の場合はどこかに真治を再び愛したい、あるいは真治に再び愛されたいという願望があったのではないだろうか。そう思わせるほど、鳴海の言動は、苛立っているようでどこか真治に対して愛情深いものを感じさせる。
この映画の一番の特色は、宇宙人が人間の“概念”を奪う特殊能力を持っているという奇抜な設定にある。この人間の概念を奪うという行為自体がメインに描かれると、映画は途端に政治的な相貌に変容していく可能性がある。原作にあたる戯曲を書いた前川和大は、概念が奪われることで人が何かを理解することを失う恐怖を表現しようとした一方、概念が奪われたことで幸福になる場合――概念の喪失によって恐怖と幸福が背中合わせになって生まれてくるということ――を表現しようとしたと語る。この恐怖とともに生まれる幸福というのは、広い意味で例えると、国という概念が失われた場合、国という概念の理解が失われるため、国同士が争うという行為の意味が通らなくなるため、国家間の戦争がなくなる可能性が生まれる。これを幸福と捉えることもできるということである。
もちろん、本作でも“所有”の概念を奪われた満島真之介が演じる丸尾が、物を所有することで奪い合いや争いが起きてしまうことの愚かさを民衆の前で説く場面がある。これは明確な反戦メッセージといえる。概念を奪われたあとの丸尾の表情は異様に清々しい。断捨離やミニマリズムといった思想が流行っている現代日本において、丸尾の発言には強い説得力が感じられる。
ただし、こうした政治性を帯びた場面はごく一部であり、どちらかというと物語は、宇宙人に憑依された真治が人の概念を奪うことでどのように変化していくのか、そして真治と鳴海の夫婦生活はどのような展開を迎えていくのかが主軸になっている。

宇宙人が人の概念を奪うという行為は、言いかえれば一方通行のコミュニケーションと捉えることができる。これは悲しいことである。宇宙人たちは人から概念を奪うという行為でしか物事の意味を理解することができない。それと同時に、彼らは誰かに何かを与えるという行為を知らない。これは与えるという概念を知らないだけだということは明白である。そして彼らは“与える”の対になる“奪う”という概念も知らないのだが、奪うという行為そのものは実行できるのである。
これには2つの意味があると思われる。1つは任務のため。もう1つは自分たちの知的好奇心を満たすめである。任務だからやっているという動機は、言いかえると思考停止の状態を指す。また、受け身の状態でもあり、本人の意思は存在していない。しかし、真治のように人の概念を奪っていくにつれて、人間に興味を抱くようになっていき、次第に、鳴海を愛するようになっていった行動の根底には、純粋に人間のことを知りたいという知的好奇心を強く持つ彼の本能的な欲望が関係しているといえる。
宇宙人に憑依された真治は、生まれたばかりの赤ん坊のように空っぽの心を持ったイノセントな存在として位置づけられている。そして、イノセントな存在として描かれる真治が人の概念を奪っていく行為は、やはり悲しいのである。これは人の概念を奪ったあと、その概念を持ち主に返すことが不可能だからである。人の概念を奪うという一方通行のコミュニケーションを行い、自分自身の人間に対する理解力が増しても、概念を奪われた持ち主は別の人格に変容しているため、真治が概念の持ち主と良好なコミュニケーションを図ることはそもそも困難なのだ。
奪うことでしか相手を理解できず、奪ったとしても相手が急激に変わってしまい、結局お互いに理解しあえない。真治と人間とのコミュニケーションには、越えることの難しい、見えない“壁”が存在している。この壁が劇中で崩れることはなく、あくまで真治は、人から概念を奪い続けることで人間を理解し、鳴海を深く愛するようになっていく。そして真治は、“愛”という概念を理解したいと思うようになり、最終的に、ある事情から鳴海の愛の概念を奪ってしまう。
鳴海から愛の概念を奪うまで、真治は愛の概念こそ理解できないでいたが、決して愛の行為がなかったとはいえない。例えば、二人で食事を食べる場面では、宇宙人に憑依される前の真治は嫌いな食べ物を絶対に食べなかったが、宇宙人に憑依されたあとの真治は、鳴海が作った食べ物は何でも食べるようになっていた。これは概念を奪い続けるうちに真治の記憶を獲得した宇宙人が、心の開いた状態の真治を真似たのか、それとも宇宙人と真治の意識が統合され、鳴海を愛する新しい真治が無意識にとった行動なのかは明確には示されない。ただし、少なくともこの真治の態度の変化には間違いなく愛があったといえる。
愛という行為自体は行えているのに、愛の概念を理解していない真治は、鳴海から愛の概念を奪うことで、愛することの本質を知る。愛の概念を奪われた鳴海は感情の豊かな性格が変容し、無情の人となってしまう。そんな鳴海に対して愛を理解した真治は、ずっと鳴海のそばにいることを選択する。本作が描こうとした愛とは、“償い”という愛である。

