2017年4月28日金曜日

映画『草原の河』text常川 拓也

『草原の河』/ソンタルジャ


©GARUDA FILM

日本ではじめて劇場公開されるチベット人監督(ソンタルジャ)による映画『草原の河』(2015)は、幼い6歳の女の子ヤンチェン・ラモの視点からチベット高原での牧畜民の生活を切り取っている。カメラは基本的にほとんど子どもの目線の高さに位置して寄り添い、澄んだ映像は純真無垢な彼女のまなざしそのままを表しているかのようだ。それは、私たちがこれまでに映画で触れてきたチベットとは同じでありながら、また異なる景色を提供する。ヤンチェン・ラモは子羊にジャチャと名付け、ペットのように愛しむが、ここではそれは放牧される存在だ。チベットの風景や文化をこれまでとは別の視点で、少女の無垢な視点で見つめることは新鮮な感触をもたらしている。

©GARUDA FILM

私は「ことばの映画館」vol. 4(*)でチベットを代表する映画作家で、本作の共同プロデューサーでもあるペマ・ツェテンについて執筆したが、その中で、彼の作品を観ることで、「チベットの伝統文化と中国の現代文明が衝突した、その相違の混乱の只中にいるチベットの今に私たちは触れることができる」と書いた。また、彼の作品が「ある種の寓話を通して、伝統文化と現代社会の狭間で適応に苦しむチベットの人々の姿や風景に対して」在ることに言及した。実際のところ、それらのことは、彼の盟友であるソンタルジャの作品にも見て取ることができるように思える(ソンタルジャはペマ・ツェテン『静かなるマニ石』(2005)、『オールド・ドッグ』(2011)の撮影監督を務めている)。ちなみに、ペマ・ツェテンは文学的な映画監督、ソンタルジャは映画的な映画監督であるとチベットでは評されることがあるというが、そのような印象を受けるとすれば、それはふたりの出自が前者が小説家、後者が美術家あるいは撮影監督であるというところが大きいだろう。

©GARUDA FILM

確かにチベットの今を見つめる彼らが描くのは、伝統文化と近代化の狭間でアイデンティティの拠り所を失くし、惑うチベットの男たちの姿である。
ソンタルジャの映画の男は、家族間に起きたある出来事を機に頑なに心を閉ざし、周囲に口を開かない。初監督作『陽に灼けた道』(2011)では主人公の男ニマは自身の起こした事故によって母を亡くしてしまったトラウマを抱えているが、監督二作目『草原の河』のグルは、自分の父が死にゆく母を無残に捨てたと考え、身勝手な彼に対してわだかまりを捨てきれずにいる。『草原の河』は視点こそ小さな少女ヤンチェン・ラモに立っているが、物語上の主人公に当たるのはむしろその父グルであると言っていいだろう。どちらにおいても、身近な人の死をどう受け入れるか、どう乗り越えるかということにソンタルジャは関心を寄せている。

©GARUDA FILM

映画は、冬の終わりに、酔っ払って「馬に乗るなら生きてるうち/死んだら駆ける場所がない/酒を飲むなら生きてるうち/馬に乗るなら生きてるうち」と歌いながらバイクを運転しているグルが転倒する場面からはじまる。歌の歌詞とは異なり、砂埃の舞う高原で男は馬ではなくバイク(チベットでは鉄の馬とも呼ばれる)に乗っている。以後、彼は自身のバイクの壊れたミラーを頻繁に気にかけ、タバコを吸いながらたびたびバイクを修理している姿が確認できる。

本作を観て、グルとバイクとの関係性が印象に残った。私たちが目にするのは、一家の中で言葉を発することなく虚無に覆われた父親グルの模様であり、マスキュリニティを喪失した男の姿だろう(ひび割れたミラーを覗き込むグルの顔がそこで分裂して見えるのは、彼の壊れたアイデンティティを確かに暗示している)。グルは自身のトラウマや家族の亀裂と向き合うことよりも、むしろバイクの修理にしか目がいっていないようにも思える。ある意味、グルはバイクと一体化しているのである(ある種ロードムービー的な趣も持つ『陽に灼けた道』では母の死でラサ巡礼の旅に出て荒野を歩き続けるニマがコケる場面が強調して描かれていたが、『草原の河』のグルはバイクに乗ったまま川に落ちたり転ぶ姿が印象に残る)。

『陽に灼けた道』
  ©"A Day in the Life of Tibetan Pastoralists" Production Team  

とりわけ、俯瞰気味のロングショットで捉えられた風景の中、グルが妻と娘にはじめて自身の父親との確執の理由──4年前、病床に伏した彼の母親が最期に父と会うこと希望するも、「行って何の役に立つ? 死ぬのは避けられない。それよりも祈り。お経を読むのが一番だ」と河を渡らず、母親の些細な望みすら叶えなかったことを憎んでいたこと──を告白するとき、彼は二人の周りをバイクで駆けている。増村保造『濡れた二人』(1968)をどこか彷彿とさせるダイナミックな演出がなされた最も印象的な場面である。

なお、第16回東京フィルメックスで来日したペマ・ツェテンに『タルロ』のインタビューをした際(「ことばの映画館」Vol.4に掲載)、彼は文化大革命について、「その時期を経験した人にとっては、(中略)“人民のために働く”ということをすごく洗脳されていた時代であ」り、その時代の人たちは「“自己のためではなく他人のために何かをする”ということが、一種の善であると植え付けられて生きて」きたのだと語っていた。おそらくこのことは、チベットの古い世代であるグルの父の思考を考える上で有益だろう。

©GARUDA FILM

後半、グルは娘とともに町の病院に入院した父を訪ねるため高原から都市部へと向かう。病院を出た後、彼のバイクのミラーが直っていることに注目したい。修繕されたミラーには、彼の父と娘が病院の向かいで座って話しているのが映っているのだ。そして、三人はともにグルのバイクに乗ってロードを駆ける。『草原の河』においては、バイクが荒野と都市を繋げ、そして家族の和解/再生の物語へと接続させている。

