2017年12月19日火曜日

映画『早春 デジタル・リマスター版』評text井河澤 智子

「執着と恋をめぐる長い旅」


2018年1月の劇場公開に先立ち、ポーランド映画祭2017にて上映された、イエジー・スコリモフスキ監督作品『早春』(1970)。日本の劇場にかかるのは実に45年ぶりである。
監督の舞台登壇トークを交え、ご紹介したい。

この作品の完全版を観るのは初めてである。
その昔、この作品がどうしても観たかったのでロンドンに飛び、ソフト探しのつもりが迂闊にもただの観光に終始し、数年後イギリス版BDが出たと聞き購入したが、無念リージョン違い、円盤はただの鍋敷きと化した。ブルーレイにもリージョン違いがあることを知らない程度に無知である。
よって、因果は巡り、今回観ることが叶い、数十年来の心願が成就した気分である。それが一生の心願であってよかったのか、と自らに問いたい。

その疾走感と焦燥感、そして猪突猛進感、なんと言えば文学的に収まるのだろうか。あまり美しい表現ができない。欲しいものがあればそれに向かってまっしぐら、立ちはだかる壁をも破壊し、自らも血を流し他者も傷つけることを恐れない。自分、そして自分が手に入れたいものだけが存在する世界。それは不器用なのか、不器用以前の問題なのかはわからない。

この作品は、あるジャンルの映画、たとえば「青春映画」−−よく例えたもので、特に「童貞映画」と括られる作品たちがあるのだそうだ……誰の命名か知らないが全く素晴らしい例えである−− の「幻の傑作」としてかねてより高く評価されていた。実際に劇場で観た人がそれほど多いとは思えないのに「その名が高い」という不思議な作品だった(その理由は推測できるが、特に重要ではない)。
描かれているテーマそのものは珍しくはない。この作品にもし共感と郷愁、ある種の同調を覚えるとすれば、それは観る者がこのような心境を「知っている」「わかる」からであろう。ざっくり「青春映画」スパッと「童貞映画」と言って差し支えない普遍性を持つ作品である。
しかし、優れた作品は普遍性と同時に(それ以上の)特異性を持つ。そりゃそうだ。

ロンドンの公衆浴場とはどのような施設なのか、サービス係の仕事とはどのようなものか。物語は当たり前のように進み、ほとんど説明めいた描写はない。客とのやりとりの描写はあるが、それは背景の理解に特に役に立たない。「プール」があり、学生が体育の授業で泳ぎに来る。一方、女性客が少年を「襲ったり」、男性客と共に女性サービス係が扉の向こうに「消えたり」、それを快く思わない別の従業員がいたり、さらに少年の両親が息子の働きぶりを見に来て褒めたり、どうにもよくわからない場所である。曖昧な境界線は見える人には見え、見えない人にはわからない。そこに境界線を見出した者は「踏み越える」ということの危うさを体感、あるいは傍観してきた者だろう。

上映後のスコリモフスキ監督のトークによると、この作品は「雪の中でダイヤモンドをなくしてしまった」という知人の話から着想を得たという。たった一つのアイディアから話を(実に論理的に)組み立てていった結果、この作品が出来上がった、というが、その肉付けに、『早春』の前に製作された『出発』(1967)からの流れが感じとられる。

監督の母国ポーランドを離れベルギーで撮影された『出発』は、ジャン=ピエール・レオを主演に迎え、フランス語で物語が進んでいくため、トリュフォーやゴダールを観慣れていると特に違和感がない、というのも変な話だが、ジャン=ピエール・レオという俳優そのものが最早ひとつのイコンであるため、はっきり言ってしまえば彼の出演作はどれを観てもジャン=ピエール・レオの映画である、と言えるだろう。
彼が演じる役どころ。おおむね落ち着きがなく、衝動的で、早口にまくしたてるように喋り、何をしでかすか予想がつかず、なんというか「軽やかな狂気」というか、まぁ、悟ってください。
『出発』で彼が演じるのはポルシェでカーレース出場を目論む美容師マルク青年。おそらく年齢は20歳そこそこ(パンフレットなどには19歳とあるが、劇中で年齢がはっきり明かされる場面はない。車が借りられない年齢であるというくらいだろうか)。
自分の車もないのにカーレースに登録してしまった彼は、ありとあらゆる手段でポルシェを手に入れようと走り回る。バレないのがおかしい詐欺まがい、夜の自動車展示場に忍び込む、美容院の客をたらしこんでの金策、身の回りのもの一通り売ってみては女友達を相棒に車 泥棒を試み、勤務先の店長をだまくらかす......彼の頭の中は「ポルシェで爆走」しかない。
本人もじっとしていられない。開ければいい門扉は飛び越え、犬に噛まれて大騒ぎし、誰彼構わず喚き散らし、殴り殴られ、まことに落ち着きがない。実にいつものジャン=ピエール・レオである。