黒沢清が尊敬するアメリカ映画の巨匠サミュエル・フラーの初期の作品に『地獄への挑戦』(1949)という西部劇がある。これは実在した西部のアウトロー、ジェシー・ジェームズを暗殺したボブ・フォードの悲しい末路を描いた映画である。富や名声、愛する女性との幸せな生活のために丸腰のジェシーを背後から暗殺したボブは全てを手に入れたかに見えたが、すぐに落ちぶれ、彼を暗殺したことを後悔し続けた挙句、自らも無残な最期を遂げる。実は、ジェシーを心から尊敬し愛していたボブは、死ぬ間際にジェシーへの愛を呟いて果てる。
人から概念を奪うことしかできない真治は、『地獄への挑戦』のボブのように、愛する鳴海の愛の概念を奪うという取り返しのつかないことをしてしまう。ジェシーとは違い、鳴海は死んでいないが、その愛の概念は失われている。愛を理解した真治にとって、鳴海のその変容はとてつもない悲劇である。しかし、『地獄への挑戦』のように救いようのない悲劇とは言い難い。なぜなら、愛というのは内面から湧き出てくるものであり、そして人に与えられるものであることを真治は理解しているからだ。そこまでの理解を促したのは、鳴海の愛に対する理解の賜物である。彼は奪うという行為と対になる“与える”という行為を理解した。だからこそ、真治は償いという愛をもって鳴海のそばに居続ける。鳴海の愛の再生を信じて。
本作は、奇抜なアイデアによって彩られたSFスリラーの仮面を被った、一組の男女のあまりにも純粋な“愛”の喪失と再生を描いた美しいロマンスである。

(text:成宮秋祥)




『散歩する侵略者』
2017/129分/日本

監督:黒沢 清

公式ホームページ:http://sanpo-movie.jp/

劇場情報
9月9日より全国ロードショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akiyoshi Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneoweb、映画みちゃお!、ORIVERcinema寄稿)。

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2017年9月19日火曜日

映画『パターソン』評text成宮秋祥

「自分の時間を生きること。そこから見えてくる気づきと愛の感情」 


『パターソン』の主人公は、アメリカのニュージャージー州パターソン市に住む、バス運転手のパターソンという男性だ。パターソンに住むパターソンのごく平凡な1週間の日常をたんたんと日記のように簡潔に描いている。映画は最後まで物語らしい物語を描かないまま、人が夜になると眠るように、ここで終わりとばかりに自然と幕を閉じてしまう。しかし、鑑賞後には何とも言えない余韻が残る。映像のそこかしこに人間に対する確かな愛情が溢れている。そして、平凡な日常の中に何かしらの意義を持って生活することの大切さを微笑ましいユーモアを交えて描いていることに気づかされる。

パターソンの1日は決まっている。朝6時に目を覚まし、妻ローラにキスをする。朝食を食べ、職場に向かう。バス運転手としての仕事をこなし、休憩時間に詩をノートに書く。帰宅するとローラと夕食を食べ、その後は愛犬と夜の散歩に出かける。行きつけのバーに顔を出し、ビールを1杯飲む。そして家に帰り、ローラと共に眠る。
映画の中で描かれるパターソンの1週間の日常は、基本的にこの一連の生活習慣の繰り返しである。しかし、確かにパターソンがとる1日の行動はいつも同じであるが、周囲の状況は常に変化している。例えば、パターソンがいつも立ち寄るバーでは黒人のカップルの喧嘩が日を追うごとにエスカレートしていく。他にも、妻ローラがギターを買ってきて「線路の歌」を歌いだしたり、ケーキを作って市場に出かけていったりする。パターソン自身も詩を書く少女と出会ったり、尊敬するW・C・ウィリアムズを好きな日本人の詩人と出会ったりする。
パターソンの行動パターンは常に一貫しているため、一見すると彼がおくる日々に全く変化がないように感じられるが、実際には周囲の状況は日を追うごとに変化していき、それを刺激としてパターソンは詩を書いていく。パターソンは意識的か無意識的か分からないが、一貫した行動パターンを送りながら、日々変化する日常をじっくり体感し、自分だけの詩を生み出す習慣を確立しているといえる。

パターソンのこのような生き方は、忙しい日常をおくる現代人には縁が遠いものに映るだろう。自分で好きに忙しく生きている人はピンとこないかもしれないが、自分の時間を犠牲にしてまで忙しく生きている人には、パターソンの生き方は新鮮に感じられる可能性が高い。なぜなら彼は日々変化する日常を体感することで自分の時間を生きているからだ。それだけの余裕や落ち着きがあるからこそできる行為でもある。パターソンは日々変化していく日常を一分一秒ごとに体感している。映像のそこかしこに人間に対する確かな愛情が溢れているように感じられるのは、日々変化する日常をパターソン自身が愛しく思っているからだ。
1日の流れの端々に描かれる些細な出来事にも独特なユーモアが感じられるのは、パターソン自身がその些細な出来事が起きている時間さえも体感している証拠といえる。余裕がなく忙しく生きていればその些細な出来事は無関心によって省略され、なかったことにされる。知らぬ間に自分の時間が失われていく虚しさを味わうこともある。しかし、余裕を持ってその些細な出来事に関心を持てば、新しい視点や新しい気づきを発見することがある。今まで見えてこなかったもの、知らなかったものに出会える瞬間は誰しもありがたいと感じるのではないだろうか。そのため、自分の時間を生き、自分の時間を確かに体感している人たちは、例えそれが代わり映えしない日常だったとしても、愛しさを抱きながら日々をおくる。パターソンもその一人だといえる。