一行は、河を前にして水が引くまでその場で待つこととなる。自身の娘と父が和やかな会話をする中、タバコを吸いながらひとり離れて横になるグルに光が差し込み、彼はひっそりと涙を流す。目の前に流れる河は、ただ彼の苦悩と傷を静かに受け入れている。

(text:常川拓也)

*…映画冊子「ことばの映画館」Vol.4

♦Vol.4の内容紹介記事
http://kotocine.blogspot.jp/2016/11/blog-post_20.html

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http://kotocine.blogspot.jp/p/blog-page_8.html
※〔模索舍〕様では通信販売もご利用いただけます



『草原の河』
2015/98分/中国

原題:河|英語題:River|チベット語|DCP|ビスタサイズ|ステレオ


作品解説
長編デビュー作『陽に灼けた道』(2011)でバンクーバー国際映画祭ヤング・シネマ賞グランプリに輝いたソンタルジャの長編二作目にして、日本で初めて劇場公開されるチベット人監督作品。チベットの雄大な自然の中で暮らす遊牧民の一家の姿を幼い少女の目を通して描かれる。2015年ベルリン国際映画祭ジェネレーション部門でのワールド・プレミアを皮切りに、世界各国の映画祭で上映され、峻烈な映像美が高い評価を受けた。チベット高原で牧畜を営む一家の幼いひとり娘は、母が新しい命を授かったことを知り、やがて生まれてくる赤ちゃんに母を取られてしまうのではないかと不安になっている。村人たちと接することなく暮らしている父のグルは、4年前のとある出来事をきっかけに自分の父親をいまも許せないでいる。それぞれがぎくしゃくした関係のなかで生きる娘とその父、そして祖父。家族三代の関係が変化する時がやってくる。撮影当時6歳だった娘役のヤンチェン・ラモは、第18回上海国際映画祭アジア新人映画部門で最優秀女優賞を史上最年少で受賞。日本では2015年、第28回東京国際映画祭のワールド・フォーカス部門にて『河』という原題で上映された。なお、ソンタルジャ監督作品が中国以外で劇場公開されるのは初となる。

キャスト
ヤンチェン・ラモ:ヤンチェン・ラモ
ルクドル(母):ルンゼン・ドルマ
グル(父):グル・ツェテン

スタッフ
脚本・監督:ソンタルジャ
撮影:王 猛 
共同プロデューサー:ペマ・ツェテン

配給
ムヴィオラ

劇場情報
4月29日(土・祝)より岩波ホールにてロードショーほか全国順次公開

公式ホームページ
http://moviola.jp/kawa/

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【執筆者プロフィール】

常川拓也:Takuya Tsunekawa

新潟県生まれ。映画批評。「NOBODY」「neoneo」「INTRO」「リアルサウンド映画部」等へ寄稿。Twitter:@tsunetaku

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2017年4月23日日曜日

映画『作家、本当のJ.T.リロイ』著者ローラ・アルバート、インタビューtext常川 拓也

『作家、本当のJ.T.リロイ』著者ローラ・アルバートinterview


正直に言って、この人の語る言葉を一体どこまで信用してよいものなのかわからなくて戸惑った。それが『作家、本当のJ.T.リロイ』を最初に観た率直な感想である。本作は、若き女装の男娼J.T.リロイの架空の回想録をノンフィクション小説として世に発表した女性ローラ・アルバートのインタビューを中心に構成されている。思うに、本作が信用ならない語り手による告白である点は留意が必要だろう。そもそも回想録というものの中には脚色や誇張が付きものである。事実をそっくりそのまま正確に覚えている人もいなければ、本作においてはほとんど彼女のみの証言、つまり主観的な“真実”の提示が行なわれているからだ。それが長い間、当時の夫の妹サバンナ・クヌープを男装させ、J.T.リロイとして仕立て上げて世間を欺いてきた人間の言葉であれば尚更である。そこには同情を誘うための作り話もあるかもしれない。私たちはその点をいま一度考える必要がある。

あるいは、ほかの人の視点から見れば事実も変わってくるであろう。たとえば、本作と全く逆にアルバート以外の者たちの証言で構成されたドキュメンタリー『The Cult of JT LeRoy』の監督が、J.T.リロイに扮したクヌープはカルトに引き込まれるかのような方法でアルバートから彼女の小道具として雇われていたのだと指摘している点は興味深い(ちなみに、アルバートは『The Cult of JT LeRoy』ではインタビューなど協力することを拒否したようだ)。

しかしこの映画の面白いところは、監督のジェフ・フォイヤージークが、まさにどこまでが本当でどこまでが嘘なのかよくわからないアルバートにはじめて自分自身の声で痛ましい生い立ちについて語らせていることにこそある。本作の冒頭に引用されているフェデリコ・フェリーニの言葉を思い出そう──「生み落とされた作品は作りものとも真実とも異なり、それそのものでしかない」。

『作家、本当のJ.T.リロイ』の公開に合わせて来日したローラ・アルバートにお話を聞く機会を得た。なお、本インタビューは四誌合同で行われたものだが、すべての文責は筆者に帰すものである。(取材・構成・文:常川拓也)




──本作で印象的なのは、映画の多くを通話音声をはじめとしたあなたの過去の記録が占めていることです。素朴な疑問なのですが、なぜあなたは自身の記録を膨大に残していたのでしょうか。ジェフ・フォイヤージークは(前作『悪魔とダニエル・ジョンストン』の)ダニエル・ジョンストン以上にあなたがセルフ・ドキュメンテーションを持っていたと明かしています。

