2017年3月31日金曜日

映画『リトル京太の冒険』評text井河澤 智子


「まれびと」と少年  


豊かな緑と、古い町並みが美しい群馬県桐生市。京太は「あの日」から黄緑色の頭巾が手放せない。

僕のsafeはこれで大丈夫。
お守りのように京太は頭巾をかぶる。

『リトル京太の冒険』 ©2016 Little Neon Films    

京太のお母さんはとってもいいお母さん。
子どもが負った「びっくり」の傷が癒えるのには時間がかかることをよく知っている。
お店を切り盛りしながら、繊細な子どもを明るく支えている。
けどそこまで納得するにはきっとけっこうお母さんも悩んだんだろう。

お友達の詩織ちゃん。
お父さんが心配性。
娘を放射能から守るべく、防災服を着せガスマスクをかける。家から出さず、部屋はびっちりテープで目貼り。
詩織ちゃん本人は結構冷静で、京太の前で防災服を脱ぎマスクを外し、外に出てしまう。

お父さんは追いかけてきて、力ずくで詩織ちゃんを連れ戻そうとする。それもまた親心。

ティム先生。
のどかなこの町に赴任してきた外国人英語教師。

いちどはここを離れたが、また帰ってきてくれた。 


『リトル京太の冒険』 ©2016 Little Neon Films    

京太はティム先生が大好き。先生と、英単語帳を片手におしゃべりするのが楽しみだ。

ある日、ティム先生のところに金髪の女の人がやってくる。
ひょっとして、彼女は?

さて。
ざっと登場人物と舞台を説明したところで。
この物語は、「まれびと」信仰が根底にあるのではないだろうか、と考えられる。
「まれびと」とは折口信夫が提唱した民俗学の概念で、簡単に言えば「時を定めて他から訪れる異界からの客人(すなわち神)」である。桐生の人々はティム先生を「まれびと」とし、歓待する。「アメリカさん」と呼んで。(町の人々の何気ないこのひとことは、実は大きな伏線である。)
この地には大きな災いがあった。そのせいか「まれびと」はいなくなってしまった。しかし、こうしてまた帰ってきてくれた。ということは、この地はもう安全なのだ。彼が帰ってきたからもう大丈夫なのだ。
もしくは、彼はこの不安な地から自分たちを助け出してくれるかもしれない、という期待。

彼と仲良くなっておけば安全である。彼がここにいるから安全である。彼を引き止めておくために皆は彼を歓待する。
彼も居心地良さそうである。全く言葉が通じないにもかかわらず。
京太の母とも仲が良い。

ティム先生を「アメリカさん」と町の人が呼ぶように、この町ではよそ者は珍しい存在である。「アメリカさん」が複数いたらティム先生は「アメリカさん」と呼ばれなくなるだろう。だからこそ、ティム先生は「まれびと」たり得る。

さて。そこにもう一人の外国人が現れる。ティム先生が恋人を呼び寄せて桐生に腰を落ち着けることにしたのか、と京太は色めき立つ。ひょっとしたら町の人々もそう思ったのかもしれない。
先生は町の人気者だ。スナックで「星条旗よ永遠なれ」をリクエストされるくらいの人気者だ。
しかし先生、今ここでアメリカ国歌をリクエストされても……なのである。町の人々、白人を見るとアメリカ人と思うのをなんとかした方がいいのではないか、と思ったが、それは先生がぶつぶつと「言うに言えない」と呟く優しさのせいかもしれない。それはしばしば優柔不断さと紙一重である。

先生は、ここに住み着くのではなく「いなくなる」。京太のショックは大きかった。京太はこのカップルに、桐生をもっと好きになってもらおう、ずっとここにいてもらおう、僕たちを守ってもらおう、と彼らを歓待する計画をあれこれ立てていたのである。それはまるで彼らを夫婦の神としてここを鎮守の森とするかのように。
ここはいいところだから、ずっといてくれるよね?
その思い込みの強引さは、全くもって相手の都合を考えない子どもたち二人の行動に見てとれる。
ふたりの「まれびと」の秘密を知ってしまった京太は混乱し、ティム先生をなんとかここに引き止めておこうと道無き道をずんずんと歩く。それはまるで、深い森の中で道を見失わせ、帰さない、というように。
ティム先生だけではない。京太も、しっかり道に迷ってしまった。

さて。
京太の中で「神格化」されたティム先生。この地が安全だから帰ってきてくれた人、不安なこの地から僕たちを助けてくれる人。あなたがいるから僕のsafeは守られているのに、どうして? どうしていなくなっちゃうの?

京太の心を守る。しかしこれは本来ティム先生が負う役目ではないのだ。
お母さんはそれまで何も言わなかった。しかししっかりとそこにいて、京太を守っているではないか。京太が安心できるように、その心の傷に寄り添ってくれているではないか。

「言うに言えない」でいたティム先生。彼の故郷にも、その国の行く末がかかった一大事が起きていた。ティム先生、実は「アメリカさん」ではなく、スコットランド人だったのである。スコットランドが独立か? その動きは、ティム先生にとっては、桐生--日本を襲った天変地異に匹敵する事態である。彼は、そんな時に故郷を傍観していられなかった。もっともである。

『リトル京太の冒険』 ©2016 Little Neon Films    


先生は、「まれびと--神」ではなく、ひとりのスコットランド人であった。
京太はひょっとしたら、ティム先生はそのような「特別な存在」ではなく、自分たちと同じひとりの人間であると理解し、自分の心に寄り添ってくれるのは、先生だけではなく、もっとも身近な--例えばお母さん、詩織ちゃん、詩織ちゃんのお父さん、町の人々、先生も含めた学校のみんな、そしてティム先生の後任である金髪のモーリー先生--たくさんの人々がいてくれることを感じ、ひとつ、肌身離さずつけていたお守りを手放すことができるようになった、のかもしれない。

ところどころに回想として挟まれる短編『京太の放課後』(2012)『京太のおつかい』(2013)ではあんなに小さかった京太。
この『リトル京太の冒険』ではそろそろ小学校を卒業する頃だろうか?

京太をこの場所から連れ出してくれるかもしれなかった、ティム先生。
先生は、ある日突然姿を消してしまう、神や精霊の類ではなかった。
そう遠くない未来、自らの足で、ティム先生の住む地へ降り立つ京太の姿が、見えるようである。


(text:井河澤智子)



『リトル京太の冒険』
2016年/83分/日本

作品解説
「僕のsafeを守るのはー?」“あの日”から防災ずきんを手放せなくなった子どもが抱く想いと成長を、優しさに溢れた視点で5年の歳月をかけ描いた大川五月監督の長編デビュー作。
あの日以来、どこに行くにも防災頭巾を手放さない群馬県桐生に住む12歳の少年・京太。単語帳を片手に町に戻ってきた大好きな外国人教師ティムや母・絹子と暮らすある日、海外からもう一人の訪問者がやってくるが、そこには重大な問題が。京太がとった行動は、あの日からそれぞれの心の奥にしまっていた記憶を呼び起こす…。

キャスト
出演:土屋楓、清水美沙、アンドリュー・ドゥ、木村心結、眞島秀和、ステファニー・トゥワイフォード・ボールドウィン

スタッフ
監督・脚本・編集:大川五月
プロデューサー:杉浦青
音楽:HARCO
撮影:千葉史郎
照明:上野敦年
製作:リトル・ネオン・フィルムズ

宣伝:キャットパワー

配給:日本出版販売

公式ホームページ
https://www.littleneonfilms.com/littlekyota

劇場情報
4月1日(土)シアターイメージフォーラムにて公開

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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子 Tomoko Ikazawa

「あの日」あなたは、なにをしていましたか?
私は、あの頃図書館に勤めていました。
蝶の群れのようにポンポンひらひら舞い飛ぶ本を、あっけにとられて見ていた覚えがあります。
しばらくはコンビニでの買い物も大変でした。品薄で。
仕事終わって帰宅するといつも輪番停電に引っかかる。暖房使えないし、すっごく寒くて即布団にダイブ。電気つかないから夕飯もつくれない。
腹減った。夕飯は職場のポットを使わせてもらってカップ麺食うしかないな。
と思って、選ぶ余地もなくろくに見ずにカップ麺買ったんです、コンビニで。
仕事終わって。ひとり薄暗い中でお湯注いで3分待って、
啜り込んで
       ギャーーー

辛い!かっらい!
おまけにすっごくニンニクききすぎ!