『パターソン』のパターソン市に住むパターソンが送る日常は、自分の時間を体感することを省略して生きている現代人に良く生きるヒントを与えたといえる。それはその人たちが忙しさを理由に忘れてしまった自分の時間を体感する意義や、そこから見えてくる気づき、新しい何かを発見あるいは生み出す生産的な発想。そしてそれらを愛しく感じる人間の、愛の感情である。

(text:成宮秋祥)




『パターソン』
2016/118分/アメリカ

脚本/監督:ジム・ジャームッシュ

公式ホームページ:http://yellow-flowers.jp/

劇場情報
8月26日より新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akiyoshi Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneoweb、映画みちゃお!、ORIVERcinema寄稿)。

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2017年9月10日日曜日

映画『草原に黄色い花を見つける』評text成宮秋祥

「ベトナムの大地から広がる人間の深い愛」


美しい映画を観た。ただ美しいのではない。1980年代のベトナムで、貧しさと共に生きる人々の中に、確かな人間の愛を実感できたからだ。あらゆる国の人たちが共感できる青春の息吹、初恋の香り、そして人間への深い愛情が本作には溢れている。観る者を幸福にする美しさがそこかしこに鏤められていた。

思春期を迎えたティエウは、近くに住む少女ムーンが気になっている。ティエウにはトゥオンという純粋な心を持った弟がいて、いつも仲良く暮らしている。ある日、ムーンの家が火事になり、ムーンはティエウとトゥオンの家で暮らすことになる。次第にムーンに恋心を募らせるティエウだったが、ムーンと仲良く遊んでいるトゥオンに嫉妬心を抱いてしまい……。

本作を観ると、岩井俊二の映画を思い浮かべてしまう。映像はノスタルジックでそれでいてどこか脆さがあって美しく、登場する子どもたちは純粋さと邪悪さの間で悩み苦しみながらそれぞれの青春を生きている。この映画でも岩井俊二の映画に共通する子どもの純粋さと邪悪さが、時に繊細に、時に禍々しく交錯して描かれている。
それはティエウの視線で表現されている。ムーンに惹かれ、心を奪われたような儚い表情でムーンを見つめるティエウの視線には、人を思うことに目覚めたティエウの純粋さが感じられる。また、ムーンがトゥオンと仲良くしているところを陰で見つめるティエウの冷たい視線には、戦慄を覚えるような禍々しさが感じられる。
思春期の子ども特有の複雑な心の揺れを、この映画はベトナムの広大な大地を舞台に、素朴に自然な形で表現していて味わい深い。

この映画は人間の深い愛を描いた映画だ。ティエウとトゥオンの関係は、聖書におけるカインとアベルの関係を彷彿とさせる。神に愛されたアベルに嫉妬した兄のカインは、憎しみのあまりアベルを殺してしまう。ティエウもまた、ムーンと仲良くしているトゥオンに嫉妬し、強い怒りを抱きトゥオンを傷つけてしまう。
深く後悔するティエウは、ムーンと仲良くなっていくトゥオンが許せず冷たく接したり、意地悪したりしたことを思い出す。しかし、純粋なトゥオンは傷つけられてもティエウを愛し続けていた。トゥオンの純粋な愛情に心を打たれたティエウは、思春期の複雑な心理状態から人を思いやる大人の心に目覚めていく。
物語の後半は、ティエウの初恋の物語からトゥオンへの贖罪の物語に移り変わり、映画の風情もノスタルジーからファンタジーの色合いにシフトしていく。この突然の変容も自然で違和感なく、観る者を魅せて飽きさせない。

監督を務めたヴィクター・ヴーは、アメリカ・ハリウッドで映画製作を学んだ。そのためか、ベトナムの貧しい村の人々の映像描写にはどこか都会的な洗練されたものが感じられる。より現実に近い土着的な風情を出す方法もあるが、この都会的なキラキラした映像感覚の方が、ある種の幻想性を秘めた本作には適していたと思われる。
映画の最先端を行くハリウッドで映画製作を学んだヴー監督は、間違いなくベトナム映画界に新鮮な風を呼んだといえる。かつてアメリカ映画がフランスのヌーヴェル・ヴァーグに影響を与え、フランス映画の時代が進展したように、ベトナム映画も新しい時代に進もうとしているのかもしれない。『草原に黄色い花を見つける』は、新しい時代に力強く進もうとする意志に溢れながらも、その内面は人間の深い愛を描き抜いた真に美しい映画だ。

(text:成宮秋祥)


『草原に黄色い花を見つける』
2015/103分/ベトナム

監督:ヴィクター・ヴー

公式ホームページ:http://yellow-flowers.jp/

劇場情報
8月19日より新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akiyoshi Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneoweb、映画みちゃお!、ORIVERcinema寄稿)。

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2017年7月16日日曜日

「フランス映画祭2017 『エル ELLE』上映後トークイベント」text藤野 みさき

※一部、作品の結末に触れている箇所があります。

©Rumi Shirahata/UniFrance

 本年度の仏映画祭のなかでも、最も注目を集めた映画『エル ELLE』。フィリップ・ディジャンの原作「エル ELLE」をもとに、この映画は『ブラックブック』以来、実に10年ぶりのポール・ヴァーホーヴェン監督の長編作品となった。主演を務めたのは、まさに「現代のグレタ・ガルボ」と呼ぶにふさわしいフランスの名女優、イザベル・ユペール。上映後の場内の熱気が冷めやまないなか、盛大な拍手と歓待とともに、ポール・ヴァーホーヴェン監督、イザベル・ユペールを壇上に迎えた。司会は東京国際映画祭プログラミング・ディレクターである矢田部吉彦さん。限られた短い時間のなか、矢田部さんのテキパキとした司会進行のもとで質疑応答が始まり、主人公ミシェルの内側の世界から彼女の役づくりに至るまでを語った。ここでは、その質疑応答の様子の全文を記す。