ローラ・アルバート(以下、LA):私はダニエルよりも競争心が強いので彼よりも記録しようと思いました(笑)。冗談はさておき、そもそも私の母がよくオープンリール式のテープで記録をする人でした。母はアーティストで、ほかのアーティストにインタビューをすることがしばしばありました。彼女は自分もアーティストであるとリスペクトされるために、つまりファンとして話をしているのではないということを相手に示すために記録を取っていました。それは彼女の習慣にもなっていました。また、子どもというのはある種の神聖さを持って生まれてくると思うのですが、それが何らかの形で侵害されると、どちらが上か下かというのを子どもなりに知ろうとします。私の場合はその手段が録音したり記録することでした。たとえば本当は言ったはずなのに後になって親が「そんなこと言ってない!」と言った時にどちらが正しいかわからなくなったとしても、記録してあればやはりそう言っていたのだとわかります。ダニエルも同じような理由で記録を取っていたのではないかと私は思います。人は色々なことをすぐに忘れてしまう生き物です。その時はすごく辛くても時間が経つと忘れてしまいます。しかし痛みというものは、自分の土壌の一部になります。それを記録することによって、なぜ私がいまこういう風になっているのかを理解する助けになるとも思いました。人によってはそんなこと忘れたいと思うでしょうが、私の場合はどうしてそうなったかを理解したい気持ちがあったのかもしれません。もうひとつの理由としては、記録することによって後である種コラージュができるというようなアート的な意味合いもありました。なので、そのような痛みから、そしてジャーナリズムの観点から記録をしていました。

──世界への不信感みたいなものを抱いたある時点から意図的に記録しはじめたということでしょうか。

LA:たぶん私はそういう風に生まれついたのかもしれません。というのも、両親がいつも絵を描いている人だったらその子どもにとって絵を描くことがノーマルであるように、私にとっては母がいつも記録していたので、不信感というよりもノーマルな行為でした。母は写真も撮っていましたが、ストーリーテラーでもありました。ユダヤ系ということもあり、ホロコーストのサバイバーの方々へインタビューも行っていました。必ずしも不信感や痛みだけでなく、好奇心もあったと思います。インタビューした時にそれが記録されていると思うと、何かを語ること自体にももちろん意味があることですが、記録されていて長く残ることを意識しながら人が喋っていると何かさらに生まれてくることがあるとも思うのです。

──この作品を撮る前と、撮った後とではどのような心境の変化がありましたか。

LA:自分の中で色々なものを統合する役に立ちました。特に怒りを手放すこと、それから自分のやったことに対して責任を取ることの助けになりました。何というか、色々なことが完了できたような気がします。こういう言い方があります、「あなたは自分の抱えている秘密と同じくらい病んでいる」。そういう意味で言えば、私には全く秘密はなく「何でも聞いて」という感じでした。自分が持っていたマテリアルすべてを監督に渡しました。それは私にとっては恥ずかしく難しいことでもありましたが、すべてを渡すことで自分に対する恥を手放す助けにもなりました。恥を手放すこともとても大変なことでした。写真なんかも恥ずかしいと思って提出しましたが、改めて見てみてるとそんなに恥ずかしくない、そんなに悪くないと思えました。思うに、特に性的・肉体的虐待を受けて育った子どもというのは自分は酷い人間だと信じきってしまっているところがあります。いまになってみると私はもちろん悪いことをしたわけではあるけれど、自分が思ってるほど悪くはなかったし、私は悪意を持ってやったわけではない。その結果、出てきたものが作品となって、アートとなって、色々な人の命を救ったと思います。色々な人から感謝の手紙をもらいましたし、ここ日本でも本や映画を見て助けられたとメッセージをもらいました。そういうことを聞くと自分に平和が訪れるような気がします。そしてまた誰かが私のことを攻撃した時に自分を助けてくれることになりました。

──ビリー・コーガンだけに自分の本当のことを打ち明けたと告白していますが、それは彼があなたがずっと好きで聞いていた音楽を作る人だから何かわかってくれるだろうという思いがどこかあったからですか。それとも彼に会った時に何か特別な魅力を感じたからでしょうか。

LA:その時に私たちはアーシア(・アルジェント)の家に泊まっていましたが、そこには多くの有名人がいて、クローゼットの中にはたくさんの贅沢品がありました。JTも有名人で、私はただのマネージャーでした。何もない、まるで見えないゼロの存在でした。ビリーはJTに会うつもりでいましたが、サバンナがいなかったので、私はスピーディとして話を作り上げなくてはいけなくて、「彼は急に会うのが怖くなっていなくなってしまったの」とでも言おうかと思いましたが、それを考えたらすごく辛くなって、彼に会う前から私は泣いてしまっていました。JTがいなくなってしまったと言うと、きっと彼も私をまた見えない存在として扱ってしまうのではないかと思って怖かったのです。しかし違いました。彼は私を私として見てくれました。別に美人だったからとかそういうことではありません。綺麗な人は周りにたくさんいました。たまにそういうことが起こるのですが、サイキックなエネルギーというか、クジラやイルカのように超音波のコミュニケーションが取れる人だと会った瞬間にわかりました。彼の音楽は私にとって、とても大きな意味があるものでした。というのは、彼がたぶん一番最初に性的な虐待について歌った音楽を作った人だからです。実は最近、彼の50歳の誕生日の際に会いましたが、またさらにコネクションが強まったと思います。彼は本当に素晴らしい人で、「誰にも言わないよ」と言った通り、本当にすべてそのままにしてくれました。私が彼に言ったのはこの本がどれだけ大切で、この本のためならバニー・スーツでも着るわよということです。