あれはびっくりしましたね。
ちなみにこの映画の舞台である桐生とその職場、同じ震度でした。

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2017年3月29日水曜日

映画『人類遺産』評text高橋 雄太

「人類以外の視線」


太陽系第三惑星・地球。かつてこの惑星には人類(ホモ・サピエンス)という生物が生息しており、文明を築いていたという。しかし、人類はすでにこの星に存在しない。ここにあるのは、人類滅亡後の地球に残された彼らの遺産の数々である…。 


例えば未来の地球を訪れた宇宙人ならば、この映画に登場するものと似た風景を目にして、冒頭のような言葉を残すのではないだろうか。『人類遺産』(原題:HOMO SAPIENS)を見れば、そんなことを想像してみたくなる。これは人類以外の視点を体験させる映画なのである。

この映画には数多くの廃墟が登場するのだが、廃墟は決して我々に縁遠い場所ではない。コロッセオ、アンコール・ワット、原爆ドーム、アウシュビッツ収容所などの歴史的な遺産は、世界的に有名な廃墟と言えるだろう。こうした歴史的遺産には説明がつけられていることが多く、私たちは現地を訪れる際に、それらの解説、さらに本や博物館で知識を得ることができる。そして廃墟になる前の姿、過去に存在したであろう歴史上の著名人や名もなき人々、さらに苦難を味わった人たちの物語に想いを馳せる。

『人類遺産』においても、冒頭に登場するドーム型建造物から始まり、病院や教会、東日本大震災の被災地と思われる場所の映像などから、過去のことをかろうじて想像することはできる(*1)。兵器の映像からは戦争への警鐘を感じることも不可能ではない。だが、本作には、遺産の情報を示す字幕もナレーションも一切なく、人間は一人も登場しない。今は廃墟となった場所にいたのはどのような人々なのか。なぜ打ち捨てられてしまったのか。本作から、遺産に隠された物語を読み取ることは難しい。情報の欠如と、「遺産」に存在したであろう人類の不在を前に、観客は物語への共感も、「諸行無常」という感傷にひたることも困難な宙づりの状態に置かれる。

一方、人類の不在とは対照的に動植物は存在しており、地球も活動し、自然現象も発生する。鳥はさえずり、植物は建物を侵食するように生い茂っている。風は木々を揺らし、雨は重力に引かれて降り注ぐ。人類の時は止まってしまったが、そんなこととは無関係に時間は流れ続けている。私たち人類は、前述のコロッセオや原爆ドームといった遺産を修復している。再建でも撤去でもなく、廃墟を廃墟のまま残すため、歴史を受け継ぐため、修復する。だが『人類遺産』における廃墟は、修復とも再建とも無縁に見える。人間がいない世界において、人類遺産は不可逆な時の流れの中にあり、容赦なく朽ち果てる未来に向かうのだろう。

人間の不在とは対照的に、この作品に必要不可欠な存在がいる。それは「人類遺産」を見つめる者だ。この作品は極めて恣意的に作られたものである。廃墟を正面から見据えるシンメトリーの構図、差し込む光とその軌跡を可視化する土煙。固定ショットの映像を包み込む音。廃墟を捉える美しい映像と音は、無造作に記録されたものではなく、不自然なまでに作り込まれたものであり、何者かが手を加えたことは明らかである。無論のこと、人間が排除された被写体を準備し、構図を定め、カメラの手前で視線を向けているのはニコラウス・ゲイハルター監督らである(*2)。だが、人類の消えた世界と人類から断絶した時の流れの中にあって、その視線は人類以外の存在を感じさせるものとなる。本文の冒頭では一例として宇宙人を挙げたが、知性と意識を持って人類遺産を見つめる者がいるのだ。

本作はドキュメンタリー映画に分類されるているが、実はフィクションでもある。劇映画のように架空の物語というフィクションではなく、反対に物語と人類の不在というフィクションであり、そこから生じる人類ならざる視線というフィクションである。すなわち、HOMO SAPIENS=人類という原題を持つ本作は、人類が主役なのではなく、タイトル通りに人類を客体化した作品、人間中心主義を脱した映画である。私たちはこの映画を見ることで、人類以外の視線と一体化し、来たるべき人類不在の地球をめぐる旅に出る。

さて、冒頭に述べた想像を続けてみる。『人類遺産』が本当に「人類遺産」として地球に残された未来、それを発掘した者はこんなふうに思うだろうか。

人類というのは不思議な生物だったようだ。反映していた時代に生きていながら、自分たちが滅亡した後の地球を映像に残していたのだから…。



【脚注】 

(*1)映画には福島県浪江町の風景が登場する(本作のパンフレット、3月11日上映後の佐藤健寿氏、岩崎孝正氏トークショーより)

 

(*2)監督らは、廃墟近くにいた人たちが写り込まないないように撮影したという。また、音声の中には映像とは別に追加したものがあるとのこと(パンフレット、同トークショーより)


(text:高橋雄太)




『人類遺産』
2016年/94分/オーストリア、ドイツ、スイス
原題:HOMO SAPIENS 

作品解説
『いのちの食べ方』のニコラウス・ゲイハルター監督最新作。撮影期間4年、世界70ヶ所以上の廃墟を撮影した作品。ブルガリアの共産党ドーム、東日本大震災の被災地、病院、ゴーストタウンといった数々の場所が登場する。放置され、朽ちゆく人口建造物の風景からは、人々が去った後もなお、不思議な息吹が感じられる。彼らが私たちに伝えようとしているメッセージとは何か? いま、時空を超えた人類遺産との対話が始まる。

スタッフ
監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター
編集:ミヒャエル・パルム
音響デザイン:ペーター・クーティン、フローリアン・キンドリンガー 
録音:アレクサンダー・コラー
プロデューサー:ニコラウス・ゲイハルター、ミヒャエル・キッツベルガー、ヴォルフガング・ヴィダーホーファー、マルクス・グラーザー

提供:新日本映画社

配給・宣伝:エスパース・サロウ

劇場情報
2017年3月4日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開 

公式ホームページ 
http://jinruiisan.espace-sarou.com

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。本文中に挙げた遺跡のほかにイチオシは中国の雲崗石窟です。

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2017年3月20日月曜日

映画『ホース・マネー』評text成宮 秋祥

「決して忘れてはいけない、悲しいほど美しい絵画だ」


 観る前から、勇気がいった。居心地の悪い胸苦しさが続き、身体の震えが止まらなかった。映画を観ようとして、そのような状態に陥る事など初めてだった。意を決して、本編を最後まで観終えると、そこはかとない悲しみが胸の底から込み上げた。そして、魂が地に伏してしまいそうな程の重苦しい衝撃が全身を襲った。数日、何も考えられなかった。

 すでに分かりきっていた事ではあるが、『ホース・マネー』は、何度も観られる映画ではない。余裕のある場面は微塵もなく、ただ巨大な隕石のようなれっきとした迫力ある画の塊がそこにあった。その画から迸る力強いイメージに、私は完全に圧倒されてしまった。この映画は、観客のための映画では決してない。映像あるいは物語から、何かしらの快楽を観客が得られる要素は全くない。聳え立つ壁に挑むように観る映画といえる。

 この映画の主人公は、ヴェントゥーラという年老いた黒人男性である。ヴェントゥーラは、仄暗い廃墟のような病院内をひたすら彷徨っている。地下への階段を下り、古い下水道のような道や研究所のような人工的な通路などを。途中、白衣の男に止められ、エレベーターに乗せられた彼が辿り着いたのは、小さな病室だった。彼は、心を病んでいるのだろうか。あるいは脳を病んでいるのだろうか。詳細不明。しかし、彼が“歩く”という事実は残る。

 ヴェントゥーラが宛てもなく病院内を歩き続ける目的はいったい何であろうか。そもそも目的などあるのだろうか。ヴェントゥーラは、自分の意志で歩いているのだろうか、あるいは誰かに操られているのだろうか。明確な回答は、劇中では示されない。はっきり分かるのは、やはり彼がただ“歩く”という事実である。映像から分かる彼の事実は、その他にも、“定まらない視線”や“手の震え”の2つが上げられる。

