2017年3月20日月曜日

映画『ホース・マネー』評text成宮 秋祥

「決して忘れてはいけない、悲しいほど美しい絵画だ」


 観る前から、勇気がいった。居心地の悪い胸苦しさが続き、身体の震えが止まらなかった。映画を観ようとして、そのような状態に陥る事など初めてだった。意を決して、本編を最後まで観終えると、そこはかとない悲しみが胸の底から込み上げた。そして、魂が地に伏してしまいそうな程の重苦しい衝撃が全身を襲った。数日、何も考えられなかった。

 すでに分かりきっていた事ではあるが、『ホース・マネー』は、何度も観られる映画ではない。余裕のある場面は微塵もなく、ただ巨大な隕石のようなれっきとした迫力ある画の塊がそこにあった。その画から迸る力強いイメージに、私は完全に圧倒されてしまった。この映画は、観客のための映画では決してない。映像あるいは物語から、何かしらの快楽を観客が得られる要素は全くない。聳え立つ壁に挑むように観る映画といえる。

 この映画の主人公は、ヴェントゥーラという年老いた黒人男性である。ヴェントゥーラは、仄暗い廃墟のような病院内をひたすら彷徨っている。地下への階段を下り、古い下水道のような道や研究所のような人工的な通路などを。途中、白衣の男に止められ、エレベーターに乗せられた彼が辿り着いたのは、小さな病室だった。彼は、心を病んでいるのだろうか。あるいは脳を病んでいるのだろうか。詳細不明。しかし、彼が“歩く”という事実は残る。

 ヴェントゥーラが宛てもなく病院内を歩き続ける目的はいったい何であろうか。そもそも目的などあるのだろうか。ヴェントゥーラは、自分の意志で歩いているのだろうか、あるいは誰かに操られているのだろうか。明確な回答は、劇中では示されない。はっきり分かるのは、やはり彼がただ“歩く”という事実である。映像から分かる彼の事実は、その他にも、“定まらない視線”や“手の震え”の2つが上げられる。

 劇中に映されるヴェントゥーラの視線は、実は定まっていないといえる。ヴェントゥーラが誰を見ているのか本当のところは分からないのだ。例えば、病院のベッドで甥や元同僚と会った際、全員が映った場面では、彼は全員を見ているように思えるが、この時彼の意識は、自らの過去の記憶にあり、彼らの存在を認識しているとは言い難い。しかし、カメラが彼の甥や元同僚の顔を一人ひとり映していくため、まるで彼が誰かを見ているように思わせる。

 また、病院の一室らしき所で、ヴェントゥーラが医師から質問を受けている場面では、医師の声は確かに聞こえるが、画面にはヴェントゥーラ一人しか映っていない。四角い画面の中で彼は確かに誰かを見ているように思えるが、その相手が医師かどうかは分からない。医師の顔が画面に映らないまま、場面は切り替わってしまう。彼の意識の中で彼らが存在しているのか、それとも彼らの意識の中で彼が存在しているのか、映画を観ている側は混乱を覚える。

 始まりから終わりまで、ヴェントゥーラの手は震えている。劇中で、手の震えが収まる事はない。ずっと震え続けている。私は、ヴェントゥーラの手の震えがいつか収まる事を次第に期待していた。しかしその期待が叶う事はない。私は、彼の手の震えが収まる事に、救済のイメージを想像していた。小さな病室での彼の甥と元同僚との会話から分かる通り、彼の意識は、何かの原因によって過去の記憶を彷徨っている。

 ヴェントゥーラが宛てもなく廃墟のような病院内を歩くのは、過去の記憶を歩く事で巡っているからだ。それゆえ、物語の帰結としては、ヴェントゥーラが何かのきっかけを経て、病らしきもの(過去のトラウマから来る精神的な病か、あるいは脳の病か)を克服し、回復する事が望ましいように思えた。その回復の証明として、手の震えが収まる事を私は期待していた。しかし、そのような劇的な如何にもありふれた奇跡は起こらないのだ。

 むしろ、物語はヴェントゥーラの心の闇に深く入り込み、ヴェントゥーラが過去の記憶を巡りながら苦悩する様子を黙するように堅実に形ある姿として描いているだけなのだ。あるいは1本のドキュメンタリーとして、彼の“歩き”や“定まらない視点”、“手の震え”を捉え、彼が行き着く先までを克明に記録しているとも取れる。