──もしNYタイムズに真相を暴露されていなかったとしたら、いまもJ.T.リロイとして活動を続けていたと思いますか。

LA:私の方からNYタイムズの方に行ったかもしれません(笑)。たとえるなら、シャム双生児が肺をふたりでシェアしてるような状態でした。JTの肺が私のよりも強かったような状態でしたが、色々なプロセスを通じて、私のものの方が強くなっていきました。もうひとりでやっていけるという状態になった時に(私の中に)男の子が現れなくなりました。私として生きてももう大丈夫だとなった時に、(もう片方の自分を)切る準備ができていた気がします。自分をキリストにたとえるのは何なんですけれども、キリストは自分に一番近い弟子のユダが自分を裏切るときっと知っていたのだけれども、それはなされなければならなかった。そういう意味では、ジェフは私にとって一番近い人で、彼がユダの役目をしてしまったわけですが、彼はそうしなければなりませんでした。なぜならたぶん私は自分で言わなかったし、サバンナも自分で言わなかったでしょう。だからジェフがやらなければならなかったと感じます。別のたとえをするならば、子どもが自転車に乗る練習をする時に補助輪を外して親に押してもらいますよね。子どもは自分が乗れると思わないから、お父さんやお母さんに「絶対手を離さないでね」と言いますが、親の方が「わかったわかった」と言いながら手を離していて、子どもは自分が乗れてると知らずに乗れてるようなことだったと思います。でも私がやっていたわけです。J.T.リロイという人は実在はしないけれども生き続けていると私は思います。ちょうどある歴史家の方がバッグス・バニーについて同じことを語っていました。バッグス・バニーは実在していないけど生き続けていると。

──リロイはインターネットが発達していない時代だったからこそバレずに済んだのかもしれません。現代だとあのようなことができると思いますか。

LA:いまの時代の方がさらにアバターを持つということがノーマルなことだと思います。なのでいまの子どもたちにとっては「何が問題なの? だってフィクションだったんでしょ?」という話になるかもしれません。特に日本の人はアバターをたくさん持っているのではないかと思います。公的な自分と私的な自分、つまり本音と建前を持っていますよね。だから日本の方には理解しやすいのではないかと思います。たしかにインターネットやSNSがあるとすぐにわかるということもありますが、誰かが私がやったことをいまもう一度やろうと思ってももうできないと思いますし、私はやろうと思ってやったのではなくそういう風になってしまったのです。真珠貝が綺麗なものを作ろうと思って真珠を作っているのではなく、たまたま砂や小石が予定してなかったのに入ってしまって、痛いから色々な液体を分泌するうちに真珠ができてしまうように、アクシデントとして苦しみから生まれ起こったことだと思います。



──アバターを持つことが、あなたにとってある種セラピーとしての働きにも繋がっていたと思われますか。

LA:アバターがあるということよりも、書くということが私にとって癒しに繋がっていました。私はその前には色々なホットラインに電話をしていたわけですが、ホットラインに電話をすることはヒーリングではなく、ドラッグ中毒の人がドラッグをしたり、過食症の人が食べ物を食べたり吐いたりするのと同じようなことで、ただ痛みを麻痺させていただけだと思います。しかし書くことは、折れた骨が少しずつ治っていくような助けになっていきました。そして次第にJTという存在が出てきて、そのJTは身体を欲しがりました。しかし私は彼に身体をあげられなかった。私は男の子っぽい身体つきの女の人がすごく羨ましかったのですが、私の身体はそうではなかった。なのでJTの方が私から出て行ったわけです。私はトランスジェンダーではありませんでした。当時はジェンダー・フルイディティという概念がまだ存在していませんでしたが、私のセクシャリティは非常に流動的だったと感じます。またJTの存在に加えて、息子が産まれてからはまず彼を守らなければいけないという思いも強くなり、スピーディやエミリーも出てきました。周りの人がスピーディやエミリーに怒っても私は気にしませんでした。一番大事な守るべきものは別にある。息子に何かしようとするならば、そのダメージの大きさを知っているので、その人は殺してもいいぐらいに守ろうと思っていたのです。ただ、そういう意味では私の母は私を愛してはくれましたが、守ってはくれませんでした。彼女自身もある種虐待を受けていましたが、助けを得られなかったので、その技量がなかったのだと思います。いまになって思えば、すべてが私を治癒させてくれ、よりよくなる助けになったと思っています。今回、来日して色々取材を受ける中でも様々な情報を得て、自分自身のことを学んでいます。そこで感じているのは、ほとんどの人は自分のことをそんなに大切にしていないと考え、自分で自分のことをわかっているつもりになっているけどそんなにわかってないのではないかということです。常にオープンでいることが大切で、そうすれば、色々な啓示というかサインが知らされてくると思っています。そして自分が取ってしまった行動の理由に気がついて理解していくことも大事だとも思います。アメリカ人はすぐ良い/悪いのモラルで片付けたがるのですが、日本人はアイデンティティにしてもアートにしてももう少し白黒でないグレーのエリアを理解できる人たちが多いような気がします。

──J.T.リロイの物語にアメリカ中があれだけ熱狂したということは、ある種みんなの求めていたものがそこにはあったのかもしれません。当時といまとではアメリカ人の間に何か変化があると思いますか。