 劇中に映されるヴェントゥーラの視線は、実は定まっていないといえる。ヴェントゥーラが誰を見ているのか本当のところは分からないのだ。例えば、病院のベッドで甥や元同僚と会った際、全員が映った場面では、彼は全員を見ているように思えるが、この時彼の意識は、自らの過去の記憶にあり、彼らの存在を認識しているとは言い難い。しかし、カメラが彼の甥や元同僚の顔を一人ひとり映していくため、まるで彼が誰かを見ているように思わせる。

 また、病院の一室らしき所で、ヴェントゥーラが医師から質問を受けている場面では、医師の声は確かに聞こえるが、画面にはヴェントゥーラ一人しか映っていない。四角い画面の中で彼は確かに誰かを見ているように思えるが、その相手が医師かどうかは分からない。医師の顔が画面に映らないまま、場面は切り替わってしまう。彼の意識の中で彼らが存在しているのか、それとも彼らの意識の中で彼が存在しているのか、映画を観ている側は混乱を覚える。

 始まりから終わりまで、ヴェントゥーラの手は震えている。劇中で、手の震えが収まる事はない。ずっと震え続けている。私は、ヴェントゥーラの手の震えがいつか収まる事を次第に期待していた。しかしその期待が叶う事はない。私は、彼の手の震えが収まる事に、救済のイメージを想像していた。小さな病室での彼の甥と元同僚との会話から分かる通り、彼の意識は、何かの原因によって過去の記憶を彷徨っている。

 ヴェントゥーラが宛てもなく廃墟のような病院内を歩くのは、過去の記憶を歩く事で巡っているからだ。それゆえ、物語の帰結としては、ヴェントゥーラが何かのきっかけを経て、病らしきもの(過去のトラウマから来る精神的な病か、あるいは脳の病か)を克服し、回復する事が望ましいように思えた。その回復の証明として、手の震えが収まる事を私は期待していた。しかし、そのような劇的な如何にもありふれた奇跡は起こらないのだ。

 むしろ、物語はヴェントゥーラの心の闇に深く入り込み、ヴェントゥーラが過去の記憶を巡りながら苦悩する様子を黙するように堅実に形ある姿として描いているだけなのだ。あるいは1本のドキュメンタリーとして、彼の“歩き”や“定まらない視点”、“手の震え”を捉え、彼が行き着く先までを克明に記録しているとも取れる。

 一度観て分からなくても、二度観てみると、『ホース・マネー』がヴェントゥーラの過去の記憶を巡る物語を持っている事が分かってくる。しかし同時に、奇妙な感覚を覚える。それは時系列が無作為に配置され、今、映画がどの時代の場面にあたるのか分からないのだ。ヴェントゥーラの記憶も過去を巡っている。はっきりとした年月日は少なくとも観客には分からない。まるで時間だけが止まっているかのように物語は静かに進む。

 また、物語は時系列が無作為に配置され、時に過去の時代らしき場面に切り替わる事があるが、不思議な事に、映像の流れは、常に現在の出来事のように連続的に繋がっているように見える。例えば、現在と過去の場面を描き分ける場合、過去を白黒にしたり、靄をかけたりし、2つの時代の描き分けを行う事がよく見られるが、本作はそのような描き分けは行わず、現在も過去も同じ時間軸として繋がっている。

 しかし、その独特な描き方から、これといった違和感を映像から受ける事はない。全ては現在に起きている出来事にしか見えないのだ。ヴェントゥーラの過去の回想場面であっても、それはヴェントゥーラ自身が、今、現在において回想している出来事が映像の中で具体的に表出しているからであり、よくよく考えれば特別に不思議な事とは思えなくもない。ただ、やはり一般の映画とは異なる差異を映像の繋がりから感じてしまう私がいるのも事実だ。

 このように映像の描かれ方は、真実性に違和感を持たせながら、同時にその無作為に配置された時系列の出来事が、現在において実際に起きているリアルな真実性を浮き上がらせている。そこに映画だからこそ描ける独自性があった。また、物語はヴェントゥーラの過去にあった実際の話に基づいてはいるが、時に切ない詩情を感じさせる言葉の数々に浮遊感を覚え、現実と非現実の区別がつかなくなり、記録映画と嘘の映画の境界を曖昧にする。

 そして、ヴェントゥーラや廃墟のような病院を撮るカメラは、少ない照明と星一つない夜の相乗効果により、カラヴァッジオのバロック絵画を彷彿させる濃厚な画をスクリーンに映し出し、ヴェントゥーラやそこかしこに映る建物の存在を芸術絵画の領域にまで高めている。重苦しくも確かに記憶に残るその画は、彼の過去と現在を巡りながら、私たちに彼の苦悩とその悲劇的な体験から襲い来る恐怖を強烈に見せつける。

 ヴェントゥーラの“歩く”という行為は、過去の記憶を巡るという行為であり、廃墟のような病院の地下道や病院内の通路を歩くヴェントゥーラの姿によって、道自体が彼の記憶の迷宮であるという表現となっている。彼の“定まらない視線”は、過去の記憶を観ているためであり、その視線は映像の中で出てくる人物に向けられている訳ではないといえる。彼は過去の記憶に視線を送り続け、その記憶の奥底にある苦悩と恐怖の正体に迫っていく。

 後半になり、ヴェントゥーラが鉛色のペイントを全身に塗りたくった全く喋る事のない兵士と対峙するエレベーターの場面は、ヴェントゥーラの過去において最も忌まわしい記憶を、断片的ながら鬼気迫る緊張感を持って呼び覚ましていく。その記憶とは、カーネーション革命(1974年にポルトガルで起きた軍事クーデター)による戦争のトラウマである。彼の“手の震え”は、このエレベーターの場面で最高潮に達する。

 このエレベーターの場面におけるエレベーター内の塗装や喋らない兵士は銀色や鉛色など冷たい金属の色に統一され、鮮やかな色彩を失っている。それとは対照的にヴェントゥーラの肌やパジャマの色が一際目立って見え、これらは描き分けられているとも取れる。過去と現在の場面はカラーの違いによって描き分けられる事もあると先に述べたが、この場面には、その過去と現在の描き分けが唯一成されていると、私には思えた。

 このエレベーターの場面は現在でも過去でもなく、現在と過去が完全に混ざりあった混沌とした小宇宙であり、そこにヴェントゥーラが遭遇した過去の忌まわしき戦争時代の怨念が、現在を生きるヴェントゥーラの心身を貪り食おうとしているように、私には思えたのだ。喋らない偶像のような兵士は、彼の過去の忌まわしき戦争時代の怨念そのものを表現しているといえる。それゆえに、彼が過去の記憶を巡るうちに垣間見せる苦悩や恐怖という抽象的な観念を立体的に私たちに明示し、そのリアルな造形を持って圧倒してくる。

 このエレベーターの場面では、ヴェントゥーラは苦悩と恐怖に足掻く事はあっても、決して救われる事はない。ヴェントゥーラの手の震えは、病院を出る事になった後の場面においても、ずっと震えたままだ。映画の最後に映されたガラスケース越しに見えるナイフには、死を予感させる。彼は自殺するのか、それとも彼が知っている誰かを、あるいは知らない誰かを殺めるのか。分かる事は一つだけだ。彼らは、いずれ死ぬのだ。

 廃墟のような病院でヴェントゥーラが巡る記憶の旅は、ポルトガルに住むアフリカ系の黒人移民たちの貧困や過酷な労働、戦争の悲劇を呼び起こした。カメラは、決して救われる事のないヴェントゥーラを含めたアフリカ系の黒人移民たちの顛末まで徹底して記録するように描き、同時に彼らの悲しい記憶を今この現在を生きる絵画として描いた。ありふれた救済を差し挟まなかったからこそ、彼らの存在は確固たる輪郭を形成していた。

 ペドロ・コスタは、かつて自身が手がけた『ヴァンダの部屋』(2001)においても、ポルトガルの貧困に喘ぐ移民たちが住む街で麻薬に溺れる主人公ヴァンダの生活風景を、救うでもなく、見放すでもなく、ただ静かに記録し続け、芸術絵画の領域にまで高めた映像を持って、ヴァンダや街に住む人々の生きる姿を一つの絵画として現在に残した。本作では、彼ら移民たちの過去と現在を、ヴェントゥーラを代弁者として描き抜いた。