(2017年6月23日(金)有楽町朝日ホールにて 取材・構成・文:藤野 みさき)

* * *

矢田部吉彦さん(以下矢田部):ポール・ヴァーホーヴェン監督、そしてイザベル・ユペールさん。この見たこともないような本当に素晴らしい作品を東京に届けてくださってありがとうございます。まず、お二人から一言ずつ、会場の皆様にお言葉を頂戴できますでしょうか?

ポール・ヴァーホーヴェン監督(以下PV):HI! こんにちは。このような形でまた東京に戻って来られましたことを大変嬉しく思っております。今回は5回目の来日になるのですが、毎回映画のプロモーションでした。しかし、今回は特別な作品をもっての来日となります。なぜか。それは、隣にいらっしゃる方のおかげです。

矢田部:ありがとうございます。では、続いてユペールさん、お願いいたします。

イザベル・ユペールさん(以下IH):(日本語で)コンニチワ! こんにちは。この場にいられることを本当に嬉しく思っておりますし、何と言っても隣にいらっしゃるポール・ヴァーホーヴェン監督と一緒にこの場にいられること、そして本当にたくさんの方にお越しいただきまして大変嬉しく思っております。

矢田部:ありがとうございます。それでは早速なのですが、皆様からのご質問をお受けして参りたいと思います。質問のある方、いらっしゃいますでしょうか?

 矢田部氏の司会進行の中、質問は会場の観客へと引き継がれてゆきます。

Q1. まずはユペールさんに御礼を申し上げたいと思います。去年(の仏映画祭で上映された)『愛と死の谷』のQ&Aの時でも、イザベル・ユペールさんは本当に有名な方でいらっしゃいますのでぜひ毎年来てください、とお願いをしたのです。お願いをした甲斐があったと思いました。本当に二年連続で来てくださってありがとうございます。

IH:アリガトウ!

質問と言いますか僕が感じたことなのですが、主人公のミシェルはやはりお父さんと同様にとても残酷な殺人犯としての性格を受け継いでいるのかな、という気がしたのです。ものすごく残酷な人の殺し方をする妄想のシーンがありましたが、実際はそうではなかったですよね。でも最後にレイプされそうになる時に「どうぞ」と体をあずけるシーンがありました。その場面を見て、もしも激しく殴られてしまったら、ミシェルの中の何かが壊れて大暴走を起こし、あのレイプ犯をも、ものすごく残酷な殺し方をするような気がしました。現実ではそのようなシーンはありませんでしたが、ミシェルの残酷で恐い性格が隠れているような気がしたのですが、演じられたユペールさんは主人公であるミシェルの正体・本当の性格についてはどのように思われますか?

IH:(英語で)まず自分自身を滅ぼしてしまう、というのは確かにあるかもしれませんが、この出来事・経験を通して、彼女はある意味自分を再構築するのだと私は考えております。そして、如何してそのような行動をしたのか? もしかしたら過去に原因があるのかもしれないですし、(ミシェルの父親が)連続殺人鬼だったということが説明になるのかもしれません。けれども、映画ではそのことが必ずしもリンクされている訳ではありません。それは一つの情報として主要なことが描かれていますので、観客の方の好きなように解釈をしていただけたらと思います。そしてミシェルは一つの悲劇的な出来事──レイプをされる──ということに、ポジティヴにとは言わないまでも、何か自分の頭の中で、子供時代であったり、自分が誰であるのか、ということと関連づけてゆくのです。そして、もしかしたら、非常に男性的な暴力というものが何処から来るのかということを自分自身がこの暴力と直面したことによって「知りたい」と思っているのかもしれません。ですから、今非常に冷酷でとおっしゃいましたけれども、そのミシェルの冷酷さのようなものが彼女の原動力になっている訳ではないと私は考えております。彼女は復讐のプランを間違いなく持っていたと思います。そして、それを見事に達成する訳ですが、これらすべては彼女にとって実存主義的な一つの体験だったのだと考えております。

矢田部:監督は事前にかなりユペールさんとミシェルのキャラクターについてディスカッションをされたのでしょうか? もしもされたとしたら、どのようなお話をされたのか教えていただけますか。

PV:実は一切そのようなディスカッションはもっておりません。勿論どういう風に撮るのかというステージング、物理的で場当たり的なことをするのか、そして、レイプのシーンに関しては、ある意味非常に危険な事故が起こりうるシーンでもありますので、きちんと事前に話し合いました。けれども、このミシェルという女性のキャラクター・彼女の動機というものに関しては一切ディスカッションはしていないのです。そしてディスカッションをしなかった理由は、私たちの中で、それはするべきではないことなのだと考えていたからだと思います。例えそのようなことについて話し合ったとしてもフロイト的な分析にしか至らない。そして、それは私たちが映画を作る際に何の助けにもならないと考えていたからです。私自身はイザベルさんを本当に信頼して、彼女はミシェルとしてやるべきことの全てを分かっていらっしゃいました。ですから、そういった部分での演出は一切つけていませんし、本当に直感的な意味で彼女が誰であるのかということを含めて、私たちは同じものを見ていたのだと思います。ですからコミュニケーションにおいては頷くだけで充分だったのです。

矢田部:ありがとうございます。

Q2. 映画冒頭のいきなりのレイプシーンから、ものすごく心を掴まされたと言いますか、目が離せないすごい導入だなあと思って、まずそこが吃驚したところでした。質問は、この映画では二つ大きな事件がありますよね。一つはユペールさん(演じるミシェル)のお父さんが連続殺人犯であることと、二つはミシェルが受けるレイプの事件です。どちらもモデルになったと言いますか、事件はあったりしたのでしょうか?