 一度観て分からなくても、二度観てみると、『ホース・マネー』がヴェントゥーラの過去の記憶を巡る物語を持っている事が分かってくる。しかし同時に、奇妙な感覚を覚える。それは時系列が無作為に配置され、今、映画がどの時代の場面にあたるのか分からないのだ。ヴェントゥーラの記憶も過去を巡っている。はっきりとした年月日は少なくとも観客には分からない。まるで時間だけが止まっているかのように物語は静かに進む。

 また、物語は時系列が無作為に配置され、時に過去の時代らしき場面に切り替わる事があるが、不思議な事に、映像の流れは、常に現在の出来事のように連続的に繋がっているように見える。例えば、現在と過去の場面を描き分ける場合、過去を白黒にしたり、靄をかけたりし、2つの時代の描き分けを行う事がよく見られるが、本作はそのような描き分けは行わず、現在も過去も同じ時間軸として繋がっている。

 しかし、その独特な描き方から、これといった違和感を映像から受ける事はない。全ては現在に起きている出来事にしか見えないのだ。ヴェントゥーラの過去の回想場面であっても、それはヴェントゥーラ自身が、今、現在において回想している出来事が映像の中で具体的に表出しているからであり、よくよく考えれば特別に不思議な事とは思えなくもない。ただ、やはり一般の映画とは異なる差異を映像の繋がりから感じてしまう私がいるのも事実だ。

 このように映像の描かれ方は、真実性に違和感を持たせながら、同時にその無作為に配置された時系列の出来事が、現在において実際に起きているリアルな真実性を浮き上がらせている。そこに映画だからこそ描ける独自性があった。また、物語はヴェントゥーラの過去にあった実際の話に基づいてはいるが、時に切ない詩情を感じさせる言葉の数々に浮遊感を覚え、現実と非現実の区別がつかなくなり、記録映画と嘘の映画の境界を曖昧にする。

 そして、ヴェントゥーラや廃墟のような病院を撮るカメラは、少ない照明と星一つない夜の相乗効果により、カラヴァッジオのバロック絵画を彷彿させる濃厚な画をスクリーンに映し出し、ヴェントゥーラやそこかしこに映る建物の存在を芸術絵画の領域にまで高めている。重苦しくも確かに記憶に残るその画は、彼の過去と現在を巡りながら、私たちに彼の苦悩とその悲劇的な体験から襲い来る恐怖を強烈に見せつける。

 ヴェントゥーラの“歩く”という行為は、過去の記憶を巡るという行為であり、廃墟のような病院の地下道や病院内の通路を歩くヴェントゥーラの姿によって、道自体が彼の記憶の迷宮であるという表現となっている。彼の“定まらない視線”は、過去の記憶を観ているためであり、その視線は映像の中で出てくる人物に向けられている訳ではないといえる。彼は過去の記憶に視線を送り続け、その記憶の奥底にある苦悩と恐怖の正体に迫っていく。

 後半になり、ヴェントゥーラが鉛色のペイントを全身に塗りたくった全く喋る事のない兵士と対峙するエレベーターの場面は、ヴェントゥーラの過去において最も忌まわしい記憶を、断片的ながら鬼気迫る緊張感を持って呼び覚ましていく。その記憶とは、カーネーション革命(1974年にポルトガルで起きた軍事クーデター)による戦争のトラウマである。彼の“手の震え”は、このエレベーターの場面で最高潮に達する。

 このエレベーターの場面におけるエレベーター内の塗装や喋らない兵士は銀色や鉛色など冷たい金属の色に統一され、鮮やかな色彩を失っている。それとは対照的にヴェントゥーラの肌やパジャマの色が一際目立って見え、これらは描き分けられているとも取れる。過去と現在の場面はカラーの違いによって描き分けられる事もあると先に述べたが、この場面には、その過去と現在の描き分けが唯一成されていると、私には思えた。