 この映画は、途方もなく美しい映画ではあるが、その内実にポルトガルに住むアフリカ系の黒人移民たちの決して救済される事のない壮絶な歴史があり、ぼろぼろになりながらも今この現在を生きているヴェントゥーラたちの記憶に寄り添った悲しい映画でもある。観る者の心が受容しきれない切実な重みがそこにある。ひたすら意義深い芸術絵画である本作は、まさしくヴェントゥーラたちのための映画である。

(text:成宮 秋祥)



『ホース・マネー』
2014年/104分/ポルトガル

作品解説
『ヴァンダの部屋』『コロッサル・ユース』などでリスボンのスラム街を描いてきたポルトガルの鬼才ペドロ・コスタ監督が、再び同地区を舞台に撮りあげたドラマ。主演にも『コロッサル・ユース』のベントゥーラを続けて起用した。山形国際ドキュメンタリー映画祭2015インターナショナル・コンペティション部門大賞受賞作。ポルトガルのカーネーション革命やアフリカ諸国の独立といった近代史を背景に、ポルトガルで暮らすアフリカ移民の苦難の歴史と記憶を、虚実入り混ぜた斬新なタッチで描き出す。ポルトガルの首都リスボンのスラム街で、年老いた移民の男が人生を終えようとしている。数十年前にアフリカの火山の島からやって来た彼は、レンガ工場などで日銭を稼ぎながらどうにか暮らしてきた。記憶が途切れ途切れになりながらも、男はかつて故郷で飼っていた1頭の馬のことを思い出す。

キャスト
ベントゥーラ
ビタリナ・バレラ
ティト・フルタド
アントニオ・サントス

スタッフ
監督:ペドロ・コスタ
製作:アベル・リベイロ・シャービス
脚本:ペドロ・コスタ
撮影レオナルド・シモンイス、ペドロ・コスタ

公式ホームページ
http://www.cinematrix.jp/HorseMoney/

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【執筆者プロフィール】

成宮秋祥:Akihiro Narumiya

1989年生。東京在住。本職は介護福祉士。「キネマ旬報」(読者の映画評)に2年間で掲載5回。ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」(neoneo web)や「映画みちゃお!」に映画記事を寄稿。映画交流会「映画の”ある視点”について語ろう会」主催。

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2017年3月19日日曜日

映画『息の跡』評text高橋 雄太

「生きる跡」 


生きることは息をすること。息の跡は生きる跡。別に言葉遊びをしているのではない。映画『息の跡』には人の生きる跡が刻まれているのだ。

岩手県陸前高田市にある種苗店「佐藤たね屋」。その小さな店を営む佐藤貞一氏がこの映画の主人公だ。東日本大震災の際に発生した津波によって以前の店は流されてしまい、本作に登場するプレハブ小屋は再建後の店舗である。佐藤氏は、店を営む一方で英語を独学し、震災の体験を英語で書き残した本を出版している。さらに中国語、スペイン語にも挑戦しているという。また、語学だけでなく、陸前高田の歴史を独自に調査し、過去の津波のこともよく知っている。本業の種苗については、震災前に出願した特許を自慢げに語る。彼は、撮影中の小森はるか監督に話しかけ、よく笑う。とにかくパワフルである。

その佐藤氏にカメラを向ける小森監督。彼女は、震災後に東京から陸前高田に移住し、映像を撮り続けているという。狭い店内とその周辺において、佐藤氏と小森監督ほぼ二人の対話劇として、このドキュメンタリー映画は続いていく。彼女のカメラは、佐藤氏が育てる植物、原野に建つ佐藤たね屋の奇妙な姿、地域の祭り、それをよそに続く堤防の工事といった陸前高田の風景を記録していく。

二人に共通する記録という行為。それは、震災を忘れないため、陸前高田の記憶を後世に残すためであり、過去の教訓を生かすためでもあるだろう。佐藤氏はカメラの前で、自ら執筆した英文をまるで俳優のように堂々と朗読する。彼自身、自分の言葉を呪文や念仏のようなものだと語っている。失われた命への鎮魂、忘れないという未来への宣言。

ただ、佐藤氏の言葉は、自分自身にも向けられているのではないだろうか。佐藤氏と小森監督の二人だけの空間で行われる、カメラ目線でもなく、アップでもない状態での朗読。佐藤氏の声は、監督やカメラ、そして観客に直接向いているのではなく、空間の中に浮遊する。まるで、聞かせることではなく、語ること自体が目的であるかのように。彼の言葉が呪文であるならば、誰もよりも佐藤氏自身にかける呪文ではないか。言葉を発すれば自分のエネルギーになって返ってくる、正のフィードバックと言ってもいい。生きていることを記録する表現であり、同時に表現そのものが生きることになる。

表現=生きる。これもやはり佐藤氏と小森監督に共通していると思える。陸前高田に移住し、佐藤たね屋にカメラを持ち込み、佐藤氏との対話を撮影する。彼女にとって、佐藤氏と共有する時間が、移住先である陸前高田での生活の一部でもある。彼の姿、陸前高田の大地、風と草。その姿を捉える一瞬一瞬が、陸前高田に生きる時間である。

言葉が佐藤氏を、撮影が小森監督を突き動かす。たねのように、自らの内側から生命が発芽する。『息の跡』は、陸前高田の記録というだけでなく、二人の生きる跡であり、生きることが生まれる瞬間である。


(text:高橋雄太)




『息の跡』

2016年/93分/日本

作品解説
東日本大震災の津波により流されてしまった岩手県陸前高田市の住宅兼店舗の種苗店を自力で立て直し、営業を再開した佐藤貞一さんを追ったドキュメンタリー。津波で住宅兼店舗を流されてしまった佐藤さんは自力でプレハブを建て、種苗店の営業を再開した。看板は手書き、仕事道具も手作りで、水は手掘りした井戸からポンプで汲みあげる。佐藤さんは、種苗店を営む一方で、自身の被災体験を独学で習得した英語でつづった本を自費出版し、中国語やスペイン語での執筆にも挑戦。さらに、地域の津波被害の歴史を調査し、過去の文献に書かれた内容が正しいものなのかを自力で検証していく。ボランティアとして東北を訪れたことをきっかけに東京から陸前高田に移り住み、本作が初の長編監督作品となった映像作家の小森はるかが佐藤さんにカメラを向け、不得手な外国語で自身の体験を書き続け、津波被害の歴史を調べ続ける佐藤さんの思いをひも解く。

スタッフ
監督:小森はるか
プロデューサー:長倉徳生、秦岳志
撮影:小森はるか
編集:小森はるか

配給:東風

劇場情報
ポレポレ東中野にて、好評につき2週間の上映延長決定!!
●3/11(土)〜3/24(金・楽日) … 12:20〜

公式ホームページ
http://www.ikinoato.com

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。フレデリック・ワイズマンの特集上映と、先日テレビでシリーズ全話から劇場版まで一気に見た『ガールズ&パンツァー』に圧倒されています。

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2017年3月13日月曜日

映画『お嬢さん』『哭声/コクソン』評text村松 健太郎

『お嬢さん』『哭声/コクソン』日本とディープに絡んだ重量級韓国映画連続公開!