ふと気づく。トリュフォーやゴダールの映画でおなじみの彼には、いつも「恋愛」があった。主に彼の疾走は女性に向けられていた。しかし、そういえばここには「恋愛」の要素はあらわれない!
そばにいる可愛い女の子(カトリーヌ=イザベル・デュポール……このふたり、ゴダール『男性・女性』でも共演しているので、余計に既視感がある!)はどちらかというと「相棒」としての扱いに過ぎず、ふたり見つめ合う深夜のクルマの中でも「クルマが真っ二つに割れる」という不思議な演出でその距離感が示される……穿ちすぎだろうか。
マルク青年が突っ走る先にあるのは、あくまで清々しくイノセントに「ポルシェ」。彼は、まったくコドモなのだ。コドモがおもちゃに突撃していくように、マルク青年はポルシェに向かって突撃する。この時間は彼にとって「蛹」、羽化直前の逡巡の時。蛹の殻は可愛い相棒の渾身の一撃によって破られる(彼は一瞬目をそらす、そして改めてまじまじと彼女を見る)。女の子は常に男の子より少し大人だ。

話を『早春』に戻す。マイク少年もまったく落ち着きがない。自制心がない。周囲の人々がかなり個性的なのであまり目立たないが相当なものである。気づくと壁によじ登っている。壁の上をぴょんぴょんと飛び回り、飛び降りる。気に入らないことがあると物をぶちまけ、廊下を走り回り、非常ベルを全力でぶち破り流血する。
自転車で疾走する冒頭シーン。あの自転車はマイク少年の分身と言ってもいいのではないか。思いを寄せる同僚スーザンに車で踏み潰されるところも含め。

マルク青年の「ポルシェ」に相当するのが、マイク少年の場合「スーザン」であろう。つきまとい、男出入りにいちいち憤慨し邪魔をし、物損まで起こす。しかしよくよく考えると、彼はスーザンに一体何を求めているのかが今ひとつわからないのである……それを「恋」と考えるならば恋なのかもしれないが、恋っていったいどんなもの? もしかしたら彼自身それがわからないのでは? 
スーザンはいわゆるビッチであり、余計にマイク少年を苛立たせる。婚約者がいるのに浮気性だ、という義憤は裏から見ると自分にだけセックスさせてくれないという不満と、そして独占欲にも思える。性への欲求と恋愛感情はしばしばコンタミネーションを起こす。
彼は繁華街でスーザンによく似た看板を見かけ、かっさらう。この看板娘は彼にとっての「理想のスー」であろう。

はたしてマイク少年はスーザンとどうなりたかったのか。ここで少年の焦燥感(それはとても普遍的な)と監督のアイディア(それはとても特異な)が融合する。

マイク少年と揉み合っているうちになくしてしまったスーザンの指輪のダイヤモンド。それを見つけるシークエンスは非常に独創的である…… いや、これはここまでにしておこう。「雪の中でダイヤモンドをなくしたら、見つけるためには映画監督が必要だ」トークで監督はそんな感じの冗談を言っていたような。
そしてマイク少年は、ある行動に出る(これは『出発』のラストシーンに対応するのかもしれない−− 相手を試す、という点においても)。

欲求は本能でも、行動は学習によるものである。おそらくマイク少年はそのバランスが欠けていたのだろう……そして彼が無意識に呟く言葉は決定的だ。彼もまた蛹の時間、しかし殻の中はまだドロドロだ。まだ羽化には早い、気持ちだけがはやる。

スーザンにとって大事なものはただのダイヤモンドである。誰から渡されたか、どんな意味があるのかにまではあまり関心がなさそうだ。
マイク少年の体を張った駆け引きなど彼女の心を1ミリも動かさない。付き合う義理なんてありはしないのだ。
水のないプールの底。まったく年上の女は子どもの手に負えるものではない。
故意か過失か、行き場をなくした少年の衝動は、溢れ出した水に沈み、思いを遂げる。

マルク青年は次のステージに進み、
マイク少年の時間はそこで止まった。
この2人の人物像を引き継いだのは、『アンナと過ごした4日間』(2008)の中年男、レオンである。
映画作家の張った伏線、とんだ長い年月を経て回収されたものであることよ。

ホットドッグ大食い度:★★★★★

(text:井河澤智子)



 『早春 デジタル・リマスター版』 
原題:Deep end
西独=英 / 1970 / 92分

監督:イエジー・スコリモフスキ

出演:ジョン・モルダー=ブラウン
   ジェーン・アッシャー

作品解説
学校をやめてしまったマイクは、公衆浴場で働き始める。そこで出会った年上の同僚スーザンに恋心を抱くが、スーザンに翻弄され、深みにはまっていく。

劇場情報
2018年1月13日よりYEBISU GARDEN CINEMAほかにて公開予定

公式ホームページ
http://mermaidfilms.co.jp/deepend/

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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子 Ikazawa Tomoko

本文中では省きましたが、この『早春』で使用された音楽について少しだけ。
監督は、ポーランド映画祭2017で上映後のトークで「イギリスとドイツのスタッフを使わなくてはならなかったので、キャット・スティーヴンスとCANを使った」とおっしゃっていましたが、ほぼ同時期の映画では、ハル・アシュビー『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971 アメリカ)でキャット・スティーヴンスの楽曲が使われていて、また、サミュエル・フラー『ベートーベン通りの死んだ鳩』(1972 ドイツ)でCANが使われています。スコリモフスキ監督は多分音にもこだわる人でしょう。音によって時代の空気がはっきりわかるものですね。

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