PV:まずミシェルが幼少期に経験したことが彼女にどう影響していたのか。そしてレイプ犯である男とサドマゾ(SM)的な関係を始めることと何か結果として繋がってゆくのかというのは、原作の小説でも繋がりがあるのかというのは全く描かれていませんし、映画でも同様です。そして、その辺りの関連性についても、著者であるフィリップ・ディジャン氏に訊くこともありませんでしたけれども、まずこのキャラクターであるミシェルを生み出して、実際にそのような体験をした女性が何十年も経った後どのように振る舞うのかということを、多分彼は掘りさげて書いていったのではと推察します。そして父親の方なのですが、これはノルウェーで──確か70年代くらいだったと記憶しているのですが──殺人を犯した事件がありました。そしてそのキャラクターをベースにしている、というのは著者がおっしゃられていました。

矢田部:ありがとうございます。

©Rumi Shirahata/UniFrance

Q3. ポール監督、イザベルさん、Q&Aにお越しくださってありがとうございます。ポール監督の『ロボコップ』は私の子供の頃のヒーローでした。質問は二つあります。二つともイザベルさんにお願いしたいのですが、一問目の質問のお答えで、男性から受ける暴力について自分の中で解釈をしていたのではないか、というようなお答えがありましたけれども、最後のパーティから帰ってくる車の中で「貴方の奥さんも、他の女性も、もっと早くこうすべきだった」と相手に対して対峙する姿勢を明確に表しますけれども、その間(あいだ)というのは、ミシェルの中でどのような考え方をもって男性に対して接していたのか。暴力というものがどのようにしてくるのか、ということを探っていたのか。そして、最後のところで、向かいの奥さんであるレベッカに「(夫の行動に)付き合ってくださってありがとうございました」と言われて、とても複雑な表情をしていましたけれども、ミシェルの中では犯人に対して何か一つ見切りをつけて自分の中で解決をしてゆこう、というような答えが出せたのかということをお伺いしたいです。もう一つは単純なお話しで、とても激しいシーンがありましたので、実際にお怪我などはなさらなかったでしょうか?

IH:(フランス語で)ストーリーの中でですけれども、彼女はいまおっしゃられたシーンで、突然話し方が、雰囲気が変わってゆきます。その中には皮肉もあればユーモアもあるのですが、このシーンでは一つのゲームのような形になって登場人物たちが近づいてゆく訳ですね。そして、このストーリーの最初の段階で、ユーモアも皮肉もあるのですが、最初にすでにミシェルは「復讐をしよう」と計画を立てます。そして、その復讐の計画が完結することとなるのです。いま突然フランス語になったということに気がつきました(笑)。

会場:(笑)。

IH:そして、この事件があってミシェルは初めて男性、特に男性の暴力について理解をし始めるのですが、特に最後のシーンですね。隣人のレイプ犯の妻と話して、その奥さんがミシェルにお礼を言う訳ですけれども、このシーンによって何かミステリアスなものが加わって、ますます複雑になってゆきます。そして隣人の女性はカトリック信者であり非常に真面目な人なのに、夫と言わば共犯のような行動をとりますから、ますます複雑になってゆくのです。

矢田部:あの……、ちょっと普段から恥ずかしくて訊けない質問をユペールさんにしたいと思うのです。この映画なら許されるのではないかと思うのですが、一番大変なシーンはどこでしたでしょうか。

IH:何もありませんでした。でも見るのは大変なシーンはあると思います。一番大変だったのは小さな鳥(スズメ)が死ぬ、あのシーンです。それはなぜかと言いますと、この映画のテーマはやはり「命」だと思うからです。命というものは非常に貴重なもので、こんな小さな鳥でも彼女は救おうとする訳ですから、いかに命が大切なのか。というテーマへと繋がってゆくと思うのです。

* * *

 会場は終始熱気に包まれながらも、観客からのひとつひとつの質問に丁寧に、そして真剣な面持ちで答えていた、ヴァーホーヴェン監督とイザベル・ユペール。ヴァーホーヴェン監督は非常に力強くはっきりとした英語に手のジェスチャーをまじえながら、この映画にかける想いを伝えようとしていた。観客のひとりの女性が「ロボコップは私の子供の頃のヒーローでした」と伝えたとき、ヴァーホーヴェン監督は本当に嬉しそうに、優しく笑みをこぼしていたことが印象深い。
 そして、ピンクのスーツを颯爽と着こなして、壇上に現れたイザベル・ユペール。その姿の、なんてすてきなことだろう。矢田部さんが「一番大変なシーンはどこだったでしょうか」という質問にも、すこし目をみひらきながら「何もなかったわ」と、実にさらっと即答したのはさすがである。