LA:最初に人々が反応したのは作品でした。しかしNYタイムズがあれは嘘だとかでっち上げだとか書き立て、メディアの人たちはたぶん本ともども葬り去ろうとしました。しかし本は葬り去られず、「あの本に助けられた」「感動した」と言ってくれる人がいます。アートというものは葬り去ることはできません。本当に色々な人が色々なことを言いました。「あなたがああいう本を書いたのはマドンナに会うためじゃないか」「有名になりたいからじゃないか」と。これは虐待やトラウマがない人でないとわからないかと思いますが、そのような体験について話すことはすごく辛いことです。虐待を受けたことがない人はわからないから注目を浴びたくて書いたのだと責めますが、そんなことはありません。自分がトラウマを受けたことを普通はなかなか口に出しては言えないものです。多くの人が私を中傷し攻撃した理由は様々あると思いますが、もしかしたらそれは成功に対する嫉妬かもしれないし、あるいは出る杭は打たれるということだったかもしれません。トラウマや虐待を経験した人であれば、これが自分のことだと言えず、私的な部分は隠したい気持ちは理解していただけるのではないかと思います。マドンナに会うために本を書いたのではないかと言う人もいますが、いい本を書くことはとても大変なので、それだったらストーカーになる方が楽だったと思います。そういうことがわからない愚かな人がたくさんいるからトランプ大統領が選ばれてしまうわけです。ですが、たぶんいまの方が自分が隠れたいという気持ちを理解してくれる人が増えてるような気はします。ただ、全員を喜ばせることはできません。依存症回復のための12ステップがありますが、その中でアル中の人について言うのは、一杯でも十分すぎるぐらいだし百万杯でも足りないということです。つまり自分の中の空虚さは何ものでも埋めることはできません。私の場合はそれを書くことや作品によってしか埋めることはできないのだと思っています。そういうことを言ってわかる人もいれば、わからない人もいると思いますが、私にとって大切なのはそういう人たちがいるということではなく、書いていく作品だと思っています。

──あなたの告白からは性的虐待や容姿へのコンプレックス、あるいはボディ・イメージに関する強迫観念といった問題が提起されます。そういった問題は、いまだったらたとえばレナ・ダナムやエイミー・シューマーといったアメリカの女性クリエイター/コメディエンヌは架空の回想録ではなく、自分自身の回想録として自身の体験を自身の言葉でユーモアを交えてポジティヴに語っていると言えるかもしれません。現在はノンバイナリー・ジェンダーという言葉もありますが、約20年前と現在では変化をどういう風に思いますか。

LA:たしかにいまの方がそういった言葉があるだけだいぶいいと思いますが、当時、私は暴露された後にトランスジェンダーの人たちから「私たちのトランスジェンダーとしてのアイデンティティを利用した」と一斉に攻撃されました。もう本当に「クソッタレ!」って感じでした。誰も私に書けと言ったわけではありません。強迫的に書かざるを得なくなってああいう風に私は書いたのです。その当時はそういった言葉はありませんでしたが、トランスの人たちやいまで言うジェンダー・フルイディティの人たちは私が書いたことに共感してくれていました。でも暴露された後は、私をまるで退屈した主婦が遊んで書いたのだと言うように攻撃しました。私は自分が感じていた、その当時はまだ言葉にはなかったものをただ書かざるを得なくて書いていました。ジェンダーというものは、白黒というよりもここからここまでの範囲、スペクトラムだと考えています。日本の人はジェンダーのルールみたいなものをファンタジーやプレイで上手く遊んで乗り越えることができる人たちだと思いますが、アメリカはそういう意味では遅れていると思います。

──容姿や体型へのコンプレックスという問題は日本でも多くの人々が共感するであろう事柄でもあると思います。

LA:一番危険なのは、自分が孤独だと思うことです。病気や依存症、中毒といった症状が出るということは、痛みを麻痺させるためだと思います。子どもは大人ではないのでドラックやお酒ではなく、麻痺させるために食べ物に走ってしまいがちです。私たちの文化はもっと繊細さを持ってそういう人たちを見つめる必要があると思います。日本も食生活が変わって肥満の子が増えてきているみたいですが、肥満児になると周囲からからかわれます。彼らは痛みを癒すために、痛みを麻痺させるために食べ物を使っているのに、それによっていじめられてしまい、安全な場所や逃げ場がなくなってしまいます。それを暴力に訴える人もいるかもしれません。アメリカの場合なら銃を撃つかもしれない。しかし女の人の場合は、内面化させることがあるので、自分を責めることになりがちだと思います。繰り返しになりますが、一番大事なのは自分がひとりではないと思えることです。先ほども引用した「あなたが抱えている秘密の量と同じだけあなたを病んでいる」という言葉があるように、秘密はあなたに「お前は悪いやつだ」「お前はひとりなんだ」とそそのかしてくることがあります。なので、その秘密をシェアできる人やグループを見つけることが大事だと思います。また、アートというものも自分自身であるために、あるいは自分の秘密を持たない場として大切になってくると思います。アバターを作ることによって、自分が自分に正直になれるのであればいいのですが、それが自分の本当の人生を完全に生きることを妨げるのであれば、アバターはやはり中毒症状になってしまうと思います。自分から恥を乗り越える方法は必ずあると希望を持ってもらいたいと思います。自分が言うことや言いたいことに対して耳を傾けてくる人は必ずいるし、聞いてもらう方法はきっとあるはずです。人々はよく有名になれば、あるいは美しくなれば問題は解決する、みんなから愛されると思いがちですが、たとえばマイケル・ジャクソンを見ても、白くなっても整形しても彼の狂気は治りませんでしたよね。別に痩せることが問題解決にはなるのではなく、やはり自分の内面的なものと対峙しなければいけないと思います。だからセラピストやグループなど何かスピリチャルなコネクションを持てる人を探す、出会うことが大事だと思いますし、またアートというのはそれを可能にする大きな手段にもなると思います。フェイクなアートというのはありません。アート自体がある意味フェイクでできているわけですから。それは偽のニュースとは違うものです。

──ずっと気になっていたことですが、アーシア・アルジェントは『サラ、いつわりの祈り』(2004)を作る時に実は真相を知っていたと思いますか。

LA:スピーディとして私はその撮影現場にいましたが、そこで脚本を渡されたので、私が直していました。でも誰も何も言いませんでした。何か少し違うなぁ、何か少し変だなぁと違和感を抱いていた人もいるかもしれませんが、作品がそこにある、本がそこにあるということが一番大事だったと思っています。そういう意味でアーシアも誰のために映画を作ったわけではなく、自分のために映画を作ったのだと思います。彼女がそれを知っていたかどうかはあまり関係がない、意味がないことだと思います。