 このエレベーターの場面は現在でも過去でもなく、現在と過去が完全に混ざりあった混沌とした小宇宙であり、そこにヴェントゥーラが遭遇した過去の忌まわしき戦争時代の怨念が、現在を生きるヴェントゥーラの心身を貪り食おうとしているように、私には思えたのだ。喋らない偶像のような兵士は、彼の過去の忌まわしき戦争時代の怨念そのものを表現しているといえる。それゆえに、彼が過去の記憶を巡るうちに垣間見せる苦悩や恐怖という抽象的な観念を立体的に私たちに明示し、そのリアルな造形を持って圧倒してくる。

 このエレベーターの場面では、ヴェントゥーラは苦悩と恐怖に足掻く事はあっても、決して救われる事はない。ヴェントゥーラの手の震えは、病院を出る事になった後の場面においても、ずっと震えたままだ。映画の最後に映されたガラスケース越しに見えるナイフには、死を予感させる。彼は自殺するのか、それとも彼が知っている誰かを、あるいは知らない誰かを殺めるのか。分かる事は一つだけだ。彼らは、いずれ死ぬのだ。

 廃墟のような病院でヴェントゥーラが巡る記憶の旅は、ポルトガルに住むアフリカ系の黒人移民たちの貧困や過酷な労働、戦争の悲劇を呼び起こした。カメラは、決して救われる事のないヴェントゥーラを含めたアフリカ系の黒人移民たちの顛末まで徹底して記録するように描き、同時に彼らの悲しい記憶を今この現在を生きる絵画として描いた。ありふれた救済を差し挟まなかったからこそ、彼らの存在は確固たる輪郭を形成していた。

 ペドロ・コスタは、かつて自身が手がけた『ヴァンダの部屋』(2001)においても、ポルトガルの貧困に喘ぐ移民たちが住む街で麻薬に溺れる主人公ヴァンダの生活風景を、救うでもなく、見放すでもなく、ただ静かに記録し続け、芸術絵画の領域にまで高めた映像を持って、ヴァンダや街に住む人々の生きる姿を一つの絵画として現在に残した。本作では、彼ら移民たちの過去と現在を、ヴェントゥーラを代弁者として描き抜いた。

 この映画は、途方もなく美しい映画ではあるが、その内実にポルトガルに住むアフリカ系の黒人移民たちの決して救済される事のない壮絶な歴史があり、ぼろぼろになりながらも今この現在を生きているヴェントゥーラたちの記憶に寄り添った悲しい映画でもある。観る者の心が受容しきれない切実な重みがそこにある。ひたすら意義深い芸術絵画である本作は、まさしくヴェントゥーラたちのための映画である。

(text:成宮 秋祥)



『ホース・マネー』
2014年/104分/ポルトガル

作品解説
『ヴァンダの部屋』『コロッサル・ユース』などでリスボンのスラム街を描いてきたポルトガルの鬼才ペドロ・コスタ監督が、再び同地区を舞台に撮りあげたドラマ。主演にも『コロッサル・ユース』のベントゥーラを続けて起用した。山形国際ドキュメンタリー映画祭2015インターナショナル・コンペティション部門大賞受賞作。ポルトガルのカーネーション革命やアフリカ諸国の独立といった近代史を背景に、ポルトガルで暮らすアフリカ移民の苦難の歴史と記憶を、虚実入り混ぜた斬新なタッチで描き出す。ポルトガルの首都リスボンのスラム街で、年老いた移民の男が人生を終えようとしている。数十年前にアフリカの火山の島からやって来た彼は、レンガ工場などで日銭を稼ぎながらどうにか暮らしてきた。記憶が途切れ途切れになりながらも、男はかつて故郷で飼っていた1頭の馬のことを思い出す。

キャスト
ベントゥーラ
ビタリナ・バレラ
ティト・フルタド
アントニオ・サントス

スタッフ
監督:ペドロ・コスタ
製作:アベル・リベイロ・シャービス
脚本:ペドロ・コスタ
撮影レオナルド・シモンイス、ペドロ・コスタ

公式ホームページ
http://www.cinematrix.jp/HorseMoney/

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【執筆者プロフィール】

成宮秋祥:Akihiro Narumiya

1989年生。東京在住。本職は介護福祉士。「キネマ旬報」(読者の映画評)に2年間で掲載5回。ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」(neoneo web)や「映画みちゃお!」に映画記事を寄稿。映画交流会「映画の”ある視点”について語ろう会」主催。

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