鶴見辰吾がキム・ジウン監督の『密偵』、大杉漣がパク・フンジョン監督作『隻眼の虎』に出演し韓国国内で高評価を受けていることが話題になっているが、その流れの中でもひときわ高い絶賛の声を浴び、青龍賞助演男優賞と人気スター賞を受賞したのが『哭声/コクソン』の國村隼だ。

『哭声/コクソン』は『チェイサー』『哀しき獣』のナ・ホンジン監督の最新作で、それまでのバイオレンススリラーから一転してゴリゴリのオカルトホラー。

田舎町で連続殺人事件が発生、山奥にいる素性不明の日本人が来てからことがおかしくなったという噂が立ち始める。

最初は噂話だと相手にしなかった警察官も自身の娘に危機が迫ると謎のよそ者=国村準を疑い始め・・・。

國村隼の意外な正体、事件の真相、すべてが明らかになった後に訪れるどす黒さ、絶品です。

『哭声/コクソン』と前後して公開されるのが『オールドボーイ』などの復讐三部作で知られるパク・チャヌク監督の7年ぶりの韓国映画復帰作『お嬢さん』。とうとう行き過ぎて韓国では成人映画指定を受けて、日本でもR18指定に。

艶めかし過ぎる女性同士のラブシーンを含めた過激な性描写と見ているこちらも痛くなる暴力描写に目が行くがちであるものの、英国ミステリーの傑作サラ・ウォーターズの『荊の城』を韓国併合後の日本統治下(いわゆる日帝時代)の物語に翻案。

騙しあい(コンゲーム)を展開、二時間半の長尺であるものの、飽きさせる部分は一切ない絶品に仕上がった。

そして、メインキャストの韓国人俳優がほぼ吹替なしで日本語セリフに挑戦。その量は全セリフのほぼ半分。

さらに物語の後半の舞台は日本(九州から神戸)となっていている。

実際にパク・チャヌク監督の意図としては日帝時代では日本の文化にあこがれを抱いた人間たちも多くいたということ。

『哭声/コクソン』『お嬢さん』ともに“疑心暗鬼”をそのまま映画にしたような作品。

徹底的に人間不信なること間違いなしの重量級作品、必見。

(text:村松 健太郎)



『お嬢さん』
2016年/145分/韓国

作品解説
『オールド・ボーイ』のパク・チャヌク監督が、イギリスの人気ミステリー作家サラ・ウォーターズの小説「荊の城」を原案に、物語の舞台を日本統治下の韓国に置きかえて描いたサスペンスドラマ。1930年代、日本統治下の韓国。スラム街で詐欺グループに育てられた少女スッキは、藤原伯爵と呼ばれる詐欺師から、ある計画を持ちかけられる。それは、莫大な財産の相続権を持つ令嬢・秀子を誘惑して結婚した後、精神病院に入れて財産を奪い取ろうというものだった。計画に加担することにしたスッキは、人里離れた土地に建つ屋敷で、日本文化に傾倒した支配的な叔父の上月と暮らす秀子のもとで、珠子という名のメイドとして働きはじめる。しかし、献身的なスッキに秀子が少しずつ心を開くようになり、スッキもまた、だます相手のはずの秀子に心惹かれていき……。

キャスト
秀子:キム・ミニ
スッキ(珠子):キム・テリ藤原伯爵:ハ・ジョンウ
上月:チョ・ジヌン
佐々木夫人:キム・ヘスク

スタッフ
監督:パク・チャヌク
製作:パク・チャヌク、シド・リム
製作総指揮:マイキー・リー
原作:サラ・ウォーターズ

劇場情報
TOHOシネマズ新宿ほか全国劇場公開中

公式ホームページ
http://ojosan.jp

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『哭声/コクソン』
2016年/156分/韓国

作品解説
『チェイサー』『哀しき獣』のナ・ホンジン監督によるサスペンススリラー。平和なある村にやってきた、得体の知れないよそ者の男。男が何の目的でこの村に来たのかは誰も知らない。村じゅうに男に関する噂が広がる中、村人が自身の家族を虐殺する事件が多発する。殺人を犯した村人に共通していたのが、湿疹でただれた肌に、濁った眼をして、言葉を発することもできない状態で現場にいることだった。この事件を担当する村の警官ジョングは、自分の娘に殺人犯たちと同じ湿疹があることに気付く。娘を救うためにジョングがよそ者を追い詰めるが、ジョングの行動により村は混乱の渦が巻き起こってしまう。

キャスト
ジョング:クァク・ドウォン
イルグァン:ファン・ジョンミン
山の中の男:國村隼
ムミョン:チョン・ウヒ

スタッフ
監督:ナ・ホンジン
脚本:ナ・ホンジン
撮影:ホン・ギョンピョ
美術:イ・ウキョン
衣装:チェ・キョンファ

劇場情報
3月11日(土)〜シネマート新宿にて公開

公式ホームページ
http://kokuson.com

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【執筆者プロフィール】

村松 健太郎 Kentaro Muramatsu

脳梗塞との格闘も10年目に入った映画文筆屋。横浜出身。02年ニューシネマワークショップ(NCW)にて映画ビジネスを学び、同年よりチネチッタ㈱に入社し翌春より06年まで番組編成部門のアシスタント。07年初頭から11年までにTOHOシネマズ㈱に勤務。12年日本アカデミー協会民間会員・第4回沖縄国際映画祭民間審査員。15年東京国際映画祭WOWOW賞審査員。現在NCW配給部にて同制作部作品の配給・宣伝、イベント運営に携わる一方でレビュー、コラム等を執筆。

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2017年3月12日日曜日

【映画イベント紹介】「第9回ちば映画祭」text大久保 渉



 「恋文」


大好き。
ちば映画祭。

今年で9年目を迎える、“千葉県初上映”の“若手監督”の上映作品がメインの映画祭”。
JR千葉駅から徒歩8分のところにある、約300人を収容する千葉市生涯学習センターの大ホールで開催される映画祭。

――ぼくらの好きな映画を 一緒に見て欲しい お金とかそういうんじゃなく 純粋な気持ち――

ちば映画祭のオリジナルテーマソングの中でとりわけお気に入りなのがこの一節。このフレーズがずっと耳に残り続けるから、私は毎年遠路はるばる千葉県まで行ってしまうのかもしれない。

たとえ耳にしたことのない作品がプログラムされていようとも、楽しめるかどうか、そこは全く心配していない。

なぜなら、ちば映画祭が発する「この映画が好き」はとても力強くて、観ると絶対に体と心がむんむんと火照ってしまうと分かっているから。

今年の特集は、大河原恵監督。一昨年のぴあフィルムフェスティバルや下北沢映画祭等、国内の映画祭コンペティション部門で物議を醸した快作『みんな蒸してやる』の他、多摩美術大学造形表現学部在学中ならびに卒業後に製作した彼女のイマジネーション溢れる短編が4本上映される。

『みんな蒸してやる』


『母がる』

その他、映像の詩人・杉田協士監督の短歌を原作にした映画『自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた』『100円の傘を通してこの街の看板すべてぼんやり光る』のプレミア上映、ポレポレ東中野にてロングラン公開されたいまおかしんじ監督の『あなたを待っています』、第69回カンヌ国際映画祭ショート・コーナー出品、第31回オーデンセ国際映画祭2016コンペティション部門ノミネートなど海外での上映も多い田中羊一監督の『ピンパン』や、


『自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた』

『あなたを待っています』(c)ハリケーン企画2016

『ピンパン』(c)DEEP END PICTURES Inc.


ぴあフィルムフェスティバルPFFアワード2016にて準グランプリと日本映画ペンクラブ賞他を受賞し、カナザワ映画祭2016期待の新人監督観客賞など幾つもの映画祭にて話題をさらった『花に嵐』も上映される。

『花に嵐』

ただ、そんな「映画通」的な評価など知っていようが知っていなかろうがそれはそんなに重要なことではたぶんなくて、その場で観て、感じて、自分がどう思ったのか。それをそのまま製作者たちに直接聞いてみる。その機会が場内でしっかりと設けられているところに、ちば映画祭の居心地の良さを感じてしまう。

各回上映後にはキャスト・スタッフによるゲストトークが目白押しで、さらにはロビーでゲスト陣が観客たちの個別質問にたくさん答えてくれる。

そうしたところはゲストもちば映画祭の良さを知っているからこそ熱心に遠くまで来ているのかなと思える。

ゆうばり国際ファンタスティック映画祭、高崎映画祭、田辺弁慶映画祭等ゲストと触れあう機会に恵まれた映画祭は他にもたくさんあるけれど、でもやっぱり、ちば映画祭はちょっと違う。コンペティション部門等を設けるのでもなく、観客にも来場ゲストにも「これを見て!」という好きな気持ちを特集上映というかたちで前面にぶつけてくるから、周りもその想いにのってしまう。

会場内はいつだって、ボランティアスタッフの輝く瞳と手作り装飾がきらめいていて、変顔のマスコットキャラクターがギャハギャハ賑やかしていて、上映を待つ間も、終った後も、気持ちがどんどん上がっていってしまう。

シネコンで流れるような大作や洋画はないけれど、でもちば映画祭にはちば映画祭のやりたい「映画」があって、心がわななく「映画」があって、それをとりまく人たちがたくさんいて、全力で、届けている。