──現在執筆中であるという回想録はどの程度進んでいらっしゃいますか。

LA:半分ぐらい進んだところでしょうか。とても大変で、実はまだJTのところに行き着いていません。二部構成にしないといけないかもしれません。回想録や自伝を私はよく読むのですが、中には何々があって何々があったと中身がダラダラしてしまっているものがあります。私はそういう風にはしたくなくて、練り上げられたストーリーのようにしたいと考えています。そうすると、ほかの書き方ができないので、ものすごく時間がかかってしまいます。私はJTを通じて小説を書いたわけですが、いま自分の自伝を改めて書いていて、どれだけ小説の方にフィクションとしてのある種の真実が書かれていたのかということをいまどんどん発見している最中です。フィクションというのはある種の夢の状態のような感じで、夜に寝ている時に見る夢の中でたとえばゴジラが出てきて戦ったとしたら、それは考えてみると起きている時間に自分の上司と何か問題があったみたいなことがありますよね。そういったことにいまどんどん気がついて、小説の方に真実が書かれていたのだなぁといまになって気がついているところです。また、こういう風に色々なインタビューを受けたりすることで、再びこの作品に生きてもらいたい。先日、(『サラ、神に背いた少年』『サラ、いつわりの祈り』の)翻訳者の金原瑞人さんにもお会いしましたが、彼も素晴らしいアーティストだと思いました。彼は私がJTではなかったことを怒るどころか、作品として非常に価値があると褒めてくれました。今回、日本に来られたことは特権的なことだと思っています。前回来日した時はマネージャーの役をやっていたので、インタビューをそばで聞いていたのですから。しかしそういう役をするということは、木製のコンドームを使ってセックスするような感じなのです(笑)。サバンナは質問の反映しかできませんが、私はテニスをしたいわけです。ちゃんとボールを正しい方向に打ちたい。私は、ヴァンパイアの物語を書いたわけでもロマンスの物語を書いたわけでもありません。みんなが注意を払うべき問題について書いたという風に思っています。いわば生か死かということです。いまトランプみたいな人が大統領になっているわけですが、彼は女性をレイプような人であり、女子ども、あるいは声なき人たちをどんどん切り捨てていくような人です。そういう時代だからこそ、言うべきことはちゃんと声をあげて言わなければいけないと思います。普通のニュースというのは、どれだけ酷いニュース、たとえばシリアで何万人が亡くなったといったニュースがあっても、そうなんだとその時だけ思ってまた皿洗いに戻ってしまうものですが、それが小説という形で感動したりすると、何か脳に変化が起きて違うリアクションをすると思います。たとえばこういう本を読んだ後に太った子がよちよち歩いているのを見たら、笑うのではなくて、何か苦しんでいるのかもしれないと思って、もう少し気にかけてあげようと思うかもしれない。そうすると、もしかしたらその子がアーティストになって、世の中を救うかもしれない。

( text:常川拓也)



『作家、本当のJ.T,リロイ』
(2016年/アメリカ/111分/カラー、一部モノクロ/1.85:1/DCP/原題:Author: The JT Leroy Story)

作品解説
1996年、女装の男娼となった過去を綴った自伝『サラ、神に背いた少年』で一躍時代の寵児となったものの、後に実在しないことが明るみとなった謎の天才美少年作家J.T.リロイにまつわる一連の顛末に迫ったドキュメンタリー。その才能にほれ込んだガス・ヴァン・サントは映画『エレファント』の脚本を依頼し、二作目の著作『サラ、いつわりの祈り』はアーシア・アルジェントによって2004年に映画化された。しかし、2006年のニューヨーク・タイムズによる暴露記事で事態は一変。J.T.リロイという人物は存在すらせず、その正体はサンフランシスコ在住の40歳女性ローラ・アルバートだった。一連の騒動をアルバート自身の言葉をはじめ、ガス・ヴァン・サント、トム・ウェイツ、コートニー・ラブ、ビリー・コーガンらとの通話音声や留守電メッセージなどによって解剖していく。

出演
ローラ・アルバート、ブルース・ベンダーソン、デニス・クーパー、ウィノナ・ライダー、アイラ・シルバーバーグほか

スタッフ
監督:ジェフ・フォイヤージーク(『悪魔とダニエル・ジョンストン』)
撮影監督:リチャード・ヘンケルズ
音楽:ウォルター・ワーゾワ

配給・宣伝:アップリンク

劇場情報
2017年4月8日(土)より新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷ほか全国順次公開中

公式ホームページ
http://www.uplink.co.jp/jtleroy/

(C)2016 A&E Television Networks and RatPac Documentary Films, LLC. All Rights Reserved.

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【執筆者プロフィール】

常川拓也:Takuya Tsunekawa

新潟県生まれ。映画批評。「NOBODY」「neoneo」「INTRO」「リアルサウンド映画部」等へ寄稿。Twitter:@tsunetaku

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2017年4月4日火曜日

映画『永い言い訳』評text今泉 健

「The Long And Winding Road」



 涙を流すのがストレス解消になるというのはよく聞く話である。個人差はいうまでもないが、大人になれば子供の頃程は泣かなくなるのが普通だ。赤ん坊が泣く理由もストレス解消という説もあり、大人とさほど変わらないかもしれない。筆者のことで恐縮だが、いつからか悲しいことや辛いこと悔しいことがあると夢で泣くようになっていた。精神がバランスを取ろうとしているのだろう。とにかく泣いた夢の後は、感情がリセットされ、すっきりした気持ちになる。もっとも40代以降は明らかに以前より涙もろくなって、夢で泣くことはほとんどなくなった。