『エル ELLE』は、カテゴライズをすることが難しい映画だ。
 レイプ犯を探すエロティック・サスペンスかと思えば、観客をハッと驚かせるスリラーでもある。人間の奥深くに潜む恐ろしさを炙り出す心理劇かと思えば、なんとも滑稽な大人たちを描いたブラック・コメディとも言えるだろう。その解釈は観るひとによって違った印象を与えることと思う。どのジャンルにも属さないこの類い稀な傑作を、ぜひ劇場で体感してほしい。そして、イザベル・ユペールの、まさに氷の微笑にこころをかき乱される瞬間こそが、この映画のもつ最大の魅力である。

(text:藤野みさき)

『エル ELLE』は8月25日(金)TOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー



『エル ELLE』
原題:ELLE/2016年/131分/フランス/カラー/シネマスコープ/5.1chデジタル
字幕翻訳:丸山垂穂/PG-12

作品解説
セザール賞作品賞・主演女優賞受賞、アカデミー賞主演女優賞ノミネートも果たした、ひときわ異彩を放つ話題作が遂に日本上陸!
自宅で覆面の男に襲われたゲーム会社の女社長(イザベル・ユペール)が、自ら犯人をあぶり出すために恐るべき罠を仕掛けていく……。彼女は強靭な精神力と、妖艶な魅力を放つ大人の女性である。だが、事件の真相に迫るに従い、観客は衝撃の連打を浴びることとなる。彼女こそが、犯人よりも遥かに危ない存在だった……!?

出演
イザベル・ユペール
ロラン・ラフィット
アンヌ・コンシニ
シャルル・ベルリング
ヴィルジニー・エフィラ
ジュディット・マーレ
クリスチャン・ベルケル
ジョナ・ブロケ
アリス・イザーズ

スタッフ
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
脚本:デヴィッド・バーク
原作:フィリップ・ディジャン「エル ELLE」(ハヤカワ文庫)
音楽:アン・ダッドリー
撮影:ステファーヌ・フォンテーヌ
編集:ヨープ・テル・ブルフ
美術:ロラン・オット
衣装:ナタリー・ラウール

配給
ギャガ GAGA

劇場情報
8月25日(金) TOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー

公式ホームページ
http://gaga.ne.jp/elle/

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『フランス映画祭2017』               
   
開催日程:2017年6月22日(木)〜25日(日)※会期終了 
会場:有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇
オープニング作品:カトリーヌ・ドヌーヴ主演『The Midwife』(英題)
主催:ユニフランス
公式サイト:www.unifrance.jp/festival

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino

1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第2期後期、未来の映画館を作るワークショップ第1期受講生。映画のほかでは、自然、お掃除・断捨離・セルフネイル・洋服や靴を眺めることが趣味。本年の仏映画祭では『エル ELLE』と『エタニティ 永遠の花たちへ』というふたつのすばらしい傑作に出逢うことができて、本当に嬉しかったです。

Twitter:@cherrytree813

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2017年6月20日火曜日

『仏映画祭2017 試写日記』text藤野 みさき


© Photo Michael Crotto

 仏映画祭は本年で節目の25周年を迎える。その歴史は、いまから24年前の1993年に遡る。第1回目の開催地である横浜のみなとみらいから、12年の歴史を経て2006年より会場は六本木へとうつり、現在は有楽町で開催されるようになった。仏映画ファンはもちろんのこと、映画を愛する人々とともに歩んできた、歴史ある映画祭である。
 第1回目の団長は『死刑台のエレベーター』で知られている名女優、ジャンヌ・モロー。それから、ソフィー・マルソー、キャロル・ブーケ、クロード・ルルーシュ、エマニュエル・べアール、ジュリエット・ビノシュ、ジェーン・バーキン、エマニュエル・ドゥヴォス、そしてイザベル・ユペールと、フランス映画界を代表する数々の映画人たちが団長として来日を果たしてきた。本年度の団長は、大女優カトリーヌ・ドヌーヴ。2007年以来、10年ぶりに2度目の団長として来日する。

© Les Films du Lendemain / Shanna Besson

 本年度の仏映画祭はカトリーヌ・ドヌーヴ最新作『The Midwife(英題)』のオープニング上映からはじまり、カンヌ国際映画祭など世界中で衝撃をまきおこした、鬼才ポール・ヴァーホーヴェン監督が送る、イザベル・ユペール主演の『エル ELLE』が上映される。その他には、偉大なる芸術家たちを描いた伝記映画『セザンヌと過ごした時間』、ジャック・ドワイヨン監督の『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』に、『ココ・アヴァン・シャネル』などで知られるアンヌ・フォンテーヌ監督の『夜明けの祈り』。そしていま最も注目の女性監督である、『スザンヌ』のカテル・キレヴェレ監督の『あさがくるまえに』と、幅広い映画が並んだ。