――自分に嘘はつきたくない まわるフィルムの中で  世界どこまでも広がる ブザーが鳴り響く――

上映映画もそうだけど、あの場の熱い空気を吸いたいといつも思ってしまう。そしてまた一年、私も自分の「好き」を堂々と、思いっきりがんばろうと、強く心に、思ってしまう。

――初期衝動 忘れない――

今年も、本当に楽しみにしています。

好きです。

ちば映画祭。






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第9回ちば映画祭 

【開催概要】
<映画文化を広めたい!千葉県初上映の若手監督の作品上映>
千葉市のみならず千葉県初上映の作品、特に若手監督の作品をメインに上映。更に監督等との交流によってより広く深く映画に触れる機会の提供を目指す。魅力ある作品ラインナップで千葉県外の方々にもアピール出来る映画祭を目指す。

<千葉を盛りあげる!お客様が参加する映画祭へ>
地元・千葉の皆様がお客様として参加し、楽しめるイベントとして成長するべく、様々な趣向のイベントを企画。同時に千葉以外から来場されるお客様や監督には千葉の素晴らしさを知っていただきたいと活動する。

【プログラム】

≪3月18日(土)前夜祭≫
12:00~/樋口由佳監督『刹那の記憶』土井美奈子監督『夜明けごっこ』稲毛映画学校作品『車輪の下』『声の花火』『あいたくて』上映(入場無料)
14:20~/「映像で問う“日常の感度”杉田協士監督とWiCAN」~千葉アートネットワーク・プロジェクト(WiCAN)2016プロジェクト映像作品上映とトーク~(入場無料)
16:40~田中雅紀Special Live(入場無料)
17:40~杉作J太郎監督『チョコレート・デリンジャー』+トーク(※前売800円 当日1,000円)

≪3月19日(日)各回ゲストトーク予定≫
11:00~『イノセント15』(88分)+トーク
13:45~特集:大河原恵のピップ・パップ・ギー① ~野本梢監督と『私は渦の底から』(30分)『みんな蒸してやる』(41分)(計約71分)+トーク
15:55~特集:大河原恵のピップ・パップ・ギー② ~杉田協士監督と『襟売ってよ』(52分)『自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた』(35分)(計約87分)+トーク
18:15~特集:大河原恵のピップ・パップ・ギー③ ~ふたたび杉田協士監督と『100円の傘を通してこの街の看板すべてぼんやり光る』(予定40分)『母がる』(50分)
『逆流竹取物語』(13分)(計約103分)+トーク

≪3月20日(月・祝)各回ゲストトーク予定≫
11:00~『あなたを待っています』(74分)『ひとみちゃん』(10分)(計約84分)+トーク
13:15~13:45 チェアトーク(※1Fアトリウムガーデン/登壇者/千葉アートネットワーク・プロジェクト(WiCAN)代表・神野真吾(千葉大学准教授)、渡邊桃子(『私の窓』監督)、井樫彩(『溶ける』監督)
14:00~『私の窓』(41分)『溶ける』(45分)(計約86分)+トーク
16:20~『ピンパン』(15分)『夕暮れの催眠教室』(25分)『堕ちる』(29分)(計約69分)+トーク
18:25~『花に嵐』(76分)+トーク

【会場】
千葉市生涯学習センター ホール(千葉市中央区弁天3丁目7番7号)
(JR千葉駅千葉公園口、東口または北口 / 千葉都市モノレール千葉駅から徒歩8分)

【公式HP】
http://www.chibaeigasai.com/


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【執筆者プロフィール】

大久保 渉:Wataru Okubo

映画系文筆/映画館勤め/映画祭好き。執筆・編集『映画芸術』『ことばの映画館』『FILMAGA』他/ KAWASAKIしんゆり映画祭、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭、各種映画祭にて活動中/現在は神奈川県内の映画館にて勤務中。

Twitterアカウント:@OkuboWataru

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2017年3月7日火曜日

映画『この世界の片隅に』評text伴野 和孝

『この世界の片隅に』と僕


『この世界の片隅に』が素晴らしい映画だという事はいくら言っても言い足りない。
既に各映画賞を総なめにしているし、映画雑誌の年間ランキングも軒並み1位だし、映画評論家達は絶賛した上に様々な角度から語りまくっている。
客観的な評価は充分揃っているなら、僕はこの映画についての個人的な話を書こう。

2016年の秋、僕は仕事を辞めるハメになった。
当時の持てる力全てを出しつくしたプロジェクトを終わらせた直後で満足感と燃え尽き感があった事もあり、「なってしまった事は仕方ない。まずは休みを楽しむか。」と僕は思った。時間がある時にする事といえば旅行だ。僕は友人のS君と共通の友人のBちゃんに会いに行く事にした。1年前に東京から実家に戻っていた彼女に、以前から僕達は遊びに行く約束をしていたのだ。その彼女が住んでいるのが、『この世界の片隅に』の舞台である呉である。

旅行の話の前に、余談だが呉と広島という土地について簡単に話したい。
広島という土地は歴史的に見てとても地の利に富んでいる。瀬戸内海に面し、山陽道が通り、市中に川が流れている事で、特に物流において有利な土地だった。金沢や、仙台の様に国づくりの基盤を担う有力大名はいなかったが、それでも十分栄えた。
その地の利は、戦時にも活用された。明治以来、広島は陸軍が置かれる土地となった。日清戦争時には大本営が広島にあり、明治天皇もそこに駐留した。
そして呉には海軍が置かれた。元々呉は山に囲まれた入江で、その海を埋め立てて造船所と海軍を置いたのが呉だ。
『この世界の片隅に』のすずと妹が海軍や陸軍の秘密に触れてしまったと言ってふざけ会うシーンの背景には、そういった事がある。

そんな広島~呉での3泊4日旅行は、Bちゃんのテレビ業界にいた人ならではの情報収集力と、人脈と、段取り力によって、普通に旅行するよりはるかに楽しいものだった。

Bちゃんは元々S君の友達で、僕は20代中頃に出会った。
似たような職種で共通の悩みを話せるという事や、S君と共に中央線沿線仲間だったというのもあり、その頃はよく飲んだり、出掛けたりしていた。正直者で、志が高くて、根が良い彼女が僕らは好きだったし、尊敬もしていた。 出会ったころからよく、いずれ呉に戻るという話を彼女はしていた。文化系で東京暮らしに馴染んだ人が地元で働くという事が僕には想像し難かったが、彼女の気持ちは一貫していた。2015年末に彼女は広島の呉に帰り、更には2016年中頃にS君まで中央線沿いから離れた事もあり、僕らは集まることが無くなった。

そして2016年の秋に、僕らは呉線沿いで再集結した。
久々に会った彼女は、呉市のPRの仕事をしていた。その発信力を生かし、広報誌の記事作成・イベント企画・映画『モヒカン故郷に帰る』のロケ地マップ作りetc..精力的に活動しているという。
そんな彼女のコーディネートする旅行は、とても素敵な郷土自慢だらけだった。彼女紹介のオシャレなゲストハウスに泊まり、お好み村でお好み焼きを食べ、八丁座という映画館へ行き、カープ戦を観、近海の魚を食べ、現地のサブカル地域で飲み、原爆ドームへ行き、大和ミュージアムへ行き、入船山記念館へ行き、お好み焼きを食べ、瀬戸内海の島々を巡った。
呉という土地は、部外者の僕から見てもちょっと複雑な土地だ。海軍によって栄えた町であると同時に、その事で酷い空襲を受けた。
彼女はそんな呉でしなやかに生きていたように僕には見えた。彼女の知り合いにも沢山会った。大和ミュージアムの職員さん、大崎下島のカフェマスター、入船山記念館の建物マニア女子等々。夏には、仲間と空襲を偶然潜り抜けて残ったちょいと洒落た木造建築で映画上映会を行なったらしい。
旅行の中で、今度『この世界の片隅に』という呉を舞台にした映画が公開されるという話を聞いた。彼女はすでにそれを見ていて、良い作品なのでそれをPRしたいと思っているらしい。また、それが呉を知ってもらうきっかけになるんじゃないか、とも。