 映画『永い言い訳』はバス事故の被害者の遺族の話であるが、残された家族に焦点を当てている。いや、むしろ、遺族というより対照的な家族、夫(役名 衣笠幸夫:本木雅弘)がやや落ち目だが売れっ子作家で、妻(役名 衣笠夏子:深津絵里)が美容室経営という子供のいない、世間的には成功者の夫婦と、夫(役名 大宮洋一:竹原ピストル)がトラック運転手で妻(役名 大宮ゆき:堀内敬子)の手狭な感じのする団地住まい。小学六年生と保育園児の一男一女の子供がいる対照的な家族の話だ。たまたま妻が同級生の親友で同じバス事故で亡くなり、男達も関わりをもつようになった。しかし生者を語る時に死者に触れずに語ることは不可能なので、ほんとうに自然と遺族感情の話になっていく。この二つの家庭の対比は『そして父になる』(2013)(是枝裕和監督)と似ている。場面々々の中身は実にきめ細かに描いているが、場面毎の時間差が明確なので、実に良い具合にメリハリがついている、西川監督の手腕だろう。

 元々髪結いの亭主というのは妻を働かせ遊んで暮らす者の総称である。幸夫は成功者だがやはり人格者ではなく、むしろその逆だ。作家を目指したのも結婚前に夏子の後押しがあったからで、実は肝心なことは自分で何も決められないダメ男。多分、不遇な時代は妻に世話になっていたはずだ。今では妻に悪態をつき、プライドの高い子供のようなもので自己正当化も目に付く。葬儀も妻の部下に配慮せず自分勝手に進め、この時点で幸夫が立ち直ることの価値は示されていない。亡くなった妻があまりに不憫だからというくらいだ。この夫を最低な振舞いの人間にまで仕立てたのは罪悪感だ。妻が亡くなったとき自宅で浮気相手と懇ろだったことは、自分を正当化できるはずもなく、重荷となる。やがて浮気相手にすら見限られ、精神的に転落していく。罪悪感によって人間性が蝕まれるというのは実に説得力がある。
 もう一つの家庭の夫、陽一はすぐに泣く。考える前に感情がむき出しになり、「目は口ほどにものを言う」タイプである。幸夫との対比で人間味を持った印象だ。いわゆる「学」はないが、そんなのは生きる為には必要ないと言わんばかりで、中学受験をしようとする息子とは折り合いが悪くなる。

 バス会社の遺族への説明会で初対面の二人だが、ちょっとした事件もあり、幸夫が大宮家の子供の面倒を(週2日)申し出るのも「さもありなん」なのだ。幸夫の心境は「すがりたい誰かを失うたびに誰かを守りたい私になるの」という昔聴いた歌の一節そのままであり、妻に精神的に依存していた証拠だが、この時点で本人にその自覚は全くない。誰かを守るかもしくは世話をすることで恩恵に与るのは、何も受手側だけではなく、為手側も救われることもある。無意識にその辺りを感じた行動ということだろう。出版社の担当者(役名:岸本 池松壮亮)に子育ては免罪符と言われても、まだピンと来ていない。この家族と浜辺に行く場面はまるでゲイのカップルみたいで面白く、ゲイでなくとも『「ツー」メンズ&リトルベイビー』である。もっともそんなささやかな幸せが長続きしないのも、これまた「さもありなん」である。

 主人公幸夫は最後まで泣かない。最初は陽一の涙もろさを揶揄するが、泣けない自分の大きく欠けた何かに気づかされる。自分を正当化する言い訳ばかりではダメ。辛いことがあればちゃんと向き合って悲しまないと精神がバランスを崩す。ただ、あまりも突然大きなものを失うと自分の心の喪失感にすら気づけないのも想像できる。しかし幸夫もやがて泣く日は来るだろう。予兆は示されている。それは妻の死の直後は荒れ放題だった部屋が徐々に片付き、遺品を整理するところまできたからだ。そして、たぶん泣くのは不意をつかれた時ではないか。台湾映画『父の初七日』(2009 )(監督:ワン・ユーリン、エッセイ・リウ)では主人公が葬儀の帰路の空港で父親が好きだった煙草のカートンBOXを見かけた瞬間、しゃがみ込んで泣いてしまう。実に納得の場面で、哀しみはこんな風に胸をつくものだと思う。幸夫も団地の家族と引き合わせたのが妻だと感謝できるようになれば、「言い訳のネタ」もまもなく尽きる頃合いだ。涙までの長く曲がりくねった道のりも残すところあと少しだろう。


(text:今泉健)




『永い言い訳』
2016年/124分/日本 

作品解説 
人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、突然のバス事故により、長年連れ添った妻を失うが、妻の間にはすでに愛情と呼べるようなものは存在せず、悲しみにくれる夫を演じることしかできなかった。そんなある時、幸夫は同じ事故で亡くなった妻の親友の遺族と出会う。幸夫と同じように妻を亡くしたトラック運転手の大宮は、幼い2人の子どもを遺して旅立った妻の死に憔悴していた。その様子を目にした幸夫は、大宮家へ通い、兄妹の面倒を見ることを申し出る。

キャスト
本木雅弘
深津絵里
竹原ピストル
堀内敬子
池松壮亮
黒木華

スタッフ
監督、原作、脚本: 西川美和
製作:川城和実、中江康人
プロデューサー:西川朝子、代情明彦
撮影:山崎裕
照明:山本浩資

配給:アスミックエース

劇場情報
2016年10月14日公開

公式ホームページ 
http://nagai-iiwake.com/

発売情報
Blue- Ray、DVD、2017年4月21日発売決定

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

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2017年4月1日土曜日

映画『未来よ こんにちは』評text大久保 渉

「花に惹き付けられるようにして映画を見つめた」



もしも身の周りの人たちが自分よりも偉く見える日があったら、花を買って妻と親しめばいいと言う人がいた。桜の花があまりにも美しく咲いているのを見て、その樹の下には死体が埋まっていて人の血を吸っているんじゃないかと言う人がいた。本作の主人公は食卓に添えられた花束を見て、「慰めのつもり?」と言いながら怒って花をゴミ箱へと押し込んだ。またあくる日には、花が詰まった花瓶をそっと手にとってリビングの机の上に置き、一息つきながらソファーに寄り掛かって体を休めた。