© Nord-Ouest

 そして女優たちがいきいきと輝いていることも、仏映画の大きな魅力のひとつだ。オドレイ・トトゥ、メラニー・ロラン、ベレニス・ベジョと、現在の仏映画界を代表する女優たちが共演するトラン・アン・ユン監督待望の最新作『エタニティ 永遠の花たちへ』。同じくオドレイ・トトゥ主演のコメディ映画『パリは今夜も開演中』、マリオン・コティヤール主演の『愛を綴る女』、踊りを通じて人生を見出そうとする少女の成長を綴った『ポーリーナ、私を踊る』に、人食い少女を描いた怪奇映画『Raw(英題)』が映画祭に華を添える。そして、本年度のクラシック作品は、2015年のマックス・オフュルス監督の『たそがれの女心』、2016年のジャック・リヴェット監督の『パリはわれらのもの』につづき、5月に引退表明をした名優アラン・ドロンの主演作『チェイサー』がスクリーンによみがえる。

 ふたりの女性たちの友情、人間の底知れない欲望、臓器移植と向きあう家族たちの葛藤、国境を越え踊りつづけながらみずからの「国(アイディンティティー)」をさがそうとした少女に、芸術家の苦悩……。本年も豊かな映画たちが私をあたらしい世界へと誘(いざな)ってくれた。本祭にさきだち、仏映画祭試写にて拝見した作品のなかでも、最も印象に残った『エル ELLE』と『あさがくるまえに』の感想をここに記したい。


© 2015 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS– TWENTY TWENTY VISION FILMPRODUKTION – FRANCE 2 CINÉMA – ENTRE CHIEN ET LOUP

『エル ELLE』

 イザベル・ユペールほどインテリジェントで恐れを知らない俳優に出逢ったことはない。その恐れの不在は渇望、欲求、獰猛(どうもう)さをもたらし、それが彼女にどんなリスクを負うことも厭わないことを可能にさせている——スーザン・ソンタグ(*1)

 本年度の仏映画祭試写のなかでも、群を抜いて私のこころを鷲掴みにした作品が『エル ELLE』である。
 本作のイザベル・ユペールをみたとき、私はソンタグがこのように評した彼女へのことばを想起した。それほど『エル ELLE』のミシェル役を演じることは難儀なことであったと思う。ミシェル役の女優選びは難航し、ヴァーホーヴェン監督のよく知る女優でさえも、この役を引き受けることはできなかったという。イザベル・ユペールがミシェル役を演じたい、と申し出なければ、ここまでの映画はできなかったと言っても過言ではない。

『エル ELLE』はレイプシーンから幕をあける。
 そのシーンがあまりに強烈かつ何度も繰り返されるので、私はイザベル・ユペール演じるミシェルが襲われるたびに恐怖におののいていた。薄暗い窓のむこうのカーテンが揺れ、フレームの外からスキー帽をかぶった犯人が突然現れる場面では、思わず私は自分を守るように反射的に両手で頭と体をおおってしまった。
 
 劇中、ミシェルが「恥を気にしていたらなにもできないわ」と言う。何気なく言ったこのことばこそ、この映画の真髄をついている。本作は羞恥心を捨てた大人たちがくりひろげる、サスペンスであり、ブラック・コメディでもある。加えて、この作品に出てくる人々はみな変なひとばかりだ。
 スキー帽をかぶった犯人のように、みなそれぞれが仮面をかぶっている。もと夫のリシャール、親友でレズビアン気質をもつアンナ、やけに優しい隣人のパトリック、頼りなさげな息子のヴァンサンに、こちらも頼りなさげでわがままな彼の恋人であるジョジー。誰が、ミシェルを犯したのか。その犯人を探しながら、次第に焦点は出てくる人物たちに移動し、人間のもつ欲望や恐ろしさを映画は炙りだす。

 犯したい願望に、犯されたい願望。『氷の微笑』でも感じたことだが、潜在意識の心理描写はヴァーホーヴェン監督のもつ大きな魅力だ。ミシェルはレイプされたことをきっかけに犯されたい欲望がわきあがる。食事の席で、最初は毛嫌いをしていたジョジーと同じ黒のマニキュアをしているのは、果たして偶然なのか否か。みえないところで、彼女と相通じるものがあることを暗示しているのだろうか。

 犯人さがしも終わりを迎えたことにより、事態は終止符をうつ。ミシェルは「終わったわ。終わったのよ」と息子のヴァンサンを抱きしめる。しかし、本当にそうなのだろうか。『ブラックブック』でのラストシーンのように、終わったようでいても、実は終わりではない。苦しみの痕跡はのこり、連鎖はつづいてゆくのだろうと思わずにはいられない幕引きである。人間の記憶はそう簡単に忘却の彼方に葬られるものではないのだから。

 イザベル・ユペールは今回の『エル ELLE』で、どの女優も挑んだことのない役を演じきり、私を驚かせてくれた。彼女は言う。「私は落ち込むことを恐れない。その辛さを知っていればこそ、幸福をかみしめられるから」と。恐れを知らない彼女は、次はどこをめざすのだろう。

*1 Figaro Japon 2009年3月号より一部抜粋


© Les Films Pelléas, Les Films du Bélier, Films Distribution / ReallyLikeFilms

『あさがくるまえに』
 
 カテル・キレヴェレ監督の映画に出逢った日を、私はいまでもとてもよく覚えている。初めてキレヴェレ監督の映画にふれたのは3年前、2014年の仏映画祭で上映された『スザンヌ』という作品だった。『スザンヌ』はサラ・フォレスティエが主演をつとめ、スザンヌという女性の20年間の年月と足跡を描いた映画である。その映される映像のガラスのような透明感のある美しさ、そして胸をえぐるような心理描写は、私のこころにまるで傷跡のようにのこり、月日が経過したいまもなお、その痛みは私を魅了してやまない。