東京に戻り、『この世界の片隅に』 が公開するとすぐに観た。素晴らしく良い映画だったし、それ以上に思い入れてしまう映画だった。
出てくる呉の海や山は現在の呉に重なっているし、また、現在の呉の街の様子はかつての名残を残しているのだと分かる。主人公のすずさんはあまりに生き生きとしており、長生きして今も呉に生きているような気がした。
映画の中ですずさんは、広島に移住するかを問われた時、自分で選んだのだから呉に住むと言う。それを観ていたら、Bちゃんに重なって見えた。
彼女も呉を選び、そこで自分の生き方を見つけようしようとしているんだろう。

そして僕は、どうするのか?
ちょうど僕は今、分岐点にいる。今だったら地元の群馬にも帰れるし、海外にも行けるし、馴染みのない地方都市にも行ける気がする。
そう考えた時に、僕はもうしばらくは東京にいようと思った。
地元を出たくて仕方なかった自分がどうしても行きたかったのは東京だ。江戸文化にまつわる映像コンテンツを作り、その都市文化にメロメロになったのも東京だ。
少しは面白い仕事も出来たけど、まだまだ出来る事が僕には残っている。

戦中から戦後の時代にすずさんは呉を選び、トランプの時代にBちゃんは呉を選び、僕は東京を選ぶ。

『この世界の片隅に』は、人々がそれぞれの場所で生きていて、それぞれの生活が愛おしいという当たり前で大切な事を思い出させてくれる。

(text:伴野和孝)





『この世界の片隅に』
2016年/126分/日本

作品解説
第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞したこうの史代の同名コミックを、『マイマイ新子と千年の魔法』の片渕須直監督がアニメ映画化。第2次世界大戦下の広島・呉を舞台に、大切なものを失いながらも前向きに生きようとするヒロインと、彼女を取り巻く人々の日常を生き生きと描く。昭和19年、故郷の広島市江波から20キロ離れた呉に18歳で嫁いできた女性すずは、戦争によって様々なものが欠乏する中で、家族の毎日の食卓を作るために工夫を凝らしていた。しかし戦争が進むにつれ、日本海軍の拠点である呉は空襲の標的となり、すずの身近なものも次々と失われていく。それでもなお、前を向いて日々の暮らしを営み続けるすずだったが……。

キャスト
北條(浦野)すず:のん
北條周作:細谷佳正
黒村径子:尾身美詞
黒村晴美:稲葉菜月
北條円太郎:牛山茂

スタッフ
監督:片渕須直
原作:こうの史代
脚本:片渕須直
企画:丸山正雄
プロデューサー:真木太郎

劇場情報
2016年11月12日(土)公開〜全国拡大興行中

公式ホームページ
http://konosekai.jp

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【執筆者プロフィール】

伴野和孝:Kazutaka Tomono

1984年生まれ。英語教材や美術館・博物館などの展示映像に関わった後、無職。すみだ北斎美術館などの東京のアートスポットを国際交流をしながら巡るTokyo Art Cafe主催。
ブログ「東京西側」:http://independencetv.blogspot.jp/

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2017年3月4日土曜日

映画『サクロモンテの丘』監督インタビューtext常川 拓也

『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ~』チュス・グティエレス監督インタビュー


スペインはグラナダの丘の斜面に位置するサクロモンテは、フラメンコの発祥地であり聖地であるという。ジプシーであるロマ(ヒターノ)たちはこの地に集い、長く迫害を受けながらも、愛や嘆き、苦労や悲しみを歌と踊りの中に託して感情の捌け口としてきた。ヒターノのフラメンコ・コミュニティとその文化および芸術の継承についてのドキュメンタリー『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ~』を通して、私たちはフラメンコの中に彼らの日々の喜怒哀楽から被差別の歴史までもが刻み込まれていることを知るだろう。彼らにとって歌うことや踊ることは生活していくためそのものであり、それは「悲劇を生きるコツ」だったのだということを。このたび劇場公開に合わせて来日したチュス・グティエレス監督にインタビューする機会を得た。本作の成り立ちやドキュメンタリーで記録した意図、そして既存の男性中心の映画産業に対する思いまで幅広くお話を伺った。

(取材・構成・写真:常川拓也)




──サクロモンテはいまや観光名所として、世界各地から著名な観光客──古くはエヴァ・ガードナーらハリウッドのスターから最近ではミシェル・オバマまで──が訪れている地であると劇中でヒターノたちが語っていますが、どういった地域なのか改めて教えていただけますでしょうか。

チュス・グティエレス(以下CG):1963年に起きた洪水からしばらくの間サクロモンテはすべて放置されたままで、復活したのは70年代末から80年代初頭のことでした。現在どのような状況かというと、もちろんサンブラも少しは残っていますが、いまは観光名所となり、かつて洪水前に洞窟に住み、そこで踊っていた共同体自体はもうありません。このドキュメンタリーの中で話してくださった年輩のヒターノの方たちの記憶の中にある共同体はいまはもうないのです。

──子どもの頃からこの地区にはよく行かれていましたか。またその当時はどのような状況でしたか。

CG:子どもの頃にサクロモンテに行ったことはありませんでした。(本作に登場する)クーロ(・アルバイシン)が、グラナダにバーを持っていたので、そこには行ったことはありました。はじめて行ったのは確かティーンエイジャーの時、70年代後半ぐらいに再開発され、バーなどができはじめた頃でした。私が子どもの頃はサクロモンテはまだ荒廃していて、危険な地域として認知されていました。ですが、いまはもう整備されて落ち着いた場所です。放置されていた時は、わけのわからない人や家がない人が洞窟の中に入り込んでいたりして危険でした。ひとつ言いたいのは、サクロモンテは、グラナダの地図の中につい最近まで載っていなかったということです。つまり認知されていなかったのです。

──映画は最初、監督自身の声からはじまります。なぜ自分自身の声から映画をはじめようと思われたのでしょうか。

CG:もちろん本作の案内役はクーロですが、私が外の人間として、知らなかった場所であるサクロモンテにはじめて入って行くという風にしたかったためです。

──そこには、何かこの物語を伝えたいという使命感のような意思も表れていますか。

CG:そうですね、これから発見しに行くようなイメージにしたいと考えました。

──本作を作るにあたって、場所、音楽、人間と3つの焦点の置きどころがあったかと思いますが、出来上がった映画はすべてに大体同じ重きを置いて語っているように見受けられます。この構成に至ったのはどの段階だったのでしょうか。

CG:本作は私がはじめて作ったドキュメンタリーです。私はドキュメンタリーの専門家ではないので、学びながら作っていきました。構成に関しては、編集の時に撮った素材を見ながらバランスを考えていきました。というのは、重要なのは事実を伝えることではなく、その中にある感情を伝えることだと思ったからです。

──では、なぜ今回はじめてドキュメンタリーで撮ることを試みようと思われたのでしょうか。

CG:そこに興味があり知りたいと思う物語があって、それをシネアストとして、ヴィジュアル・アーティストとしてドキュメンタリーで伝えようという考えに今回至ったことは、私の中では自然なことでした。好奇心からはじまったと言えます。そして、ドキュメンタリーというジャンルが非常に自由である点も理由のひとつです。フィクションだと脚本やロケーションが必要とされ、場所や物語に縛られますが、その一方でドキュメンタリーは突然コメディにしたり、シュールレアリズムにしたり、色々なことを自由にすることができます。ドキュメンタリーの自由な側面に惹かれたのです。いつも本能の中にはドキュメンタリーをやってみたい気持ちはありましたが、今回、機が熟したような感じです。本作を撮ったことで、これからもっとドキュメンタリーを撮りたいと思うようになりました。また、サクロモンテの昔の記憶が残っているヒターノのアーティストたちの姿をいま収めなくてはならない気持ちもありました。本作はいくつかのパーツで撮っているのですが、一番最初に現地に向かった時にカメラを2台使いたかったので私が1台カメラを担いで撮影もしました。実はその時に撮った方は、次の撮影の時にはすでにお亡くなりになってしまっていました。それからもうお二方お亡くなりになられました。急がなければならなかったのです。ただ、資金が十分でなかったのでジレンマもありました。最終的には自分のお金も注ぎ込んだほどです。

──たとえばフィクションの中に取材をして現実を取り込むようなスタイルで物語るようなことは検討されていましたか。

CG:いいえ、それは全く頭にありませんでした。これは絶対にドキュメンタリーで撮らなければならないと思いました。フィクションでは不可能だったと思います。いつも現実の方がフィクションよりも勝ると思っているからです。