花は人生の喜悲について回る。冠婚葬祭然り。花言葉は世界各国で異なるものの、それぞれに「愛」や「生」を唄っている。花が見る者の心を揺さぶるのは花自体が生殖を目的に艶やかに咲いているからなのか、それとも見る者の心象によるものなのかは難しい問いだけれども、いずれにしろ人は花を前にして何かを感じずにはいられず、花は人の傍で喜びも悲しみも等しく分かち合ってくれる。

本作『未来よ こんにちは』は、まるでそんな花のような映画だと思った。主人公を演じたフランス映画界の至宝イザベル・ユペールの凛とした立ち振る舞いに魅せられつつも、自らの人生にまで想いを馳せてしまう物語に惹かれる一作。可憐でありかつ素朴な映像の数々が、私の現在と未来にささやかな彩りをもたらしてくれる。


人は他人の立場に立つことができるのか? 映画が始まってすぐに表れる哲学的な一文と、目の前にいる被写体に惹きつけられるようにして向きを変えるカメラの動きが印象に残る。

哲学教師であり母である50代女性の主人公。高校の授業では、学生達から空しい瞳を向けられる。家に帰れば25年間連れ添った夫から突然の別れを告げられ、付き合いのある出版社からは自著の廃版についての話を持ちかけられる。娘息子は既に独立。目をかけていた元教え子の青年はふいに彼女をつくって田舎へと移住し、電話口からは老いた実母の飛び降り自殺の報が告げられる。

主人公にとっては予期せぬ出来事の連続であろう展開が繰り広げられる。しかし、人は他人の心を覗き見ることなんてできないのだから、突然周りが自分から離れていってしまうことなどさもありなんなのだろう。ただもちろん、そんな彼女の気持ちにだって、我々観客は勝手にかわいそうだなどと分かってしまえるものでもないのだろう。


移動中のバスの車窓から別れた夫と新恋人の仲睦まじそうな姿を見かけて、その偶然のタイミングに思わずぷふっと笑いだす。猫アレルギーと言いつつも、亡くなった母親が残した飼い猫を引き取ってネコなで声でよしよし愛でる。映画館で後ろの席に座る知らない男からいきなり体を触られて、普通にキレる。

主人公が教えの現場でモットーとしていることは「自分の頭で考える」ということ。目の前の出来事をどう受け止めていくのか。もちろん彼女の心の中まではさすがに分からないけれども、たとえ雨や嵐に吹き付けられようとも、腐らず、萎れず、泥だらけでも、自分の歩幅で一歩ずつ歩み続けるイザベル・ユペールの姿が、ただひたすらに美しく、愛おしく私の瞳に写った。

「気づけば、私、おひとり様?」――予告編に出てくるこの文言は、不幸の始まりか、幸せの予感か。人は彼女を見て「孤独」や「忍耐」あるいは「恰好いい」等々それぞれに異なった想いを巡らせるかもしれない。けれども、たぶんそれはすべてその通りでもあるのだろう。人によって、花を見て感じることはそれぞれに違うのだろうから。

喜びも悲しみも怒りも孤独も、感じたままに世界は変わる。

ただどうしても、落ち込んで落ち込んで仕方がないときは、花を買うか、本作のイザベル・ユペールの微笑みを思い返して、私は笑みをこぼしたい。

(text:大久保渉)

(C)2016 CG CinemaArte France CinemaDetailFilmRhone-Alpes Cinema


『未来よ こんにちは』
原題:L’AVENIR

2016年/フランス・ドイツ/102分

作品解説
第66回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品され、銀熊(監督)賞に輝いた『未来よ こんにちは』。『あの夏の子供たち』、『EDEN/エデン』など瑞々しい感性と柔らかな語り口で、弱冠35歳にしてエリック・ロメールの後継者と称されてきたミア・ハンセン=ラブ監督が今回の主役に据えたのは50代後半の女性。フランスの大女優イザベル・ユペールを想定して脚本を書いたというだけあって、彼女の魅力が最大限に引き出され、孤独や時の流れをしなやかに受け入れていくヒロインが鮮やかに誕生した。
パリの高校で哲学を教えているナタリー(イザベル・ユペール)は、同じ哲学教師の夫ハインツ(アンドレ・マルコン)と独立している二人の子供がいる。パリ市内に一人で暮らす母(エディット・スコブ)の介護に追われながらも充実した日々。
ナタリーには、才能を誇れる教え子がいた。彼、ファビアン(ロマン・コリンカ)は、ナタリーの授業で哲学の面白さを知り、教師になった若者。久しぶりに会ったファビアンは、既に教師を辞め、執筆をしながらアナーキスト仲間と活動を共にしていた。

キャスト
ナタリー:イザベル・ユペール
ハインツ:アンドレ・マルコン
ファビアン:ロマン・コリンカ
イヴェット:エディット・スコプ 

スタッフ
監督・脚本:ミア・ハンセン=ラブ
配給:クレストインターナショナル

公式ホームページ
http://crest-inter.co.jp/mirai/index.php

劇場情報
2017年3月25日(土)より、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

大久保 渉:Wataru Okubo

映画系文筆/映画館勤め/映画祭好き。執筆・編集『映画芸術』『ことばの映画館』『FILMAGA』他/ KAWASAKIしんゆり映画祭、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭、各種映画祭にて活動中/神奈川県内の映画館にて勤務中。

Twitterアカウント:@OkuboWataru

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