 本作『あさがくるまえに』は、題名のとおり、朝がくる前のたった一日24時間という時間を描いた作品である。ひとりの青年、シモンの脳死をきっかけに、臓器移植に葛藤する家族と、心臓の移植を待つ女性クレールの、見ず知らずのふたりの人生が映画のなかで交差する。

 もしも、最愛のひとが脳死の判定を受けたら、私たちはどうするだろう?
 あるいは、自分がなにかの事故で脳死をしたら、遺された家族はどう死に向きあえばいいのだろうか。けっして他人ごとではない問題に私ならどうするかと問いかけずにはいられなかった。カテル・キレヴェレ監督の映画は、どうして、こんなにも私の胸を揺さぶるのだろう。登場人物の痛みが、まるでスクリーンという隔たりがないかのように、痛々しく胸に突きささる。シモンの母親を演じたエマニュエル・セニエの涙がいつまでも脳裏に焼きつき、決断を迫られる彼女の苦悩が胸を締めつける。人間の感情の機微・そして繊細さを、登場人物と観客との距離を感じさせずに丁寧に描くことができるのは、キレヴェレ監督のすばらしいところのひとつであると私は思う。

 彼女はインタヴューのなかで「私は本作を生きている者の視点から描きたいと思いました。つまり、死者ではなく、残された者たちの視点です」と述べていた。最愛のひとを失っても、私たちはこの世界を生きていかなければいけない。シモンの両親、臓器移植を待つクレールとその家族(息子)たち。朝がくる前に、シモンの心臓がル・アーヴルからパリの病院へと送られ、ドナーであるクレールの手術がとりおこなわれる。
 夜明けをつげる朝の陽ざしとともに、彼女はしずかに瞳をひらく。それは、亡きシモンの鼓動でもあり、彼の魂はいま彼女とともに呼吸をしているのである。人間の生命は二度、生まれることができる。肉体として、そして、もしかしたら、魂としても。彼女の生の息吹を通じて、映画『あさがくるまえに』は、私たちにその可能性を信じさせてくれる。

* * *

 今回の試写を拝見し、最も嬉しかったことは、やはりカテル・キレヴェレ監督の『あさがくるまえに』を観られたことである。私が『スザンヌ』に出逢ったのは3年前だが、自分の成長や記憶とともに、映画を越えて人生のなかで思い出の映画や監督とふたたび邂逅できることは、とてもすてきな経験だと思う。
 本祭では試写で観られなかった作品をひとつでも多く観られたらいいなと思っている。仏映画祭は一年のうちでも最も仏映画の風にふれることができるところだから。仏映画祭をあとにするたびに、私はその年に出逢った仏映画の記憶とともに帰路につく。また来年と。ずっと、私は仏映画に恋をしていたい。

(text:藤野みさき)


『フランス映画祭2017』               
   
開催日程:2017年6月22日(木)〜25日(日)  
会場:有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇
オープニング作品:カトリーヌ・ドヌーヴ主演『The Midwife』(英題)
主催:ユニフランス
公式サイト:www.unifrance.jp/festival

◉ 作品紹介

『エル ELLE』

原題:ELLE/2016年/131分/フランス/カラー/シネマスコープ/5.1chデジタル
字幕翻訳:丸山垂穂/PG-12

出演
イザベル・ユペール
ロラン・ラフィット
アンヌ・コンシニ
シャルル・ベルリング
ヴィルジニー・エフィラ
ジュディット・マーレ
クリスチャン・ベルケル
ジョナ・ブロケ
アリス・イザーズ

スタッフ
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
脚本:デヴィッド・バーク
原作:フィリップ・ディジャン「エル ELLE」(ハヤカワ文庫)
音楽:アン・ダッドリー
撮影:ステファーヌ・フォンテーヌ
編集:ヨープ・テル・ブルフ
美術:ロラン・オット
衣装:ナタリー・ラウール

配給
ギャガ GAGA

劇場情報
8月25日(金) TOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー

公式ホームページ
http://gaga.ne.jp/elle/

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『あさがくるまえに』

原題:Réparer les vivants/2016年/フランス=ベルギー/カラー/104分/スコープ・サイズ/DCP/字幕翻訳:寺尾次郎

出演
タハール・ラヒム
エマニュエル・セニエ
アンヌ・ドルヴァル
ドミニク・ブラン ほか

スタッフ
監督:カテル・キレヴェレ
撮影:トム・アラリ
原作:メイリス・ド・ケランガル
音楽:アレクサンドル・デプラ

提供
リアリーライクフィルムズ

配給
リアリーライクフィルムズ + コピアポア・フィルムズ

劇場情報
9月16日(土)より ヒューマントラストシネマ渋谷にてロードショー

公式ホームページ
https://www.reallylikefilms.com/asakuru

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino

1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第2期後期、未来の映画館を作るワークショップ第1期受講生。映画のほかでは、自然、お掃除・断捨離・セルフネイル・洋服や靴を眺めることが趣味。仏映画祭と同い歳で、本歳で25歳になります。お肌の曲がり角なので、よもぎ蒸しに通いつつ、最近美顔器を購入しました。
Twitter:@cherrytree813

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