──その一方で、本作の脚本としてクーロさんがあなたと共同でクレジットされていますね。ここでいう脚本とは、どの程度詳細なものを意味していますか。

CG:どういう風に撮影していくかを道筋としてある程度決めたもののことです。フィクションの場合ははじめに脚本ありきですが、ドキュメンタリーの場合は最後にみんなが言ったことを脚本にしていく作業と言えます。




──本作は踊り手や歌い手のインタビューの後に彼らそれぞれの踊りや歌を披露するような形で成り立っていますが、そのような構成にするにあたりクーロさんから何か助言はありましたか。

CG:そういったものは一切ないです。クーロさんは知識の源泉であり、出演してくださったみなさんへどのように接触すればよいかを導いてくれました。それ以外の構成やどういう人物を選ぶかなどクリエイティヴな部分全般は私が決断しました。

──パフォーマンスが行われるシーンは何回に渡って撮影され、どのぐらい時間をかけたのでしょうか。

CG:洞窟の中の踊りのシーンは朝から晩までかけて1日で撮りました。1回しか撮っていません。予算が本当に低かったので、そうする以外にありませんでした。

──彼らは子どもたちが近くにいても会話の中で下ネタを飛ばし合っていますが、そういうことはあまり気にされないものなのですか。

CG:全然大丈夫ですね(笑)。日本だったら少しはばかられるのかもしれませんが、スペインの特に南部では、文化としてみんな常に一緒くたに過ごします。なのでパーティの中でも2ヶ月の赤ちゃんの横でみんな平気でタバコを吸ったり、朝までみんな騒ぐわけです。パーティという空間の中で子どものグループなど様々なグループができて、そこでそれぞれが過ごします。それがひとつの分かち合いになっています。大人の話す下ネタもみんな子どもは聞いていますが、それが普通なので問題はありません。子どもたちが思春期を迎えて話の内容に気づくまで、「それってどういう意味?」と聞いてくるまではわからないだろうと考えている感じです。内容はさておき、スペインでは子どもが質問してきたら、どういう答えであっても親たちは必ず答える文化があります。

──あなたはスペインの映画産業に携わる女性たちのための団体「CIMA」を設立するなどの活動もされていますね。本作でヒターノの女性たちを見ていると結婚制度そのものを否定していたり、因習に縛られない自立的な考え方を持っているところが印象に残りました。そういった部分が、あなたが持っているフェミニズム的な関心とも結びついているようにも思えたのですが、それは少し考え過ぎでしょうか。

CG:いえ、自分の中では彼女たちの自由さをそういう部分では見ていませんでした。なぜ彼女たちがこんなに自由なのかということに私はまず驚きました。というのは、私たちの普段暮らしている世界でも男性社会の中で女性は差別されているというのに、彼女たちはヒターナとして、そして女性として二重の差別を受けていると言えるからです。二重の差別を受けているのになぜこんなに彼女たちは自由なのだろう。その理由はふたつあると思いました。ひとつは、彼女たちが青春時代を過ごしたのがフランコ独裁体制の終わりだったことです。つまり彼女たちは、これから民主主義に向かう──独裁時代の暗い抑圧された時代から急に明るく開かれた時代に行く時に青春時代を過ごしたということが、理由のひとつに挙げられると思いました。もうひとつは、彼女たちがアーティストだということです。ほかのヒターノたちともほかの女性たちとも異なるのは、たとえ夜間でも自分たちで出て行って仕事をして戻って来なくてはならない、完璧に自立しなくてはいけない環境にあったからです。彼女たちがアーティストであることが、自由の根源だと思いました。

──日本でもペドロ・アルモドバル作品をはじめとしたスペイン映画が劇場公開はされていますが、考えてみればスペインの有名な女性監督というと、イザベル・コイシェぐらいしか思い浮かびません。スペインの映画産業も多分に男性中心だと思われますが、このような状況に対してどのように考えられていますか。

CG:もちろんそうです。スペインだけとかヨーロッパだけではなく、世界全体で映画界はいまも変わらず男性社会だと思います。みんな最近になって物事が変わって男女平等と言っていますが、実は、その中身はほとんど変わっていません。いまだって女性の映画監督は世界的にも男性の一割しかいません。国によっては1%しかいないところもあります。なので女性たちが本当はもっと団結してやらなければ、いままでと同じように映画は男性が主役で、女性は常に娘か母親、あるいは妻の役しかない状態になってしまいます。ここまで色々な人が男女平等を叫んできたにも関わらず、結局まだ何も構造が変わっていないということが、いま若い女性たちの中の本心にあるのではないかとも思います。そこを変えるには、私たちが後の世代への規範となるモデルをちゃんと作り出し、そして権力を持った女たちが男のように振る舞わないことです。それが必要なことであり、そうでなければ根底からは変わらないと私は思っています。

──映画を作りたいと思うようになったきっかけは何かありましたか。また監督を志すにあたり影響を受けた作品があればお教えください。

CG:私が監督になろうと思ったのは映画がきっかけというわけではありません。もちろん『タクシードライバー』や『カサブランカ』、それからヴィム・ヴェンダースの作品など好きな映画はありますが、まず興味を持ったのは書くことからでした。私は物語を語ることが好きだったのです。

──本作は音楽ドキュメンタリーとも言えると思いますが、好きな音楽ドキュメンタリーはありますか。

CG:『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999)が大好きです。あの映画から本作は影響を受けている部分があります。

──次回作はどのような作品を考えられていますか。

CG:ドキュメンタリーに挑戦したことで自由を感じてしまったので、しばらくは劇映画に戻れないような気がしています。また、映画業界に対して強く憤りを感じている部分もあるので、もう少し長期的に物語を語っていきたく思い、TVシリーズでSFものを構想しています。






『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』
原題:Sacromonte: los sabios
2014年/94分/スペイン/カラー/スペイン語/ドキュメンタリー/16:9/ステレオ

作品解説
スペイン・アンダルシア地方・グラナダ県サクロモンテ地区。
この地には、かつて迫害を受けたロマたちが集い、独自の文化が形成されていった。ロマたちが洞窟で暮らしていたことから洞窟フラメンコが生まれ、その力強く情熱的な踊りや歌に、世界中が熱狂した。隆盛をきわめたサクロモンテだが、1963年の水害により全てを失い、人々は住む場所を追われた――。
本作は、伝説のフラメンコ・コミュニティに深く入り込み、激動の時代を生き抜いてきたダンサー、歌い手、ギタリストなどのインタビュー、そしてアンダルシアの乾いた大地を舞台に繰り広げられる詩の朗読、そして力強い舞の数々を通して、大地に根付く魂が紡がれ、代々引き継がれていくさまを描く。

スタッフ
監督:チュス・グティエレス
参加アーティスト:クーロ・アルバイシン、ライムンド・エレディア、ペペ・アビチュエラ、ハイメ・エル・パロン、フアン・アンドレス・マジャ、チョンチ・エレディア、マノレーテ他多数

配給・宣伝
提供:アップリンク、ピカフィルム 
配給:アップリンク 
宣伝:アップリンク、ピカフィルム
後援:スペイン大使館、セルバンテス文化センター東京、一般社団法人日本フラメンコ協会

劇場情報
2017年2月18日(土)より有楽町スバル座、アップリンク渋谷ほか全国順次公開

公式ホームページ
http://www.uplink.co.jp/sacromonte/


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【監督プロフィール】
チュス・グティエレス:Chus Gutiérrez

1962年、グラナダ生まれ。CMディレクターとしてキャリアをスタート。現在ではスペインの中でも信望が厚く重要な監督の一人である。子どもの頃に初めて両親にタブラオに連れていかれて以来、何度もサクロモンテを訪れ、サンブラと関わり続けている。1995年の『アルマ・ヒターナ/アントニオとルシアの恋』ではサクロモンテの重要なアーティストの協力を得て、非ロマとロマとの共存を描いている。また『世界でいつも…』(2003)『ヒステリック・マドリッド』(2004)『デリリオ -歓喜のサルサ-』(2014)はいずれもラテンビート映画祭で上映された。

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【執筆者プロフィール】

常川拓也:Takuya Tsunekawa

新潟県生まれ。映画批評。「NOBODY」「neoneo」「INTRO」「リアルサウンド映画部」等へ寄稿。Twitter:@tsunetaku


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【関連記事】

映画『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』評text長谷部 友子

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